36: 名無しさん 2018/02/15(木) 23:19:07.57 ID:z0ZlMvOIo

 ――かえでちゃんって、めのいろかわってるね。


「っ……!」


 飛び起き、はしないけれど、布団の中で少し体が跳ねた。
 乱れそうになる呼吸を正すため、ゆっくりと、吸いて、吐いて。
 右手で顔の上――両瞼の上から、目を抑える。
 差し込んでくる朝日も完全に遮る、深い闇。


「……ふぅ」


 なんとか、落ち着くことが出来た。
 とっても昔の事なのに、まだ気にしているだなんて。
 今はそんな事は無いと思っていたはずなのに、自分でも驚く。


「変わってる、か」


 あの言葉を私に放った子は、悪気があった訳ではない。
 子供特有の無邪気さが、他の人とは違う、私の瞳について疑問を持っただけ。
 そう……右と左で色の違う、私の瞳に。


「……」


 ベッドに寝転がりながら、ぼうっと白い天井を見つめる。
 その白さが、私の瞳の色を吸い上げて、どちらの色も無くしてしまえば良いのに。


「なんて、ね」


 ごろりと体を横にして、枕の感触を楽しむ。
 枕に顔を押し付けようとしたら、額にフワリとした感触。


「……前髪、少し伸びたかしら」


 整えに行かなくちゃいけないな、と考え、すぐに思考をやめた。
 今は、ちょっとだけ何も考えたくないわ。

引用元: ・武内P「結婚するなら、ですか」

37: 名無しさん 2018/02/15(木) 23:36:58.82 ID:z0ZlMvOIo
  ・  ・  ・

 子供というのは、純真で――残酷だ。
 無邪気さというものが、必ずしも良い事だとは限らない。


 小さい頃に、瞳の色を指摘された時……私は恐怖した。
 それまでも、父や母、祖父母には「綺麗だ」と褒められる事はあったのに、だ。
 お友達と言っても、やっぱり、他人。
 家族は私を無条件に受け入れてくれると、そう思うだけの愛情を向けてくれていた。


 けれど、他の皆は?


 私の瞳の色が左右で違う事によって、私は集団から排斥されてしまうのでは。
 幼心に、私はそんな風に思ったのだ。
 だから、小さい頃は瞳が隠れるように、前髪を伸ばしていた。
 他人と明らかに違う、異質な、この左右で違う色を放つ瞳を隠すために。


 幸い、それの効果かはわからないけれど、幼少時代は平穏に過ごす事が出来た。
 そして、大きくなっていくにつれて、瞳の色を気にする事はなくなっていった。
 私は、とても恵まれていたのだろう。
 それには今でも感謝しているし、今もまた、周囲の人たちには恵まれている。


「……」


 だけど、たまに……やっぱり、ちょっと怖くなっちゃう。
 モデルとしてやってきた経験もあり、容姿にはそれなりに自信がある。
 モデルを辞めて、アイドルとして活動している今も、それに変わりは無い。


「……」


 洗面台に立ち、目の前の鏡のジイッと見つめる。
 鏡の向こうから見つめ返してくる二つの瞳の色は、やっぱり左右で色が違う。
 これも個性だ、と言ってしまえばそれまでの話なのに。
 昔の夢を見たせいか、今は、その違いがとても気になった。


「……ふぅ」


 しかし、今はそんな事を気にしている場合ではないと、息を吐いた。
 ゆっくりしすぎたせいで、急がないとお仕事に遅れちゃうもの。
 冷たい水で顔を洗って、切り替えよう。


「……」


 私は瞼を閉じ、見つめてくる鏡の中の私から強引に逃げ出した。

38: 名無しさん 2018/02/15(木) 23:51:13.18 ID:z0ZlMvOIo
  ・  ・  ・

「……」


 お仕事の打ち合わせも終わり、あとはお家に帰るだけ。
 だけど、本当になんとなく、ブラブラとプロダクションの中を歩き回っていた。
 こういう事をたまにするから、皆に子供みたいと言われちゃうのかしら。
 でも、今日はちょっと不思議な気持ち。


「……」


 誰にも会わず、一人で居たい気もする。
 誰かと一緒に……誰がが隣に居て欲しい気もする。


 どちらが正解かわからないから、私は今、歩いている。
 それで答えが見つかるとは思っていないけれど、私はこれで行動的なの。
 なんとなく、アイドルになっちゃう位には、ね。


「……」


 けれど、珍しい事に今日は誰にも会わない。


 いつもは年少組の子達が楽しそうにして――


「……」


 ――……今日は、もう帰ろう。


 あの可愛い後輩達は、私の瞳を見てどう思うか、だなんて。
 そんな事を考えてしまう程度には、今日の私はおかしいみたい。


 あの子達だったら、きっと綺麗だと褒めてくれる、受け入れてくれる。
 だけどそれは、私の瞳の色が左右で違うという、異質さを褒めるのだ。


 貴女は、他人とは違う。
 普通とは違うのだ、と。



「――高垣さん?」



 そんな時、とても低い声がかけられた。

39: 名無しさん 2018/02/16(金) 00:05:01.52 ID:g+ryXGAuo

「……――おはようございます」


 帰ろうと思ったタイミングで現れるなんて、何て間の悪い人なのかしら。
 失礼だとは思いながらも、出会ってしまったのなら、挨拶をしなきゃ。
 両手を前で組み、深々とお辞儀をする。
 ちょっぴり抗議するように、いつもより、ことさら丁寧に。


「おはようございます」


 対する彼は、いつも通りの挨拶。
 顔を上げて視線を向けると、やはりいつも通りの無表情がそこにあった。
 とても大柄なこの人と視線を合わせるためには、少し上を向かなくてはいけない。
 だけど、今は、誰かと視線を合わせる気にはなれない。


「あの……」


 いつもは目と目を合わせているが、今日はそれをしない。
 その事を不審に思ったのか、彼はおずおずと、話を切り出してきた。
 珍しい。
 些細な変化だというのに、この人は今日の私が変だと気付いたのかしら。
 そういう事が出来る程、器用な人だとは思わなかった。



「何か……御用でしょうか?」



 けれど、彼が発した言葉は私が予想していないものだった。
 御用? 貴方から先に声をかけてきたんじゃありませんか。
 それなのに、私に尋ねるのは違うと思います。


「いえ……」


 駄目。
 今の私は、本当に駄目。
 変に口を開いたら、目の前のこの人に八つ当たりをしてしまいそう。


「……兎に角、中へどうぞ」


 無言で立ち尽くす私に、彼は、私の横にある扉を指し示し言った。
 何てことはない。
 ブラブラと歩く内に、私がシンデレラプロジェクトの、
プロジェクトルームの前に辿り着いていたから、この人は声をかけてきたのだ。

40: 名無しさん 2018/02/16(金) 00:19:02.67 ID:g+ryXGAuo
  ・  ・  ・

「……」


 彼に促されるまま、私はプロジェクトルームのソファーに座っていた。
 何か飲み物をと言われたが、それはさすがに遠慮。
 だって、元々此処に来るつもりは無かったし、本当に目的が無い。
 それに、彼もお仕事中だし、邪魔するのは悪いもの。
 ……もう、お邪魔をしてしまっているけど。


「高垣さん。何か、ありましたか?」


 彼は、自分のデスクに座ることなく、私の正面のソファーに腰掛けていた。
 そんな位置に座られたら、嫌でも目を合わせなきゃいけないじゃない。
 そうしなきゃ、とても不自然な感じになってしまうから。


「どうして、そう思うんですか?」


 私は、元々あまり表情が豊かな方ではない。
 感情もあまり表に出す方では無かったし、
そういう意味では私と彼は似ている部分もあるのだろう。


 だけど、私はアイドル、高垣楓。
 笑顔をするのは、お仕事の内。



「笑顔です」



 なのに、この人はそんな私の笑顔に、平気で踏み込んできた。
 上手に出来ていたと思ったのに……。
 何故? どうして、私の笑顔を見て、何かあったと思うんですか?


「……」


 なんて、そんな事はわかっている。
 この人はプロデューサー……アイドルを見るのが、お仕事。
 わかっているけれど、悔しい。
 そんな事はないのに、まるで、私の仕事に不備があると責めている様に感じてしまうから。

41: 名無しさん 2018/02/16(金) 00:34:24.09 ID:g+ryXGAuo

「……」


 真っすぐ見つめてくる彼の視線から逃げるように、顔を俯ける。
 前髪がフワリと、視線を遮るカーテンの役割を果たしてくれる。
 けれど、それに何の意味もない事もわかる。


「……」


 この人は、私が何か言うのを待っているのだろう。
 本当に、ひどい人。
 彼は、私が何か言葉を発するまで、そこから動かない。
 目は口程に物を言うとは言うけど、「笑顔です」と言った時の彼の目は、


『話してください!』


 って、まるで大声で叫んでいるかのようだったから。
 無口だなんて、とんでもないわ。
 あんなにも視線で語りかけてくるなんて、とんだお喋りさんじゃないの。


「……」


 だけど……話したく、無い。
 小さい時の、勝手な思い込みで悩むだなんて、そんな弱い姿は見せたくない。
 私にも、意地というものがあるんですよ。
 女の意地じゃない――アイドルとしての意地が。


「……」


 だから、私は顔を上げて、真っ直ぐに彼の視線を正面から受け止めた。
 瞳の色が違うだなんて、そんな事は気にしていられない。
 他のことに気を取られていたら、この真っすぐな、誠実な瞳に負けてしまうから。



『話したくありません!』
『話してください!』



 男と女の情熱的な見つめ合い?
 いいえ……これは、アイドルとプロデューサーの、意地と意地のぶつかり合い。

43: 名無しさん 2018/02/16(金) 00:51:41.30 ID:g+ryXGAuo

「……」


 お違い無言で、言い合う。
 負けるわけにはいかないわ。
 私の――アイドル高垣楓の後ろには、ファンの方達がついてくださっているから。
 こんな、デリカシーの無い人に、負けてなんていられない。


「……」


 どれほど視線を交わしていたのだろうか、わからない。
 だけど、勝敗はついた。


「……!」


 勝ったのは――私。
 アイドルとしての意地が、この人のプロデューサーとしての意地に勝った。
 ふふっ、勝敗がついて、たしょうハイになっちゃうわ!
 どうだ、と視線に乗せて彼を見ると、


「……」


 さっきまでの雄弁さは、どこかへ行ってしまったのかしら。
 その表情は、無表情というより、ただ、ボウっとしているといった風。
 心ここにあらず、とでも言えばいいのか……とにかく、ちょっと変。


「あの……?」


 これは、不思議に思ったから声をかけただけ。
 それに、先に声を出した方が負けだなんてルールじゃなかったですから。


「っ!? あ、いえ……申し訳、ありません」


 私が声をかけると、彼は驚いて体をビクリと震わせた。



「その……高垣さんの瞳に……はい、見惚れて、しまっていました」



 彼が右手を首筋にやりながら放った言葉は、見事に私を貫いた。

44: 名無しさん 2018/02/16(金) 01:08:34.77 ID:g+ryXGAuo

「……私の瞳に、ですか?」


 本当に……本当に、悔しいけれど、一勝一敗。
 勝ったと思ったら、急に、そんな事を言うだなんて。
 本当に、ずるい。


「はい」


 プロデューサーのお仕事は、アイドルを見る事ですよ。
 それなのに、見惚れてしまっていただなんて……。
 それじゃあ、まるで貴方は私のファンみたいじゃないですか。
 ファンなのだとしたら……そんな、後ろから急に押されたら――



「……私、左右で瞳の色が違うでしょう?」



 ――前に、踏み出しちゃうじゃないですか。


「それで、普通とは違うから、そう感じるだけだと思います」


 でも、これじゃあ……踏み出す所じゃないわ。


「……私は、それも高垣さんの――」
「――個性の内、ですね。確かに、その通りだと思います」


 どこに足を踏み出せばいいのかわからず、たたらを踏んでいる。


「だけど……違うんです」


 私は、また俯いた。
 ソファーに座っている、私の脚は地面についているのに、どこに居るか分からない。
 考えもまとまらず、自分でも何を言っているのか、何が言いたいか分からない。


「……」


 嗚呼、本当に……消えてしまいたい。

45: 名無しさん 2018/02/16(金) 01:20:46.38 ID:g+ryXGAuo

「その、私は……!」


 彼が、とても困っているのがわかる。
 他人が、身体的特徴について悩んでいると、告げてくる。
 そういう時にどう答えるかの正解なんて、有りはしない。
 ……こうなりたくなかったから、一人で居たかったのね。


「瞳の色が違うのは……です、ね……!」


 瞳の色が違っても、綺麗。
 どちらの瞳の色も、綺麗。
 色なんか、関係がない。


 ――全部、言われてきた。


「……」


 きっと、彼もこの内のどれかを言ってくれるのだろう。
 それによって、私のグチャグチャな感情は整えられる。
 普段通りになった私は、笑顔で彼にお礼を言って、一安心。
 それで、おしまい。


「……」


 本当に、嫌な女だ。


「私は、おっ……」


 焦る彼を冷静に見続け、慰めの言葉を待っているだけだなんて。
 なんて――



「お得だと、そう、思います……!」



 ――……なんて?

46: 名無しさん 2018/02/16(金) 01:47:42.70 ID:g+ryXGAuo

「お得……ですか?」


 言うに事欠いて……お得?


「……申し訳、ありません」


 今の言葉は失敗だったと思ったのだろう。
 彼は、右手を首筋にやって、さっきまでとは別の困った感情を瞳に浮かべた。


「お得……」


 普通、そんな事言います?


「お得って……――ふふっ!」


 悩んでいる人間に対して!


「ふふっ……うふふっ! お得って……ふふふっ!」


 ……本当に、ずるい人。
 不器用で、無口で……そして、とっても誠実で。
 そんな貴方の発する言葉だからこそ、それで良いのだと思えてしまう。


「……」


 笑いだした私を見て、また困った顔をする彼。
 それがまたおかしくて、大声で笑ってしまう。
 今この場に居るのは私達だけだから、気にする必要はありませんよね?


「ああ、おかしい!」


 私の左右の瞳の色が違うのは、お得なのね。
 うふふっ、そんな風に考えるだなんて、思ってもみなかったわ!
 さっきまでとはうって変わって笑い転げる私に、


「良い笑顔です」


 と、彼は真っすぐ、言った。
 彼の目の色が変わっていたが、その目はプロデューサーとしてか、ファンとしてか。
 はたまたそれ以外の何だったかは、私にはわからなかった。



おわり

59: 名無しさん 2018/02/16(金) 22:59:14.69 ID:g+ryXGAuo

「っ……!?」


 動揺、そして、緊張が私を支配した。
 プロダクション内の一角。
 私の視線の先に、一人の少女が壁にもたれかかりうずくまっていた。
 あの、特徴的な髪型は見覚えがある。


「大丈夫ですか!」


 思わず、大声が出た。
 走り寄る時の革靴が立てる音が、廊下に響き渡った。
 彼女に駆け寄り、すぐさま腰を落とし顔色を確認する。


「っ……!」


 彼女の顔は真っ青になっていた。
 額には脂汗が浮かび、何かに耐えるように、唇は引き締められている。
 その歪んだ表情は、彼女の体調に異変が起きている証拠。
 一刻も早く、何とかしなくてはならない。


「すぐに、人を呼びます!」


 携帯電話を取り出し、画面を立ち上げる。
 パスコードを入力するのが、こんなにももどかしいと思ったのは初めてだ。


「待って……!」


 だが、彼女は震える声で私の行動を制止した。
 その目に込められた意思は、まるで体の弱さを感じさせない、とても強いもの。
 流石はアイドルと言った所なのだろうが、そうも言っていられない。


「いえ、待てません」


 担当は違えど、私はプロデューサー。
 アイドルを助けるのは、プロデューサーの……いや、
今にも崩れ落ちそうな少女を助けるのに、理由など必要では、無い。


「待って! お願い――って、あっあっあっあっ!?」


 ……なんだ、この素っ頓狂な声は?
 私は、思わず携帯電話を操作する手を止めた。

60: 名無しさん 2018/02/16(金) 23:10:41.03 ID:g+ryXGAuo

「あの、大丈夫ですか!?」


 明らかに、彼女には異常が起きている。
 しかしこれは……貧血や、体調不良とは、また違った症状に感じる。
 だが、その正体はわからない。



「大丈夫……セーフ……出てない……漏れてない……!」



 わかりたく、無かった。
 彼女が此処に蹲っていたのは、その、便意が限界を迎えたからなのだろう。
 しかし、大なり小なり、これは由々しき事態だ。


「……トイレまで、行けそうですか?」


 由々しき事態ではあるのだが、先程までの焦りの反動か、
私は自分でも意外な程、事態に冷静に対処する事が出来た。


「……むり」


 また、彼女を波が襲ったのだろう。
 涙目で上ずった声を出す彼女は、フルフルと首を横に振った。
 その視線は、私に助けを求めている。


「そう……ですか」


 冷静に対処出来てはいるが、良い解決策が浮かぶ訳ではない。
 だが、思考を止めるという事は、諦めるも同義。


「私が、手を貸しても……でしょうか?」


 一人では立って歩けないのならば、いくらでも手を貸そう。
 彼女の手を引き、トイレまでの道をゆっくりと歩んでいこう。


「駄目……触られたら――出る」
「……成る程」


 カチリと、私の思考が止まった音が聞こえた気がした。

62: 名無しさん 2018/02/16(金) 23:24:09.18 ID:g+ryXGAuo

「……」


 右手を首筋にやり、ほんの数秒だけ、心を休める。
 この癖がいつ付いたのかは記憶にないが、少しだけ、落ち着いた。


「落ち着いて、聞いて下さい」


 震える彼女に、可能な限り、優しく語りかける。
 本音を言えば、助けを呼ぶフリをしてこの場から逃げ出したい。


「……な、何……?」


 だが、彼女はアイドルなのだ。
 そして、私はプロデューサー。



「この場で、していただきます」



 漏らすなど、彼女が許してもファンが許さない。
 漏らすなど、神が見逃しても私が見逃さない。


「っ……!」


 私の視線で、今の言葉が本気だと理解したのだろう。
 仕方ないとは、自分でもわかっているのだろうが、
彼女は、信じられないものを見るような目を私に向けていた。
 それ以外に何か方法があるのならば、はい、私もそうしていただきたいです。


「……どうぞ」


 蹲る彼女の足元に、スーツの上着を敷く。
 廊下に直接ぶち撒けるよりは、マシな結果になってくれると、そう、信じている。
 着心地が良く、最近ではお気に入りの一着だったのだが、仕方がない。
 アイドルの――彼女のためならば。


「……」


 無言で、見つめ合う。
 彼女からは、甘い、チョコレートの香りが漂っていた。

63: 名無しさん 2018/02/16(金) 23:42:39.44 ID:g+ryXGAuo

「……」


 バレンタインデー。
 その行事では、アイドルの彼女達が、普通の、等身大の少女の笑顔を見せてくれた。
 義理堅い彼女達は、私にもチョコレートを贈ってくれ、
日々、少しずつではあるがありがたく、大切にそれを頂いている。
 彼女も恐らく、その残りを片付けようと思い、少し食べすぎてしまったのだろう。


「う……うぅっ……!」


 青かった顔は、真っ赤に染まっている。
 覚悟を決めたと、そういう事なのだろう。


「それでは……私は、離れています」


 チョコレートの食べ過ぎには、十分に注意しなければならない。
 チョコレートに含まれる成分は、取りすぎるとお腹を壊す原因になる。
 特に、調子がすぐれない時はそれが顕著で、普段からあまり体調の良くない彼女の事だ。
 摂り過ぎたチョコレートが、彼女の腸にTrancing Pulseとなって走り抜けたのだろう。
 事が済み次第……注意しなければ、なりませんね。


「待っ……て……!」


 腰を上げ、離れようとした私を止める声。
 その声は、もう限界寸前と言った様子。
 待ちたくない、今すぐに離れたいという気持ちを胸の奥に押し込む。


「……!……!」


 もう、声もハッキリ出ていない。
 ……いや、微かだが、聞こえる。
 私は再び彼女の前に膝をつき、顔を寄せて、それに耳を傾けた。



「ひとりに……しないで……」


 とても弱々しい声。
 そして、普段の彼女からは微塵も想像出来ない、圧倒的なパワー。


「……!?」


 私は、ネクタイを捕まれ、この場から離れるという選択肢を放棄させられた。

65: 名無しさん 2018/02/17(土) 00:01:26.55 ID:Q/WkJIiQo

「待ってください……待ってください……!」


 ここで、彼女の手を振りほどく事は簡単だ。
 いかに力を込めているとは言え、相手は十代の少女。
 成人男性の私が本気で抵抗すれば、難なくそれを行える。


「ほぅ……ふぅ……!」


 だが、それを行った瞬間、目の前の爆弾は弾けてしまう。
 何故、どうして私を巻き込むのですか!


「そばに……」


 うどんに。
 ――落ち着け! まだ、何か方法はあるはずだ!
 まだ! まだ――



「……いたいよ」



 熱い吐息が、私の鼻孔をくすぐった。
 濃厚なチョコレートの香りの向こうで、見た目だけはチョコレートに似た、
幸せの残滓がビチャリビチャリと生成されていく。
 せめて、その姿だけは見るまいと、きつく目を閉じた。
 欲を言えば、鼻も塞ぎたい。


「泣いちゃってもいい?」


 彼女の声は、先程までの抑圧されたものではなかった。
 焦りも不安も無く……そこには、ただ、羞恥と悲しみだけが広がっていた。


「……どうぞ」


 そのような声を出されては、こう答える他、無い。
 ネクタイをグイと引き寄せ、私の胸に縋り着き、顔を見せずに泣く彼女。
 普段の私ならば、アイドルとプロデューサーの関係が、とすぐさま離れていただろう。
 ……だが、それは出来なかった。


「……」


 巻き込まれた憤り、そして、異臭に苦しむ表情を見せられないからだ。
 染みは、どんどんと広がっていく。
 あと、どれくらいかな?



おわり



291: 名無しさん 2018/02/24(土) 22:24:16.16 ID:QGx9u0Uyo

「……パーパ」


 シンデレラプロジェクト冬の合宿の、夜。
 時刻は、おそらく深夜のニ時を過ぎたあたりだろうか。
 私は、不意に聞こえたつぶやきで目を覚ました。


「……」


 ゆっくりと、声のした方へと顔を向ける。
 すると、そこにあったのは、銀色の髪の、美しい少女の寝顔。
 シンデレラプロジェクトのメンバー、アナスタシアさんが幸せそうな顔で眠っていた。


「……すぅ……すぅ」


 先程の、「パーパ」というのは寝言だったのだろう。
 彼女は、私の左腕を枕にし、その白い頬を胸元にすり寄せている。
 普段のアナスタシアさんからは想像できない、なんともあどけない姿。


「……」


 このまま、アナスタシアさんの、可愛らしい姿を見続けていたい。
 そんな衝動に駆られたものの、すぐにその思いを切り捨てる。
 彼女は、アイドルで、私はプロデューサー。
 そして、それ以前に、成人男性と、未成年の少女なのだ。
 この様な状況は、あってはならない。



「――待って」



 アナスタシアさんに声をかけようと口を開いた私に、彼女とは反対側から声がかかる。
 機先を制される形となった私は、声をだすことなく、その出処へ目を向けた。


「このまま、寝かせてあげて」


 声の主は、同じくシンデレラプロジェクトのメンバー、渋谷凛さん。
 私の右腕を枕にし、右の人差し指を口元にやり、シィ、とこちらに指示してくる。


「渋谷さん……」


 何故、あなたがそこで寝ているのですか?

294: 名無しさん 2018/02/24(土) 22:38:57.01 ID:QGx9u0Uyo

「アーニャ、ちょっとホームシックみたいなの」


 ホームシック。
 その言葉を聞き、少し驚いた。
 普段の彼女からは、そんな様子は微塵も伺えなかったからだ。
 いつも明るく、穏やかで、白い妖精のような存在。
 それが、私がアナスタシアさんに抱いていたイメージだ。


「ロシアから北海道へ行って、そして、今度は両親からも離れて、さ」


 確かに、彼女はあまり日本語が得意だとは言えない。
 意思の疎通が出来ないという事は無いのだが、少し難儀している場面も多々ある。
 恐らく、それが積み重なってホームシックという形になったのだろう。


「それに、最近は二つのプロジェクトを掛け持ちして、忙しいから……」


 渋谷さんと、アナスタシアさんは、二つのプロジェクトを兼任している。
 シンデレラプロジェクトと、プロジェクトクローネ。
 二つのプロジェクトを掛け持ちしつつ、学校へ通い、レッスンも受ける。
 私には想像もできない程の、彼女達しか知り得ない苦労もあるのだろう。
 そういった面でのケアが出来ていたか、あまり、自信が無い。


「だから、さ。寝ぼけて布団に入るくらい、許してあげてよ」


 渋谷さんは、夜中、フラフラと起き上がったアナスタシアさんが私の部屋に入るのを見たそうだ。
 そして、夢遊病のような足取りで、私の布団に潜り込み、今の体勢になった、と。
 そう、教えてくれた。


「……なるほど、そういう事でしたか」


 眠る、アナスタシアさんの顔を見つめる。
 この穏やかな寝顔は、私の胸に顔を預け、安心しきっているからなのだろうか。
 先程の寝言から察するに、私を父親と勘違いしているのかもしれない。
 そう考えると、こんな大きな娘はまだ……と、思う気持ちと、
頑張る我が子を見守る父親のような気持ちの二つが溢れてくる。


「……ん」


 アナスタシアさんを起こさないよう左腕を曲げ、頬にかかる髪を優しくどかす。
 すると、少し眉間に寄っていた皺がなくなり、より一層、穏やかな寝顔になった。


「……さて」


 渋谷さん? それで、貴女がそこで寝ている理由は?

295: 名無しさん 2018/02/24(土) 22:52:18.85 ID:QGx9u0Uyo

「……私も、ちょっとホームシック」


 合宿初日です。


「それに、私もかけもちで忙しいしさ」


 そうかも知れませんが理由になりません。


「だから、私ももう寝るね」


 いけません、起きて下さい。


「大声を出したら、アーニャがビックリしちゃうから静かにして」


 優しく起こせば良いだけなのでは?


「……すぅ……すぅ」


 寝ないで下さい、頬をすり寄せてこないで下さい渋谷さん。


「う~んむにゃむにゃ」


 う~んむにゃむにゃ!?


「……」


 渋谷さんは、どうやらこのまま全てを有耶無耶にし、ここで寝るつもりらしい。
 私の胸に頬をすり寄せ、脚を絡めてくる彼女は、普段の姿とはまるで違う。
 その幸せそうな、良い、笑顔。


「渋谷さん」


 私は、今からそれを破壊しようと、そう、思います。


「起きて下さい」


 アナスタシアさんは、無意識の内に行ってしまった事……まだ、許せる。
 しかし、渋谷さんは明らかな確信犯なのだ。
 アイドルとプロデューサー。
 男と女以前に、大人と子供……子供を叱るのは、大人の役目だ。


「~~~っ!?」


 私は、右腕を曲げて渋谷さんの頭を鷲掴みにし、その掌に力を込めた。

296: 名無しさん 2018/02/24(土) 23:12:07.42 ID:QGx9u0Uyo

「あっ……こ……かっ……!?」


 渋谷さんは、スタイルも良く、小顔だ。
 その小さな頭は、私の人よりも大きい掌に収まる。
 故に、かなり力の入れにくい今の状態であっても、相当な圧力を加える事が出来る。


「起きて、自分の布団に戻りましょう」


 小声で、優しく語りかける。


「こっ……ここで……寝る、おひぃっ……から……!」


 なんという意思の強さだろう。
 彼女の名の如く、凛としたその眼差しには、絶対に此処に居続けるという想いが見て取れる。
 痛みに耐え、涙の浮かぶその目で、私を真っすぐに見つめてくる。


「お願いします」


 なので、もっと力を込めようと、そう、思います。


「あっ……~~~っ、こぽ、ぽ、ぽっ……!」


 しかし、渋谷さんは自分を曲げない。
 目を限界まで見開き、歯をギリギリと食いしばり、耐えている。
 ヒフヒフと流れそうになる鼻水をすすり、ああ、涎は垂れてしまいましたね。


「~~~っ!~~~っ!」


 だが、それでも渋谷さんは声を荒らげない。
 アナスタシアさんが起きてしまったら、すぐにでも一緒に部屋を追い出されるとわかっているからだ。
 衝撃も伝わらないよう、膝をくの字に曲げては伸ばし、もがいている。
 およそアイドルとはかけ離れた、今の渋谷さんの姿。


「……渋谷さん」


 その渋谷さんの頑張りに、私は、不覚にも感動してしまった。
 掌から力を抜き、彼女の頭を圧力から開放する。
 すると、渋谷さんは緊張しきっていた全身から、一気に力を抜き、


「よく、頑張りましたね」


 安堵の顔とともに、気絶した。


 ――ので、あとはアナスタシアさんを優しく起こすだけ、ですね。

297: 名無しさん 2018/02/24(土) 23:27:41.80 ID:QGx9u0Uyo

「……」


 渋谷さんは、完全に気を失っている。
 そうでなければ、白目をむき、涎と鼻水を垂らした顔を私に見せはしないだろう。
 アナスタシアさんを起こしたら、彼女の顔も綺麗にしなくては。
 そう、思いながら、渋谷さんから目を離し、
アナスタシアさんの方へ顔を向けようとしたが――


「……」
「……」


 ――天井で蠢く、何かと目が合った。


「……」
「……」


 その何かは、一糸まとわぬ姿で、美しい裸身を惜しげもなく晒している。
 冬の冷たい澄んだ空気は、月光を遮る事はない。
 月の光に照らされた姿は、まるで女神のようだ。
 天井に、忍者のように張り付いていなければ、だが。


「……」


 天井に張り付く物体は観念したのか、目を閉じ、言った。



「う~んむにゃむにゃ」



 う~んむにゃむにゃ!?
 待ってください!
 寝相で片付けようとするのは、あまりに強引すぎます!


「あの――」


 天井に張り付いている物体に声をかけようとした瞬間、月の光が消えた。
 ほんの一瞬、雲で月が隠れてしまったのだろう。
 だが、その瞬きするしか出来ない程の時間で、


「いない……!?」


 彼女は、闇に紛れた。

300: 名無しさん 2018/02/24(土) 23:52:10.08 ID:QGx9u0Uyo

「っ……!?」


 どこだ……どこへ消えた!?
 姿の見えない相手から襲われる。
 これほどの恐怖が、あるだろうか。


「……!」


 首を起こし、周囲を見渡してみても特に変わった様子は無い。
 ……いや、ある、見つけた。
 布団の足元に、伏せている状態の、一人分の人影が。
 恐らく、彼女は気づかれないように布団の足元から入り込もうとしている。
 そして、本能の赴くままにしっちゃかめっちゃかする気なのだろう。


「……」


 だが、そうはさせない。
 両腕が塞がっているが、両脚は自由がきく。
 布団に入り込んできた瞬間、両の脚だけで三角絞めをし、一瞬で落とす。
 申し訳ありません、少し、手荒な形になってしまい――



「チャラランチャララン♪ チャララン♪ チャララン♪」



 ――えっ?
 何故……耳元から……『Memories』の前奏を口ずさむ声が!?
 ならば、あの足元の人影は――……身代わり!
 いつの間に、渋谷さんと入れ替わったのですか!?


「チャラリンララン♪」


 反対側からも!?


「「チャラリンララン♪」」


 ……成る程、はじめから渋谷さんは囮だったと、そういう事ですか。
 私を挟んで、寝転がりながら情熱的に『Memories』を踊る二人。
 そんな彼女達の今の表情は、きっと、とても艶のあるものなのだろう。


「自分の布団に戻りましょう」


 私は、今からそれを破壊しようと、そう、思います。


 両腕を曲げて、二人の頭を鷲掴みにし、その掌に力を込めた。
 合宿中は眠れない夜が続きそうだと、怒りと悲しみを込めて。


おわり

309: 名無しさん 2018/02/25(日) 21:43:19.97 ID:zabzgcsho

「……」


 シンデレラプロジェクト冬の合宿二日目の、夜。
 もうすぐ日付が変わろうとしている真夜中。
 私は、眠気と戦っていた。


「……」


 今夜の襲撃者は誰だろうか。
 話せばわかってくれる相手ならば、それで良い。
 もしそうでない場合は、強引な手段を取らざるをえない。
 それは、心が荒む行為であるため、可能な限り避けたい所ではある。


「……」


 嗚呼、なのに……私の部屋の前に、人の気配を感じる。
 声もかけず、ノックもしない。
 これは、明らかな夜襲だろう。
 今夜、私を困らせてくる相手は、一体誰なのだろうか。



「――one,two,kiss,kiss♪」



 ……そう、でしたね。
 三日目からは、プロジェクトクローネも合流する予定でした。
 そして、貴女は「せっかくだから」と、
前日の今日から前入りをしていたのを思い出しました。


「ねえ、見て」


 二日目だからシンデレラプロジェクトのメンバーは疲労も蓄積している。
 なので、今日の戦いは初日よりは楽だろうと考えていたが、甘かったようだ。


「ほら、綺麗な月だね」


 布団に寝そべったまま、首を傾けて窓の外を見る。
 窓の外では、丸い月が美しく輝いていた。

310: 名無しさん 2018/02/25(日) 21:57:49.04 ID:zabzgcsho

「そう、今、から、関係なくなる」


 とても情熱的に歌っているが、部屋の電気を点けてしまおうか。
 衣擦れの音と、トタトタという足踏みの音から察するに、
彼女はテンションが上がりきってステップも踏んでいるようだが。


「鳴り出した予感のベル」


 だが、そんな事をしたら彼女は立ち直れない傷を負ってしまうかもしれない。
 私は暗い部屋に居続けたので、
暗い部屋の中でも月明かりを頼りに彼女の今の行動がほとんど丸見えなのだ。


「降りたい、この環状線」


 ノリノリ。
 そう、彼女はノリノリで『Hotel Moonside』を歌い、踊っている。


「アリバイを三度ペンで~な・ぞ・れ・ば♪」


 アリバイも何もない、完全な現行犯。
 何故、彼女がここまで盛り上がってしまっているのか、私にはわからない。
 恐らく、シンデレラプロジェクトのメンバー達に何か言われたのだろうが……。


「静まってく大都会」


 田舎特有の大きな虫の鳴き声は、冬の今は聞こえない。
 なので、彼女の歌声が、ハッキリと聞こえる。


「と、特別な……よ、夜のサイン」


 彼女は……今日を特別な夜にしようと言うのか。
 申し訳ありませんが、貴女のその想いには、応えられません。


「明日にな~らない――」


 立ち上がり、部屋の電気を点ける。


「――場所ま……で……いこ、うよ」

311: 名無しさん 2018/02/25(日) 22:12:24.64 ID:zabzgcsho

「……」
「……」


 左手を胸の前に構え、右手を突き出してこちらを指差している。
 『Hotel Moonside』の振り付けの通りなのだが、その指はまっすぐに私を指していた。
 貴女は、これからどうするのでしょうか。
 歌と踊りを続けるのか、はたまた、何事も無かったかのように部屋を出て行くのか。


「……」


 どちらを選んだとしても、見守ろうと、そう、思います。


「……いつから?」


 彼女は、微動だにせず、ポツリと問いかけてきた。
 これは、恐らくどの時点から彼女の奇行を見ていたのか、という質問だろう。
 中途半端な慰めは不要。
 彼女の目が、そう告げていた。


「申し訳ありません。最初から、見えていました」


 こちらとしても、気にせずそのまま迫られても非常に困る。
 なので、立ち直れはするが、膝にくる程度の傷は負っていただきます。


「そう……なら、見ていたお代は、キスで貰えるかしら?」


 年齢にそぐわない艶のある笑み。
 彼女は、こんな状況にも関わらず、なんと余裕のある態度が取れるのだろう。
 しかし、寝不足なので、少々その態度は腹が立ちます。


「……」


 私は、両手で手拍子をうった。
 パンパンと、軽快な音が響き渡る。


「君が、もしその手を~離したら~すぐにいなくなるから~♪」


 手拍子に合わせ、歌う。
 彼女とは似ても似つかない、低い声ではあるが。

312: 名無しさん 2018/02/25(日) 22:26:09.23 ID:zabzgcsho

「手錠の鍵を探して」


 手拍子をしつつ、歌う。


「っ……!」


 彼女は、みるみる顔を赤くし、膝をガクガクと震わせている。
 全て見られていた、という羞恥が彼女の中で暴風の様に荒れ狂っているのだろう。


「捕まえて~」


 彼女は、耐えきれるのだろうか。


「っ……!……!」


 ……いや――


「one,two――「もう……許して……!」


 ――耐えきれる、はずがない。
 両手で顔を覆い、その場にしゃがみこんでしまった。
 カウントスリーは必要のない、テクニカルノックアウト。
 手で隠しきれない耳は、赤く染まっている。


「部屋に、戻って頂けますか?」


 これ以上、彼女を辱める必要は無いだろう。
 おとなしく部屋に戻ってくれさえすれば、私は満足するのだから。
 お願いします、私を寝かせて下さい。



「……ふふっ、キスしてくれたら、お願いを聞いてあげようかしら」



 ふてぶてしい!
 この期に及んで、貴女は、まだそんな事を言っているのですか!?
 先程の恥ずかしさから立ち直れず、まだ顔を手で隠しているというのに!

313: 名無しさん 2018/02/25(日) 22:47:05.45 ID:zabzgcsho

「……」


 彼女は、チラチラと手の平の隙間からこちらの様子を伺っている。
 私がどのような反応をしているのか気になるのだろう。
 しかし、わかりました。
 あくまでも貴女がそのような態度を取るのならば、こちらも考えがあります。


「……?」


 私の空気が変わった事を察したのか、彼女は顔を隠すのをやめた。
 重なり合う、視線。
 そして、


「Wow Wow~♪  Yeah~♪」


 私は、高らかに歌いだした。
 驚きで見開かれている目。
 たまには、こういう目で見られるのも悪くないと、そう、思います。


「ピュアなそのハート」


 貴女は、その言動の割には、かなり純真な心の持ち主だと思っています。
 今も、貴女の前にしゃがみこんだ私と顔が近づき、ピクリと肩が震えていましたから。


「もしかしてドキドキしてる?」


 普段の貴女ならば、この程度で動揺することは無い、と思います。
 ですが、この様な特殊な状況では無理も無いでしょう。


「ときめきのスパイス、効かせすぎかな」


 貴女達のような、キラキラした笑顔は私には出来ません。
 ですが、口の端を釣り上げる程度の不器用な笑顔なら、出来ます。
 潤んだ瞳で見上げてくる彼女の鼻をチョンと指でつつく。


「ストップ、本気はマズい」


 私は、プロデューサー。
 そして、貴女はアイドルなのだから。


「だから、良い子でいようね」

314: 名無しさん 2018/02/25(日) 23:11:34.31 ID:zabzgcsho
  ・  ・  ・

「ねえ、良い子にしてたらご褒美は貰えるのかしら?」


 翌朝から、彼女はそんな事を聞いてくるようになった。
 期待を込めた眼差しを向けられても、私はそれに応えられない。
 右手を首筋にやり、申し訳ありません、と、それだけ返す。


「それなら……合宿が終わったら、映画でも一緒にどう?」


 と、彼女は諦めずに私を誘ってくる。
 その立ち振舞は、17歳の少女のものとは思えない。
 だが、やはり、彼女はまだ子供なのだ。
 再度、申し訳ありません、と、そう返す。


「……もう、つれない人ね」


 そう言って口を尖らせるその表情は、年齢相応のものに見えた。
 普段の大人びた彼女の色気ある姿も魅力的だが、今の拗ねている顔も可愛らしい。
 これから、彼女はどんどん大人になっていくのだろう。
 だからこそ、今の彼女の持つ魅力も、忘れてはならない。


「大人のマネは、まだ少し――」


 小声で、他のメンバーには聞こえない様、


「――早すぎるでしょ」


 彼女だけに聞かせるため、歌った。
 それを聞いた彼女は……良い、笑顔だった。



 この時の私は、知る由もなかった。
 合宿最終日の今日、サプライズで事務所の大人組がこちらに向かっている事を。
 夕食後、絶対参加の大宴会が予定されているという、悲しい現実を。



おわり

411: 名無しさん 2018/03/01(木) 23:51:18.80 ID:zpArbCGoo

「おはようございます」


 プロダクションのエントランスホール。
 いつもの様に、出会った時は必ずする、挨拶。
 彼の目まっすぐ見て、丁寧に。


「おはよう、ございます」


 それに、彼も同じように返してくる。
 けれど、その挨拶は今までのものとは違っていた。
 誠実だけど、不器用で、無表情。
 そんな彼が、本当に薄くだけど、穏やかで……優しい笑顔をしている。


「……」


 この人のこんな顔、見たことが無いわ。
 朝からそんな、急に……ビックリさせないでください。
 思わず目を丸くしてしまった私を彼は怪訝そうに見てくる。
 私が驚いたのは、貴方のせいですよ。



「おっはよー! プロデューサー!」



 入口側、彼の背中から、とても元気な声がかけられる。
 その子には背を向けているから、見えていない。


「……」


 私に向けていたのよりも、もっと深い。
 優しく、慈しむような、笑顔が。

412: 名無しさん 2018/03/02(金) 00:01:35.73 ID:tkPQ0Qn5o

「おはよう、ございます」


 彼は、私に背を向けてその子に挨拶を返した。
 それから、今日の予定に関して簡単に話し合っている。
 そうよね、貴女は彼の担当アイドルだもの。
 おかしな事なんて、何一つ無い。


「あっ、楓さん! おはようございます!」


 彼女は、私にようやく気づいたのか、元気に挨拶してきた。


「はい、おはようございます」


 少しバツが悪そうにしているのは、挨拶が遅れたからかしら。
 先輩と後輩だからって、そんなに気にする必要はないのに。
 それに……気づくのが遅れてくれて、少し、助かったもの。


「もー! プロデューサーの体が大きくて気づくのが遅れちゃったじゃん!」
「は、はぁ……申し訳、ありません」


 輝くような笑顔を浮かべながら、冗談交じりに彼の肩を叩いている。
 彼は、そんな冗談に対しても真面目に反応している。
 それをまたからかっている、可愛い後輩ちゃん。
 彼の、大切な、担当アイドル。


「……それじゃあ、私はこれで」


 それを見ているのが、何故か、とても苦しい。
 笑顔が、上手く出来そうに無い。
 嗚呼、どうしてこんな思いをしなきゃいけないのかしら。


「……」


 理由はわからないけれど、とっても嫌な気分。

413: 名無しさん 2018/03/02(金) 00:11:59.06 ID:tkPQ0Qn5o
  ・  ・  ・

「……」


 カツ、カツと、磨き上げられた廊下を歩く足音が聞こえる。
 普段はそんな音を気にしないのに、どうしてなの?
 何故だかとっても、今は気になってしまう。


「……」


 一度、落ち着いた方が良いわね。
 こんな気分のままじゃ、お仕事に影響が出ちゃうもの。
 私は、アイドル高垣楓。
 うまく笑顔が出来ないなんて、そんなの自分が許せない。


「……すぅ」


 立ち止まって、大きく息を吸い込む。
 この嫌な気持ちを、吐き出す息と一緒に外に出してしまうために。
 両手を広げて、深く、深く吸い込――



「――高垣さん」



 ――んでいたから、


「っ!? ごふっ! ごほっ!」


 突然、後ろから低い声で話しかけられて、むせた。
 ……もう!
 急に声をかけるなら、先に言ってくれません!?

414: 名無しさん 2018/03/02(金) 00:24:52.98 ID:tkPQ0Qn5o

「ごほっ! ご、ほっ!」
「だっ、大丈夫ですか!?」


 大きな足音を立てて、彼が走り寄ってくるのがわかる。
 わかる、というのは、むせた拍子に少し涙が出てきたから。


「ごほっ……ごほっ!」
「っ……!」


 咳き込んで丸まっている背中に、感触。
 その大きく、温かい手の感触は、服越しにでもわかる。
 私は、彼に背中をさすられていた。


「っ……ごほっ……!」
「落ち着いて、息を整えましょう」


 とても近くから、彼の声がする。
 こんなに心配そうな声は、初めて聞いた。
 けれど、私を落ち着かせようとする、ゆっくりとした話し方、優しい声。
 それなのに、


「っ……ごふっ!」


 全然、落ち着かないの!


「ゆっくり、焦らなくても大丈夫ですから」


 彼が、穏やかな声をかけてくる。
 彼が、優しく背中をなでてくる。


「……すぅ……ふぅ……」


 それなのに、落ち着かない。


「……落ち着いた、ようですね」


 それだから、落ち着かない?

415: 名無しさん 2018/03/02(金) 00:40:25.55 ID:tkPQ0Qn5o

「水は、飲めそうですか?」


 背中に感じていた手の感触が、無くなった。
 声も、それに合わせて離れていく。
 ……うん、ようやく、落ち着いたかも。


「……すみません、お手数を」


 とても、迷惑をかけてしまった。
 だから、すぐにでも謝らなくっちゃと思い出した声は、少しかすれていた。


「いえ、お気になさらず」


 彼は、カバンから水の入ったペットボトルを出しながら言った。
 カバンを足元に置き、パキリと、新しいその蓋を開ける。
 そして、私に差し出してきた。


「ゆっくり、飲んで下さい」


 さすがに、そこまで甘えられない。
 ここまでしてくれただけでも、十分なのに。
 これ以上ご迷惑をおかけする訳にはいきません。
 そう、考えているけれど、



「――はい、ありがとうございます」



 私の口は、私の考えを置き去りにして、感謝の言葉を述べていた。


「……」


 だって、仕方ないじゃない。
 考えは考え、思いは思い。
 とっても嬉しくて、ありがとう、って言いたくなっちゃったんですもの。

416: 名無しさん 2018/03/02(金) 00:56:29.74 ID:tkPQ0Qn5o

「どうぞ」


 ペットボトルを受け取る時に、指先と指先が少しだけ触れ合う。
 それだけのに、また、気分が少し落ち着かなくなった。
 きっと、むせた影響が残ってるのね。


「……んっ」


 ペットボトルを傾け、水を一口だけ飲む。
 買ったばかりだったのだろうか、その水はまだ冷たい。
 その冷たさがとても心地よくて、とても気持ちいい。
 落ち着かなかった私の心が、冷却されていくみたい。


「……ふぅ」


 ゆっくりと、息を吐き出した。


「ありがとうございます」


 おかげで、助かりました。
 もっとも、むせたのは貴方のせいなんですけどね!
 ……とは、今の状況じゃ言えないわよね。
 ふふっ、水を差し入れてくれたのに、水を差すような事は言えないわ。



「――良い、笑顔です」



 彼はそう言いながら、呆ける私からペットボトルを受取り、蓋をした。


「……」


 ……何をおっしゃるんですか。
 貴方の方が、良い笑顔をしてると思うんです。
 そんな、穏やかで、嬉しそうな顔をするなんて……ズルい。

417: 名無しさん 2018/03/02(金) 01:19:44.10 ID:tkPQ0Qn5o

「あの……何か、御用だったのでは?」


 アイドルが、プロデューサーの笑顔に押されるなんて、立つ瀬が無い。
 ……でも、これは負けじゃありませんから。
 普段笑わない人が、笑顔を見せたからビックリしただけです。


「いえ、もう、大丈夫なようです」
「はい?」


 用があったから、話しかけて来たんじゃないんですか?
 彼は、本当にもう用事は済んだとばかりに、
足元に置いていたカバンを拾い上げ、ペットボトルをしまった。


「それでは」
「……はぁ」


 彼は短くそう言うと、軽く会釈をし、迷うことなく真っすぐ廊下を歩いて行く。
 遠ざかっていく背中を見ながら、私は、少し、ええと……ムカッとした。
 だって、朝から彼に振り回されたような気がするんですもの。


「……むぅ」


 具体的に、何をされたっていう事は無いんだけれど。
 むしろ、腹を立てる理由なんて全く無いのに。
 どうして、こんなに負けた気分になっちゃうのかしら。


「……」


 ……考えていても、始まらないわね。
 今晩、お酒を飲みながら誰かに相談してみましょう。
 この、なんとも言えない気持ちの理由を――


「っ!?」


 しまった。
 私が飲んだ水のペットボトルをしまった……しまって、しまった。
 ――ふふっ! しまった! しまってしまった! うふふっ!
 って、ダジャレてる場合じゃないわ!
 あれ、この後どうするつもりですか!?



 結局、その日一日、私は落ち着かない気分で過ごす羽目になってしまった。



おわり

421: 名無しさん 2018/03/03(土) 20:27:45.20 ID:8JAh2eoKo

「……サー……きて……」


 声が聞こえる。
 その名の通り、凛と通った涼やかな声が。


「起き……プロデュ……!」


 段々と意識がハッキリとしていく。
 確か、今まで感じたことのない急激な眠気に襲われ、
事務所のソファーで横になっていたのだった。


「ん……んんっ」


 何か、問題でも起こったのだろうか。
 彼女の声の調子から察するに、恐らくはそうなのだろう。
 呑気に横になっている場合では、無い。


「起きて! プロデューサー!」


 一段と大きくなった彼女の声と同時に、瞼を開いた。


「っ!? 渋谷さん!?」


 最初に目に飛び込んできたのは、私の下半身――丁度股間の部分――の上で、
真っ直ぐに私を見てくるアイドル、渋谷凛さんの姿だった。
 プロデューサーと、アイドル。
 信頼関係が築かれてきたとは思っていたが、この距離感はいけない。
 すぐにでも、彼女から離れなくてはならない。


「いけません! 渋谷さん!」


 そう言って、ソファーに背中を預けたまま後ろに下がるが、
彼女は私の上から離れようとはしない。
 いや……離れられなかった。


「っ……!?」


 何故なら、


「理解した?」


 人形サイズの渋谷さんの上半身が、私のズボンのチャックから出ている状況だったのだから。

422: 名無しさん 2018/03/03(土) 20:40:12.68 ID:8JAh2eoKo

「あ、いえ……あの……!?」


 混乱する頭を必死に働かせて思考を巡らせるが、到底理解が及ばない。


 ――小さい渋谷さんが、私の股間から生えている。


 簡単に言ってしまえばそういう状況なのだが、意味がわからない。


「夢じゃないよ」


 とんでもない悪夢を見ている、という可能性を彼女の口から否定された。
 いや、彼女――‘コレ’――は、本当に渋谷さんなのか?
 私の、してはいけない想像の産物なのではないか?
 わからない……何も、わからない。


「――しっかりして! アンタ、私のプロデューサーでしょ!?」
「っ!?」


 私を叱咤する時の、渋谷さんの声そのままだ。
 距離が近いので、人形サイズの顔もハッキリと見える。
 彼女は、困惑する私を叱咤し、気をしっかりもたせようとしているのだ。


「本当に……渋谷さん、なのですか?」
「それ以外の、何に見える? アンタは、私の何?」


 彼女のサイズに合わせて、着ているものも縮んでいるようだ。
 私の目には、学校指定の制服を着た、本当にサイズだけが縮んだ渋谷さんが映っている。
 スカートはズボンの外に出ており、どのように股間とつながっているのかは隠されているが。
 ならば、私は、こう答える他に無い。


「私は……渋谷さん、貴女のプロデューサーです」
「……うん」


 私の返答を聞き、股間の渋谷さんは笑った。
 とても、良い笑顔で。

425: 名無しさん 2018/03/03(土) 20:51:31.45 ID:8JAh2eoKo

「一体……どうしてこんな事に……!?」


 彼女の、渋谷さんの笑顔が本当にいつも通りで、私は一層困惑した。
 股間から生えている渋谷さんが本物だとしたら、これからどうなってしまうのか。
 こうなってしまった原因は置いておくとして、元に戻るのか。


「っ……!」


 そして、私の長年連れ添ってきた相棒は、どこへ消えたのか。


「何故……!」


 私は、右手を首筋にやり、消えた相棒を想った。
 渋谷さんの上半身が股間から生えているのではなく、
私の相棒と渋谷さんの上半身が入れ替わったのだとしたら?


「っ……!?」


 女子高生の下半身を持ち、上半身がそのサイズに合わせた相棒……?
 新田さんが歩くセックスと呼ばれている所の話ではない。
 完全に、歩くチンコ。
 時に走り、つまずき、立ち上がり、踊り、踊られ、ダンサブルチンコ。


「プロデューサー……もう、私たち駄目なのかな……」


 考えを巡らせている間に、渋谷さんも元気をなくしてしまったようだ。
 ヘナヘナと、仰向けにゆっくりと倒れていく。
 心なしか、その大きさも小さく……?


「……まさか!?」


 この股間から生えている渋谷さんは、私の相棒でもあるのか!?


「なんだか、元気がなくなってきて……」


 そう、なのですね……渋谷さん……!?

428: 名無しさん 2018/03/03(土) 21:04:05.86 ID:8JAh2eoKo

「渋谷さん! きっと! きっと元に戻ります!」
「もう良いよ……このままでも……」


 呼びかけても、まるで気のない言葉しか返ってこない。
 完全に後ろに――脚の間に――倒れ込んでしまわないように、
両の太ももをピタリと合わせる。
 その窪みに、ゆっくりと股間の渋谷さんは仰向けに寝転んだ。


「うん、悪くないかな」
「良くありません! 諦めないで下さい!」
「どうして? 腰の所に、フワフワもクッションもあるし」


 ――それは、玉です!
 とは、口が裂けても言えない。
 彼女は、今は私の相棒でもあるが、アイドル、渋谷凛さんなのだ。
 年若い少女に、貴女は玉袋クッションの上で寛いでいるのです、とは言えない。
 言っては、いけない。


「……うん、さっきまで怖かったけど、今はなんだか落ち着く」


 渋谷さんはそう言っているが、彼女の協力なくして現状の打破は不可能だ。


「……」


 だから……無理にでも、元気を出して貰わなくてはならない。
 恐らくは、先程まで渋谷さんが元気だったのは、その、寝ていてアレだったからだろう。
 ならば、私の考えが正しければ……。


「……」


 目を閉じ、思考の海に沈む。
 スタミナドリンクは、必要無い。
 そう、私は――



「ふ――んっ! 寝てる場合じゃない!」



 ――まだまだ、若いのだから。

429: 名無しさん 2018/03/03(土) 21:17:06.08 ID:8JAh2eoKo

「早く、元に戻る方法を考えて!」


 先程よりも、前のめりの姿勢を取る股間の渋谷さん。
 良い、角度です。


「この状況は何なの!?」


 怒りを撒き散らしているが、私は答えを持たない。
 張り詰めた空気を出す渋谷さんは、そんな私に言い放った。


「顔を隠さないでよ!」
「……申し訳、ありません」


 完全に元気になった時の、私の顔。
 それを見せてはいけないという思いが、両手で顔を覆うという選択を採らせていた。
 例え元に戻ったとしても、その記憶が残った彼女とどう接していいか分からないからだ。


「見せて!」
「……すみません、それは……!」
「良いから! なんで見せられないの!?」
「お願いします……! どうか、それだけは……!」


 まさか、自分の股間に怒られる時が来るとは思わなかった。
 砕けてしまいそうになる心とは裏腹に、
股間の渋谷さんのヒートアップは止まらない。


「見せてってば!――うぷっ!」
「!? 渋谷さん!?」


 股間の渋谷さんの、様子がおかしい。
 まるで、何かを吐き出すような……いや、漏れ出してしまったような声。
 そんな、まさか――


「……なんか、ネバっとしたのが」


 ――すみません! 渋谷さん!

431: 名無しさん 2018/03/03(土) 21:29:24.22 ID:8JAh2eoKo

「ねえ、これって――」
「……!」


 今西部長! 今西部長! 今西部長! 今西部長!


「――まあ、なんでも良いか。やっぱり横になるね」


 ……セーフ!


「……」


 しかし、これからどうすれば良いのだろう。
 こうなってしまった原因に心当たりなどあるはずもなく、
今の渋谷さんから話を聞くには、彼女に本当に申し訳ない事になる。
 八方塞がり、完全丸出し。
 本当に、これからどうなってしまうのだろう。



「プロデューサー!」



 バン、と勢い良く開かれたドア、そして、飛び込んでくる声。
 この声は、間違いない。


「ほ、本田さん!」


 プロジェクトのメンバー、そして、渋谷さんとユニットを組んで居る内の一人、本田さんだ。
 彼女に――本田さんに、今の渋谷さんを見せるわけにはいかない!
 片膝を立てて、可能な限り、不自然な動作にならないよう股間の渋谷さんを隠す。


「しぶりんが! しぶりんが!」
「っ……!」


 見られてしまった!



「――しぶちんに!」



 そう言って、本田さんはドアの影に隠れていた、モノを部屋に入れた。


「う、ううう――」


 それは、


「うわああああああっ!?」


 人間サイズになった、長年連れ添った私の相棒だった。

434: 名無しさん 2018/03/03(土) 21:39:42.67 ID:8JAh2eoKo

「お、落ち着いてよプロデューサー!」


 そんな事を言われても!
 考えていた中でも、最悪の事態が起こっている。
 女子高生の脚が生えたチンコ。
 そうとしか表現出来ないモノを伴っていて、よく平気ですね!?


「ほら! しぶちんもいい加減それ脱ぎなってば!」


 パシリ、と本田さんが相棒を叩く音が部屋に響く。
 結構な強さで叩かれたのか、相棒はビクリと大きく震えた。
 思わず、私は両手を股間にやった。


「……プロデューサー?」


 やって、しまった。


「あ、いえ……! なんでも、ありません!」


 私が股間を押さえた事で、本田さんの視線がそこに集中してしまったのだ。
 本来ならば、すぐに目をそらす所だろう。
 いくら快活な彼女でも、男の股間を凝視するような真似はしない。


「あ、あの……プロデューサー……」


 本田さんは、顔を赤くし、


「……こ、股間の毛……さ、サラサラだね!」


 フォローなのか何なのか、わからない事を口走った。


「待ってください! 誤解です!」


 貴女が見たのは、渋谷さんの髪の毛です!

436: 名無しさん 2018/03/03(土) 21:54:20.64 ID:8JAh2eoKo
  ・  ・  ・

「……そっか、気付いたらこうなってたんだ」
「うん。チャックから出るの、凄く苦労したんだから」


 結局、本田さんには全てを話す事にした。
 そもそも、二人だけで問題は解決出来なかっただろう。
 今は、現状の確認をしている最中。
 渋谷さんも話に参加して貰いたいため、その、半分元気な状態だ。


「……」


 渋谷さんの生え方的に、寝転がっていないと三人で話せないため、
私だけソファーに寝転がっている。
 そのため、なんとも不思議な光景を全て目の中に収める事が出来る。


「いやー、でも貴重な経験だよ!」


 ソファーの横で膝をつき、私の股間に話しかける、本田さん。


「他人事だと思って、テキトーな事言わないで」


 私の股間から生え、そこそこ元気な、渋谷さん。


「――」


 反対側のソファーに礼儀正しく腰掛けている、私の相棒。
 ……相棒に関しては、どうしたら良いかわからないので座らせている。
 部屋の隅で待機させておく事も考えたのだが、あまり、彼と離れたく無い。


「でも、ちっちゃいしぶりんも可愛いかも!」


 本田さんは、そう言うと私の股間の渋谷さんに手を伸ばした。


「ちょ、ちょっと――」


 あの、何を――


「――撫でないでよ、未央」
「……!」


 柔らかな、手の感触。
 漏れ出そうになる声を、歯を食いしばり、耐えた。

437: 名無しさん 2018/03/03(土) 22:07:21.60 ID:8JAh2eoKo

「ほ~ら、うりうりー!」
「あははっ! ちょっ、ちょっと未央ったら!」


 とても可愛らしいじゃれあい。


「……」


 そして、悶絶。
 私は、これほど自分の表情が乏しいのが幸運だと思ったことはない。
 噛み締めた奥歯がギリギリと鳴る。


「――おえっ!」
「!? しぶりん! 大丈夫!?」
「おぶっ、うええっ!」


 股間の渋谷さんが、粘性のある透明の液体を吐き出した。
 我慢によって生まれた、我慢。


「大変だよプロデューサー! しぶりんの様子が変!」
「っぷ! うえっ!」


 嘔吐する股間の渋谷さんの背中を本田さんが手でさする。


「んんんんっ!」


 当然、そんな事をされては、私は言葉を発せない。
 口を開いたら、渋谷さんが今何で、本田さんが今何をしているのか悟られてしまうから。
 だから、すぐに体を引いて離れなけれ――


「うっぷ、おえっ!」
「しぶりん! しぶりんっ!」
「ばああああっ!」
「プロデューサー!? しっかりして、プロデューサー!」


 股間の渋谷さんが、体を固くしているのがわかる。
 それをほぐそうと、優しく動く本田さんの手。


「なんか……おえっ……昇ってきた」


 申し訳、ありません。

438: 名無しさん 2018/03/03(土) 22:23:35.13 ID:8JAh2eoKo
  ・  ・  ・

「イキます! 蒼い風が、駆け抜けるように!」


 部屋に、響き渡る声。
 その声で……


「……っ」


 ……目が、覚めた。


「……なんて夢だ」


 衝撃で、仮眠していた眠気が一気に吹き飛んだ。
 私は、なんという夢を見てしまったのだ。
 自分の股間が担当アイドルになり、あまつさえ、それをさすられる夢を見るなど。
 疲れが、溜まっているのだろうか。
 いや……この場合は、性欲か。



「――」



 だから、反対側のソファーに腰掛ける‘アレ’は、私の相棒なのではない。
 きっと誰かが……そう、私を驚かせようと着ぐるみでも着ているのだろう。


「あ……あれっ? 真っ暗?」


 この、股間から聞こえてくる声も幻聴だろう。
 私もまだまだ若いものだ。
 パンツの中で、意識もせずに暴れまわるとは。
 そんなに暴れないでください、とてもモジャモジャすると、そう、思います。


「あっ、もうちょっとで外に出られそう!」


 彼女は、私がチャックを開けたら、一体どんな表情を見せるのだろうか。


「島村卯月、頑張ります!」


 アイドルが暗い道に迷っているのなら、それを助けるのがプロデューサーの仕事だ。
 ならば、私が今できるのは、チャックを開ける事のみ。
 彼女が怪我をしないよう、ゆっくりと、チャックを開けていく。
 そして、そこから現れた彼女は、


「あっ、プロデューサーさん!」


 元気な、良い笑顔だった。



おわり

468: 名無しさん 2018/03/04(日) 23:01:13.93 ID:z5DhT6Fio

「あっ! ママだ!」


 椅子を浮かしながら、娘がテレビを見て声を上げた。
 その拍子に食卓の上に並んでいた料理がこぼれそうになる。
 慌ててそれを手で抑えたが、少し、スープがこぼれてしまった。


「おい、揺らすなよな」


 それに不平を零したのは、正に、スープを飲もうとしていた息子だ。
 見れば、左手はじっとりと濡れており、こぼれたスープを被ってしまったらしい。
 熱かったのだろうが、それに対する文句は言わない。
 恐らく、私達と、幼い妹を心配させないためだろう。


「……」


 私は、そんな不器用な息子に無言で濡れた布巾を差し出す。
 そして彼は、何も言わずに食卓にこぼれたスープを拭き出した。
 まずは手を拭いて、それから手を冷やしてくるべきだと思ったのだが。
 私がそれを言っても、息子は素直にそれを受け入れないだろう。


「まあ、こぼしちゃったの?」


 パタパタと、台所の方から妻が食卓に駆け寄って来た。
 乱れた食卓の様子を見て、ほんの少しだけ、慌てている。
 息子は……心配をさせないよう、手を隠すのを選んだようだ。
 誰に似たのか、本当に、不器用で、自慢の息子。


「……ごめんなさい」


 妻の声を聞いて、シュンと、消え入りそうになっている。
 先程のはしゃぎっぷりはどこへやら、だ。
 妻に似て優しいこの子は、自分が怒られるのを恐れているのではない。


「……スープ、こぼしちゃった」


 妻が作った料理を一部とは言え駄目にしてしまったのを申し訳なく思っているのだ。
 長い睫毛を伏せ、肩を落とし、全身で感情を表現している。
 そんな娘に対し妻は、


「ふふっ、スープは、スプーンでこぼさず、ね♪」


 いつも通り、優しく微笑みかけた。

469: 名無しさん 2018/03/04(日) 23:15:01.35 ID:z5DhT6Fio

「どうして、急に立ち上がろうとしたの?」


 娘の横にしゃがみ込み、視線を合わせる妻。
 台所からでも娘のはしゃぐ声は聞こえていただろう。
 だが、彼女は、娘の口から直接理由を聞くことを選択した。
 こういった方針は、彼女に任せることにしてある。
 ……私が口を挟んでも、あまり、いい結果に結びついた事が無いからだ。


「あのね! ママが、テレビに映ってるの!」


 再度、その顔を輝かせながら、テレビを指差す娘。
 今度は立ち上がる事なく、ほら見て、と。
 妻の視線はテレビに一瞬だけ移り、すぐにまた、娘に戻った。


「なるほど、それでビックリしちゃったのね」
「うん!」


 彼女が娘を見ている間、息子を見るのは私の役目だ。
 お違い口数も少ないが、言わんとしている事は、わかる。
 手を差し出すと、息子は無言でその手に布巾を渡してきた。


「……」


 そして、立ち上がり、無言で洗面所へと向かっていく。
 二人の会話を邪魔するべきではないとでも思ったのかもしれない。
 その判断が、結果的に彼の手を冷やす事に繋がったのだから、良しとしよう。


「ねえ、テレビに映ってるママと、貴女の前に居るママ――」


 どっちが綺麗? と、妻は微笑みながら娘に問いかけた。


「……」


 見比べてみる。


 アイドルだった頃の彼女と。


 引退し、私の妻になり、この子達の母になった彼女を。

470: 名無しさん 2018/03/04(日) 23:28:42.30 ID:z5DhT6Fio

「……」


 テレビの画面に映っている彼女は、今見ても、本当に美しい。
 神秘的でいて、儚く、しかしそれでいて、何者にも負けない強さも感じさせる。
 響く歌声は、聞いているだけで心が穏やかに、優しい気持ちになれる。
 正に、理想のアイドルと呼ぶに相応しい姿だ。


「……」


 今の彼女は、その時に比べて歳を取った。
 笑うと目尻に皺が寄るようになったし、肌のハリも衰えている。
 家事と育児に奔走するようになり、少しだけ健康的な体つきになったか。
 美しいが、今の彼女はアイドルではなく、母親であり、私の妻。


「パパ?」


 不機嫌そうな、妻の声。
 そう、彼女に言われるまで、不躾な視線を送り続けていた事に気づかなかった。
 その一方で、私が何を考えていたかなど、彼女はとっくに気付いているのだろう。
 本当に、敵わない。


「……」


 右手を首筋にやって、苦笑して誤魔化す事にした。
 昔に比べて、私も多少は表情が出せるようにはなってきた。
 きっとそれは、関わってきたアイドル達、そして、妻と、子供達のおかげだろう。


「本当、失礼しちゃうわよね」
「ねー!」


 妻と娘が、声を揃えて私を責め立てる。
 いつの間にやら、娘は、妻の質問に答えていたらしい。
 彼女の胸に抱かれながら、ジトッとした目をこちらに向けている。
 冗談だとはわかっているが、そんな目で見られるのは、寂しい。
 なので、


「いつも、一番綺麗だよ」


 と、思っている事を正直に口にすることにした。
 迂闊な事を言って、これ以上立場を悪くするのは、よろしくない。
 そんな私の言葉を聞いて、妻と娘はクスクスと笑いだした。
 ああ、息子よ、早く戻ってきてくれ。

471: 名無しさん 2018/03/04(日) 23:47:04.03 ID:z5DhT6Fio
  ・  ・  ・

「……」


 ひどく、荒れた部屋。
 カーテンは引きちぎられ、割れた食器や、衣類等、
様々なものがグチャグチャと放り出され、散らかされていた。
 割れたガラスを踏まないように足元に気をつけながら、
部屋の中心の食卓に座っている、彼女に歩み寄った。


「ただいま」


 声をかけるが、返事は無い。
 机に突っ伏しているので、寝ているのだろうか。
 しかし、彼女の手には、強い酒の入ったグラスが握られたままだ。
 お猪口でちょこっと、などと生易しい量ではなく、浴びるように飲んだのだろう。


「うっ……ぐすっ……!」


 耳を澄ますと、彼女の、すすり泣く声が聞こえる。
 起きていた、らしい。


「飲み過ぎだよ」


 そう言って、突っ伏したままの彼女の背中に手を添える。
 ずっとこの状態でいたのか、体が冷えているようだ。
 すぐに、彼女を移動させ休ませて、それから部屋の片付けを――



「ああああああああああっ!!」



 顔を伏せたまま、絞り出すような、叫び声。
 そこに込められた感情は、深い、悲しみ。
 美しかった声は、酒に喉をやられ、泣き続けたせいで、枯れている。
 それでもその声は、悲しみの塊だった。


「~~っ!」


 顔を上げた彼女が最初にしたのは、手に持っていたグラスを投げつける事だった。
 昔四人揃って見た、テレビに向かって。


 ガシャンッ!


 砕け散るグラス。
 彼女の狙いは外れ、テレビは、無事だった。

472: 名無しさん 2018/03/05(月) 00:07:18.04 ID:IPOjTJqEo

「うっ……ふ、うっ……!」


 テレビの横で砕け散り、形を保つことが出来なくなったグラスの残骸。
 今だ、そこに存在し続けるテレビ。
 そのどちらが彼女のスイッチになったのかは、私にはわからない。


「ガラス製品を壊すのは、やめよう」


 怪我をしてしまうといけない、と、そう彼女に言う。
 以前、同じことを強い口調で言いはした。
 だが、それを聞いた彼女はその場にあった食器を全て床に叩きつけ、破壊した。
 それがあってから全て食器はプラスチック製にしていたのだが、
確か、あのグラスは結婚式の引き出物で仕舞っておいたものだろう。
 思い出の品だったが、彼女に怪我が無かっただけ、良しとする。


「……貴方は」


 ゆらりと、まるでホラー映画のゾンビの様な緩慢な動き。
 おっとりとした性格の割にテキパキと動いていた頃とは、比べるまでもない。
 涙と鼻水でグシャグシャになった顔。
 酒で口の周りは汚れ、形の良い唇は、ワナワナと震えている。


「っ!」


 眉間に皺を寄せ、怒りを露わにする彼女。
 充血した目で真っすぐに私を睨みつけ、手を振り払われた。
 私に触れられているのが、不愉快だと言わんばかりのその行動。
 置き場を失くした手が、宙を彷徨う。


「貴方は、なんでそんなに平気そうなんですか!?」


 見たことの無い、怒りの表情。
 美しさとは程遠い、この世の全てを憎むかのような声。



「あの子達が、もう居ないのに!」



 そう言うと、彼女はまた顔をクシャリと歪め、机に突っ伏し、泣いた。


 私たちは、息子と娘を事故で亡くしていた。

473: 名無しさん 2018/03/05(月) 00:21:57.22 ID:IPOjTJqEo

「うっ、えっ、ええっ……!」


 子供の様に泣きじゃくる彼女の横にしゃがみ、その肩を抱く。
 ビクリとその体が震えるが、私は、その手を離さない。
 そしてそのまま、彼女を胸に抱き寄せた。


「ううっ! ううううっ!」


 ドンドンと、胸を叩かれる。
 彼女のやり場のない感情が、その手に込められているのだろう。
 ならば、思う存分私にぶつけてくれれば良い。
 この手が自分に向けられ、貴女自身が傷つくのなら、全て私に。


「うっ……う、うえっ……!」


 トントンと、胸を叩く力が弱くなっていく。
 今の彼女は、相当に体力が落ちている。
 思い切り力を出して殴り続けるのは、難しい。
 だから、私がその分、彼女を抱きしめる両腕に力を込める。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 彼女は、泣きながら、繰り返し謝る。


「……」


 私は、そんな彼女を無言で抱きしめ続けた。


 ――平気では、無い。


 愛する息子と娘を同時に失ったのだ。
 平気なわけが、無い。
 だが、二人には申し訳ないが、悲しみに暮れ続けるわけには、いかない。
 私達はこれからも生きて行くのだし、


「……ごめんなさい……!」


 私には、まだ守るべきものが残っている。
 それを放って私まで泣いていたら、子供達に叱られてしまう。

474: 名無しさん 2018/03/05(月) 00:40:38.20 ID:IPOjTJqEo
  ・  ・  ・

「……ねえ」


 二人で床に腰掛け、彼女が落ち着くのを待った。
 私の胸の中で、彼女はポツリと言った。
 続く言葉を待つ。


「私、ひどい顔よね」


 彼女の頬に流れる涙を親指で拭う。
 昔の彼女を知る者は、きっと今の彼女を見て驚くだろう。
 それ位、今の彼女の顔はやつれ、唇も肌も荒れ、ボロボロになっていた。
 むしろ、彼女の名前を言ってもすぐにはわからないかもしれない。


「いつも、一番綺麗だよ」


 だが、そんな事は関係ない。
 私にとっての一番は、いつも、貴女なのだから。


「……ふふっ、お世辞が上手になったわよね」


 久々に聞いた、彼女の笑い声。
 嗚呼……本当に、久しぶりだ。



「――アイドルに、興味はありませんか?」



 そんな言葉が、口をついて出た。
 腕の中で、彼女がビクリと体を震わせる。
 そこから、お互い無言が続いた。


「……どうして、そんな事を?」


 どれだけ時間が経ったかわからない。
 だが、彼女は、確かに一歩を踏み出した、踏み出してきてくれた。


「笑顔です」


 もう一度、


「貴女の笑顔を見たいと……そう……思いましっ……た……!」


 なんとか、言い終える事が出来た。
 私たちは、二人で一緒に大声で泣いた。



おわり


559: 名無しさん 2018/03/05(月) 23:46:44.20 ID:IPOjTJqEo

「緊張、していますか?」


 ステージの脇の暗がり、彼が丁寧な口調で話しかけてきた。
 砕けた口調でないのは、今が仕事中だから。
 私は、アイドル。
 彼は、プロデューサー。


「はい、少し」


 何せ、本当に久しぶりのLIVEだもの。
 ここまで来るのに……そうね、血の滲むような努力をしたわ。
 大好きなお酒も辞めた。
 だって、そうでもしないと、歌声が取り戻せなかった。


「実は、私もです」


 彼が、クスリと笑いかけてきた。
 この笑顔に……何度も救われてきた。
 いつも辛い時、苦しい時は、黙って、ずっと傍に居てくれた。
 筋力も体力も落ちていたから、一緒にジョギングもしてくれたわよね。


「一緒、ですね」


 そんな彼に、私も微笑み返す。
 彼は、こんなおばちゃんになった私の笑顔を見たいと、そう言ってくれた。
 あの言葉が無ければ、私は今、こうしてこの場に立っていなかった。
 ううん、もしかしたら……なんてね。


「はい、一緒です」


 彼が、私の手を取り、言った。
 私の最愛のこの人は、きっと、私と同じ想いを胸に抱いているのだろう。
 だからこそ、こうして私をこのステージまで導いてくれたのだ。
 ふふっ、田舎で良い仲で静かに暮すのは、もっと後で良いものね。


「一緒に――」


 最高の、ステージにしよう。


「――笑顔で!」


 どこまでも、空の向こうまでも届く位の、歌を歌おう。


560: 名無しさん 2018/03/06(火) 00:03:10.11 ID:rZbIlTLeo
  ・  ・  ・ 

「――皆さん、今日は、来てくれて……ありがとうございます」 


 彼が私のために用意したのは、あの日、あの時の会場。 
 皆で食卓を囲んでテレビの映像で見た、その時の会場。 


「ふふっ、私、もうおばちゃんになっちゃいましたよ?」 


 私の愛する人は、そのために、色々な無理をしていた。 
 彼が今まで築いてきた、様々なコネクションを最大限に使って。 
 会社にも無理を言って、彼が今担当しているアイドルは、私だけに。 
 本当に、彼は、‘私達’のために全てを尽くしてくれたのだ。 


「……本当に、色々な事がありました」 


 会場から、すすり泣く声が聞こえてくる。 
 そして、多くの、応援する声。 
 それにつられて泣きそうになっちゃうけれど、私は、泣かない。 
 だって、私は、‘私達’のために最高のLIVEをしなきゃいけないから。 


「……本当に」 


 瞳を涙で曇らせる訳にはいかない。 
 私達は、真っすぐ、前を向いて進まなければいけないから。 
 そうでないと、あの子達に、格好いい所を見せられないものね。 
 泣く事無く、笑顔で。 
 そうでなきゃ、彼が心配してステージに入ってきちゃうかもしれないわ。 


「……」 


 チラリと、ステージ脇の彼の方を見る。 
 直立不動で、真っ直ぐに私を見つめている、彼の姿を見て、落ち着く。 
 もう、そんなに楽しみな顔をしないでください。 
 貴方は、プロデューサーでしょう? 
 それは、ファンの笑顔ですよ。 


「――聞いてください」 


 聞いていて。 
 今の私の、アイドルとしての歌声を。

561: 名無しさん 2018/03/06(火) 00:23:36.80 ID:rZbIlTLeo
  ・  ・  ・ 

「……」 


 あの、LIVEの後から、私達は少し変わった。 
 まだ、あの子達を失った悲しみは胸にポッカリと大きな穴を残している。 
 けれど、それでも二人ならば歩いていける。 
 あの子達の分まで、一緒に生きていこうと思えるようになった。 


「……」 


 運転する、彼の横顔を見つめる。 
 黒かった髪には白髪が混じるようになっており、渋さが増したかしら。 
 頭の後ろでは、相変わらず寝癖が立っているし、 
困った時に右手を首筋にやる癖も、昔のままだ。 
 変わった事もあるし、変わらない事もある。 


「――何か?」 


 私の視線に気付いたのか、彼が声だけをこちらに寄越す。 
 歳を取って更に低くなった声。 
 この声を聞くと、私は、揺りかごに乗せられた赤ん坊の様に安心出来る。 
 だから、子供のように思っている事を口にする。 


「愛してる」 


 突然の言葉。 
 だけど、彼は少しも驚かなかった。 
 ふふっ、言わなくても、わかってますものね。 
 私がこうやって口に出す時は、決まって、貴方にも言って欲し―― 


 ドオオオォォォン! 


 大きな、大きな爆発音。 
 この先にあるのは、トンネル。 
 トンネルの中で、事故が発生したようだ。 


「――まずい」 


 トンネルの中には、私達より先行して走っていたバスが居る。 
 彼が担当していたアイドル達を乗せたバスが。

562: 名無しさん 2018/03/06(火) 00:42:30.15 ID:rZbIlTLeo

「ここで、待っているんだ!」 


 彼は、車を道路の脇に停めると、シートベルトを外しながら言った。 
 助けに、行くつもりなのだろう。 
 彼は、アイドルを見捨てるような事は絶対にしない。 
 だって、貴方はプロデューサーだものね。 


「待って!」 


 でも、駄目! 
 絶対に、行かせない! 


「……危ないと思ったら、すぐ戻るよ」 


 彼は、穏やかに微笑み、私の頭を撫でた。 
 そして、反対の手で、スーツの裾を掴む私の手をほぐしていく。 
 本当に、不器用で……誠実な人。 
 その目、ちょっと危険な位だったら、無理をしてでもアイドルを助けるって目ですよ。 


「でもっ……!」 


 どうして、貴方が行かなきゃいけないの!? 
 他にも、大勢人がいっぱい居るじゃないの! 
 それなのに、どうして!? 
 私には……もう、貴方しか居ないのに! 


「行かな――んっ!?」 
「……――行ってきます」 


 彼を止めようとする声を唇で塞がれた。 
 本当に、ズルい。 
 こんな強引な面があるなんて、知らなかったわ。 
 嗚呼……知りたくなんか、なかった。 



 奇蹟的に、アイドル達は全員無事だった。 
 この事故はマスコミも沢山取り上げ、あの子達もインタビューを受けていた。 
 私も、アイドル達を救ったプロデューサーの妻として、インタビューを。 


 ――自分の命と引き換えに、少女達を救った男。 


 彼は、戻って来なかった。 
 私の隣には、もう、誰も居ない。 



おわり

574: 名無しさん 2018/03/06(火) 22:11:46.39 ID:rZbIlTLeo
皆さんのレスのお陰で元気が出ました! 


>>562続けます

575: 名無しさん 2018/03/06(火) 22:24:24.75 ID:rZbIlTLeo

「~♪」 


 鼻歌を歌いながら、茶葉が蒸れるのを待つ。 
 ここで焦っちゃ駄目なのよね。 
 早く楽しみたいと思って焦ると、美味しくなくなっちゃうの。 
 ティーセットは、二つ。 
 子供達は、ジュースの方が好きだったから。 


「~♪」 


 最近は、とっても忙しかった。 
 あんなにインタビューを受けるなんて、結婚と、引退の会見の時以来。 
 復帰の会見の時は、そんなに記者さんも来なかったのにね。 
 だけど、私は一人でちゃんとやりきったわ。 


「~♪」 


 ねえ、貴方。 
 皆、とっても泣いていたわよ。 
 綺麗な顔をクシャクシャにして、貴方の死を悲しんでいた。 
 貴方がその場に居たら、本当に困っちゃう位に、ね。 


「~♪」 


 ねえ、貴方は見ていてくれたかしら。 
 ……ううん、きっと、見ていてくれたわよね。 
 私、とっても頑張ったのよ。 
 頑張って、頑張って、頑張って……ちゃんと、アイドルでいたの。 


「~♪」 


 だって、私の最後のプロデューサーは、貴方だったから。 
 貴方が最後にプロデュースしたアイドルがみっともなくちゃ、いけないと思って。 
 ひどく歪んでいたかもしれないけれど、笑顔で。 
 笑顔で、皆の前に立ったのよ。 


「……」 


 うん……もう、良いみたい。

576: 名無しさん 2018/03/06(火) 22:49:30.37 ID:rZbIlTLeo

「~♪」 


 紅茶の、良い香りが鼻をくすぐる。 
 それまで嗜好品と言えばお酒だったけれど、 
家族が増えるってわかった時、代わりになるものをって必死に探したのよね。 
 そして、つわりがひどい時でも平気だったのが、紅茶。 
 貴方も、紅茶を淹れるのが随分上手くなったけど、 
私が淹れた紅茶を無言で飲みたがってたのを良く覚えてるわ。 


「~♪」 


 可愛らしい、お揃いの花柄のティーセット。 
 壊れてなくて――壊してなくて、本当に良かった。 
 これがなかったら、貴方と一緒に紅茶を楽しむ時、困っちゃってたから。 


「~♪」 


 ……うん、賞味期限がギリギリだったけれど、とっても良い香り。 
 懐かしい、幸せだった時の、香り。 
 貴方が居て、あの子達が居て、皆、笑顔で。 
 笑顔で幸せだった時の、我が家の香り。 


「~♪」 


 カップに注いだ紅茶を彼に渡――せない、から、 
私の正面の、彼の定位置だった場所にそっと差し出す。 
 ――お互いが子供の隣の方が、何か会った時すぐ対処しやすいから。 
 なんて、それっぽい事を言って誤魔化そうとしてたけど、気付いてたんですから。 
 貴方が、時たまこっちを見て、幸せそうな顔をしてた事くらい。 


「~♪」 


 子供達の分のジュースは、買ってある。 
 二人共、お父さんに似て甘い物が好きだったわよね。 
 ふふっ、俺んちのオレンジジュース、って、今でもハッキリ覚えてるの。 
 私は、急なダジャレに驚いて。 
 貴方は、息子が‘俺’って言った事に驚いて。 


「~♪」 


 ああ……美味しい。 
 こんなに落ち着いた気分で紅茶を飲んだのなんて、本当に久しぶり。

577: 名無しさん 2018/03/06(火) 23:06:39.67 ID:rZbIlTLeo

「~♪」 


 行儀が悪いけれど、カップをカチャリと置き、左手で頬杖をつく。 
 その位は良いわよね、だって、誰も見てないんですもの。 
 子供達の前じゃ見せられない、だらしない姿。 


「~♪」 


 右手の人差し指で、すぐ隣、あの子の定位置だった場所のテーブルをなぞる。 
 ちっちゃい頃は、この指に猫みたいに反応して、 
くりくりしたまあるい目を輝かせながら顔でずっと追ってたわね。 
 ふふっ、お兄ちゃんも、同じことをしてたのよ? 
 恥ずかしがるから、言わなかったけどね! 


「~♪」 


 私もお化粧をしたい! って言われた時はビックリしちゃった。 
 自分が小さい頃の事は覚えてないから、私もそうだったのかしら? 
 あんなに子供の頃からお化粧だなんて、ねぇ。 


「……」 


 思い出した。 


 ――化粧がなくても可愛いから、必要無いよ。 
 ――私は、可愛くないからお化粧が必要ですものね。 
 ――いや、それは違……!? 


 なんて。 


「……ふふっ!」 


 あの時の貴方の焦った顔と来たらなかったわ! 
 しどろもどろになりながら、結局、右手を首筋にやりながら黙っちゃって。 
 寝る前に、やっとベッドの中で「可愛いし、綺麗だ」なんて言うんですもの。 


「~♪」 


 あの幸せが続いてたら、五人家族になってたかも、なんてね。 
 ……やだ、私ったらごめんなさい。 
 こういう話は、居間でするような話じゃないわね。

578: 名無しさん 2018/03/06(火) 23:23:53.53 ID:rZbIlTLeo

「……よっこいしょ」 


 椅子を引き、立ち上がる。 
 そろそろ、ベッドに横にならなきゃ、ね。 
 立ち上がる時の掛け声、貴方は初めて聞いた時、目を逸らしたわよね。 
 あれ、気遣いに入りませんからね! 


「~♪」 


 フラフラとする足で、ベッドルームへ向かう。 
 壁に手を這わせながら、一歩一歩、進んでいく。 
 途中の壁に落書きの痕を見つけて、懐かしくて足を止めそうになる。 
 将来、芸術家になったら物凄い価値が出る、だなんて、とんだ親馬鹿。 


「~♪」 


 階段を登るのが、きつい。 
 昔に比べて筋力が落ちているけれど、きつい理由はそれだけじゃない。 
 けれど、私が寝るのはあそこ。 
 あそこ以外に、あり得ないから。 


「~♪」 


 二階に、やっと辿り着いた。 
 途中、階段に手をつきながらになってしまったけど、ここからは、しっかり歩く。 
 二階には、子供部屋もあるんだもの。 
 絶対に有り得ないけれど、もし、もしもあの子達が出てきたら、ビックリしちゃう。 


「~♪」 


 ベッドルームに辿り着き、ドアを開ける。 
 まだ、この部屋にはあの人の匂いが残っている。 
 それに安心して膝が落ちそうになったけれど、こらえた。 
 飲みすぎてベッドに辿り着く前に寝ちゃった時、もの凄く怒られたから。 


「……ふうっ」 


 ボフンッ、とベッドの上に倒れ込む。 
 ちゃんと到着出来て、良かった。

580: 名無しさん 2018/03/06(火) 23:40:06.58 ID:rZbIlTLeo

「……んしょっ」 


 モゾモゾと、布団の中に入り込む。 
 寝るのは、ベッドの左側。 
 こうするとね、貴方の腕に抱かれて眠る時、心臓の音がよく聞こえるの。 
 左腕を枕にして、胸に顔をうずめると、ドクン、ドクン、って。 


「~♪」 


 けど、今は何も聞こえない。 
 聞こえないから、私が鼻歌を歌ってあげる。 
 普通に歌うのは、ちょっと待ってね。 
 本当に、もう、ちょっとだから。 


「~♪」 


 私は、とっても幸せだった。 
 悲しいことも、辛いこともあったけど、それでも、幸せだった。 


「……♪」 


 ……貴方と出会わなければ、こんな寂しい思いはしなかった。 
 けれど、あの子達にも、出会えなかった。 
 それは……もっと寂しい。 


「……」 


 お説教、覚悟しておくのよ。 
 遅くなる時はちゃんと言う、って家族のルールを三人して破って。 
 だから、私からそっちに行ってやるんだから。 
 ふふっ、叱るのは、然るべきです。 


「……」 


 ……ああ、でも、私が逆に叱られちゃうかもしれないわね。 
 貴方なんか、本当に仕方のない人だ、って怖い顔で怒りそう。 
 そうしたら、わたしは泣いちゃって、それから…… 


「……」 



 ……おはよう、って――笑顔で。 




おわり

589: 名無しさん 2018/03/07(水) 22:55:10.99 ID:s1fK/wzdo

「……!」 


 暗い、ホテルの一室。 
 背後から、眠れないのかベッドの上を転がる音が聞こえてくる。 
 ゴソゴソと鳴り止まないその音のせいで、正直、眠れないわ。 


「……寝て下さい」 


 うるさいので、ゴロリと彼に背中を向けるように寝返りをうつ。 
 明日はとても大事な日なのよ。 
 ちゃんと寝ないと、途中で眠たくなったらどうするの。 


「……すみません」 


 低い、低い神妙な声での謝罪。 
 気持ちはわからないでもないけど、それにしたって子供じゃないんだから。 
 昔は私の方が子供みたいって言われてたのに、 
貴方ったら、二人っきりの時はこうなんですもの。 
 もう、いい大人なんだから。 


「……その、眠れなくて」 


 わかってます。 
 でも、そうやってお話をしちゃったら、余計眠れなくなるわよ。 
 ただでさえ怖い顔だって言われてるんだから、寝不足なら余計に。 
 怖がられちゃって困る貴方を見るの、何度も見てきたんですから。 


「……そっちに、行っても?」 


 ……まあ、驚いた。 
 貴方、そこまで緊張してるの? 
 ふふっ、でも、こういう時じゃないと、素直に甘えてくれないものね。 
 良いわ、特別に許しちゃう。 


「どうぞ」 


 だけど、寝なくちゃいけないのは、本当。 
 明日は、大事な大事な、結婚披露宴。 


「……お邪魔します」 


 私と、この人の――大事な愛娘の。

590: 名無しさん 2018/03/07(水) 23:11:53.35 ID:s1fK/wzdo

「……」 


 寝たまま、後ろから優しく抱きしめられる。 
 私も背が高いけれど、この人は、もっと高い。 
 だから、こうやって抱きしめられると、揺りかごに入っている気分になる。 
 二人分の体重を受けて、ベッドがさっきよりも沈み込んでいる。 
 もう、こんなことになるなら、ダブルの部屋を取っておくんだった。 


「……」 


 後ろの髪の毛が、サワサワと揺れている。 
 きっと、彼が鼻で揺らしながら、匂いを嗅いでるんだわ。 
 もう! 寝るって言ってるのに! 


「愛してる」 


 耳元で、囁かれた。 
 少し体を乗り出して、ぎゅう、と強く抱きしめられる。 
 でもね、こんなタイミングで言わないでください。 
 そんな事、知ってますから。 


「はい、私も愛してます」 


 だから、大人しく寝てちょうだい。 
 娘がお嫁に行って寂しいのはわかるけれど、明日は披露宴でしょ。 
 というか、身内だけでもう結婚式は済ませたじゃないの。 


「……」 


 バージンロードで手を引いてる時の貴方の顔ったらなかったわ。 
 ものすごい顔で歩くものだから、神父さんがビックリしちゃってたし。 
 歩いてる途中で、無表情で泣き出しちゃうし……。 
 ふふっ、父親なんだから、パパっと出来ないものかしら。 


「あ」 


 あ。 


「……ちょっと?」 


 本当に、この人ったら! 


「……申し訳、ありません」 


 早く寝ないとって、何度言えばわかるの、もう!

591: 名無しさん 2018/03/07(水) 23:33:17.04 ID:s1fK/wzdo

「……はぁ」 


 思わず、深い溜息をついた。 
 首を回し後ろをチラと見てみると、シュンとした顔が一つ。 
 その気があったわけじゃないのに、盛り上がっちゃったのね。 
 本当に、仕方ない人なんだから。 


「……」 
「ど、どこへ……?」 


 ゴソゴソと、彼の腕をのけて、ベッドの反対側から出る。 
 スリッパを履いて、ぐるりと回り込む。 
 目的地は、彼が寝ていた、今は空いているベッド。 


「寝ますよ」 


 手をついたら、ベッドはまだ温かかった。 
 これなら、すぐに眠れそう。 
 スリッパを脱いで、もぞもぞとベッドに入る。 
 背中を向けてたら、今度は無言でこっちに来そうだから、 
そうならないよう、彼の方を向いて。 


「……」 


 元は私のベッドに寝転がり、彼がこちらを見ている。 
 それが、まるで捨てられた子犬のようで、笑っちゃいそうになる。 
 だけど、そうやって楽しくなったら、いけないの。 
 ……眠れなく、なっちゃうから。 


「我慢出来るなら、こっちに来ても良いわ」 


 キッパリと言い放つ。 
 今晩の私は、明日のために晩酌を控えてるんだから。 
 それなのに、その努力を貴方は無駄にする気なの? 
 どうなのかしら、プロデューサーさん? 


「……おやすみなさい」 


 あっ、我慢出来そうにないのね。 
 枕に顔をうずめて、いじけちゃって……もう。 


「はい、おやすみなさい」 


 その姿が可愛らしくて……とても、愛おしい。

592: 名無しさん 2018/03/08(木) 00:01:59.90 ID:xvc8i5yBo
  ・  ・  ・ 

「……」 


 もうすぐ、出番が来る。 
 娘に頼まれて、披露宴で一曲歌うことになっていたのだ。 
 引退したアイドルの歌声にどれだけの価値があるかわからない。 
 けれど……それでも私に歌って欲しいと、言ってくれた。 
 それに笑顔で応えられない私じゃ、無い。 


「……ふぅ」 


 緊張、は少しだけしている。 
 懐かしい、LIVEの前のこの緊張感。 
 練習は、彼と二人で、お家で出来るだけやったつもり。 
 それでも、トレーナーさんについて貰っていた昔に比べると、全然。 
 高い音も出なくなったし、声の張りも無くなった。 


「緊張、しているね」 


 なんて、彼が声をかけてきた。 
 その表情が、少しからかうような色味を帯びている。 
 昔の貴方だったら、精一杯緊張をほぐそうとしてくれてたと思うわよ。 
 それとも、昨日の夜の事を根に持ってるのかしら? 


「いいえ、そんな事無いわ」 


 貴方にからかわれるような、私じゃありません。 
 そんな想いを込めて、思いっきり笑い返してあげた。 
 そうしたら、彼の表情がフッ、と穏やかになり、 



「――良い、笑顔です」 



 ……なんて言うものだから、思わず昔を思い出した。 
 ファンの方達の笑顔に支えられて、一緒に階段を登っていたあの頃を。 
 その、一番のファンは、私の目の前に居ると言う事を。 


「頑張ってください」 


 とても不器用な、見る人によっては、わからない程の笑顔。 
 その笑顔に支えられているから、大丈夫。 
 この人が居れば、私はいつだってアイドルになれるのだ。 


「ええ……私なりに、余裕をもって」 


 祝福する、歌を歌うわ。

593: 名無しさん 2018/03/08(木) 00:30:02.33 ID:xvc8i5yBo
  ・  ・  ・ 

「……」 


 ステージに、立つ。 
 ファンの方が見ているんだもの、みっともない所は見せられないわ。 
 それに、今まで私達に沢山の幸せをくれた、大切な私達の娘も。 
 そして、愛娘を……多分、私達よりも愛している彼も。 


「っ……!?」 


 ちょ、ちょっと、ねえ!? 
 まだ歌ってもないのに、どうして泣いちゃってるの!? 
 ほら、せっかく綺麗なドレスを着てて、ああ、お化粧も……! 


「……!」 


 前奏が始まっているのに、泣き出した娘に気を取られちゃってる。 
 それはきっと、私がもう引退したアイドルで、母親だからだろう。 


 ねえ……どうしましょう!? 


 なんだか、私も釣られて泣きそうになっちゃってるの! 


「――あ」 


 そう、思って彼に目を向けると、彼は既に立ち上がり、こちらへ歩いてきていた。 
 その颯爽とした姿に思わず見入ってしまい…… 


 ……歌い出すのが、遅れた。 



 ――けれど、低く、よく通る声が会場に響いた。 



 それは、長年連れ添ってきた、私の愛する人の声。 
 その歌声は、私に向けられていた。 


 ……もう、駄目じゃないの。 


 こっちを――私達の、子供達の方を向いて歌わないと!

594: 名無しさん 2018/03/08(木) 00:52:55.70 ID:xvc8i5yBo
  ・  ・  ・ 

「ふふっ、うふふっ!」 


 ホテルに帰り着いて、何をするでもなく、ベッドに飛び込んだ。 
 とても……とても、幸せな気分で。 


「ドレスが……!」 


 焦る声が聞こえたけれど、聞こえない。 
 だって、もう大切な役目は終えたドレスだもの。 
 私達と一緒で、もう大きな仕事は終わったの。 
 お仕事に大きいも小さいもないなんて、誰かが言ってた気がするけれど。 


「ふふっ、ドレスって、どれっす? うふふっ!」 


 とっても飲みやすい焼酎で、あれならしょっちゅう飲みたくなっちゃう。 
 お料理も美味しくて、栄養のバランスも、りょうり・つ、出来ていそう。 
 デザートは、愛する人たちと、アイスを食べて。 
 あとはもう、考えを練るまでもなく、寝るだけだと思うの。 


「……今、着ているやつ」 


 彼が、呆れ顔でこちらを見ている。 
 もう、そうじゃないでしょう? 


「よろしくお願いしまーす♪」 


 これは、貴方が選んだドレスでしょう! 
 責任をもって、脱がせるまで、しっかりやりなさい! 


「……」 


 彼が、右手を首筋にやって、仕方ない人だ、と呟いた。 
 私は、それはお互い様じゃない? と返す。 


「……ふふっ!」 
「……くっくっ!」 


 二つの笑顔が、重なる。 
 靴は脱ぎ捨て、裸足になった。 
 これから、二人っきりの時間―ー 


 ――あ、待って! 先にシャワーを浴びたい! 


 待ってったら! うふふっ、もうっ! 



おわり

692: 名無しさん 2018/03/09(金) 22:12:48.49 ID:h5oZCgCQo
うし、テキトーにジャンル散らして書きます

694: 名無しさん 2018/03/09(金) 22:37:43.59 ID:h5oZCgCQo

「ちょっと……離して!」 


 本当に、これだから侍は嫌なのよ。 
 こっちが抵抗の出来ない町娘だからって、強引に。 
 私が誘うような目をしていた、なんて。 
 貴方達みたいな人に、そんな目を向ける訳が無いじゃないの。 
 けれど、私にはどうする事も出来やしない。 
 ほら、皆も関わり合いになりたくないって―― 



「――待たれよ」 



 ――そんな時、一人の、大柄な侍が現れた。 
 その身に纏う空気、眼光……何一つ取っても、只者では無い。 
 大きな侍は、男達と、それに手を掴まれている私の進路を塞ぐように立ちはだかった。 


「なんだ、お前は?」 


 最初は気圧され、怯んでいた男達も、相手は所詮一人と見るや否や気勢を上げた。 
 多勢に無勢、明らかに勝目は無い。 
 嗚呼、それなのに、大きな侍の顔には恐れの感情は欠片も見当たらない。 
 鍛え抜かれた刀身の様に、唯一つの役目を果たさんと静かに佇んでいる。 



「娘さん」 



 大きな侍は、男達には目もくれず、私を真っすぐに見つめてくる。 
 助けてください、逃げて下さい……その、どちらかを口にするべきなのだろう。 
 けれど、大きな侍の視線は、まるで私の心の臓を一突きしたかのよう。 



「あいどる、に……興味は?」 



 あいどる……それがなんなのか、私にはわからなかった。 
 わかったのは、彼がとても魅力的だと言うことのみ。 
 刀を抜かずに私の命を奪ったこの侍には、私の仇として、唇をねだってみよう。 
 彼の問いに対する答えを言う前に、私はそんな事を考えていた。

693: 名無しさん 2018/03/09(金) 22:15:13.98 ID:TPo3/7EBo
借金に追われた家族 
稼ぎにならない娘を残し夜逃げした一家 
夜中、暗い部屋から聞こえる鳴き声 

そんなとき、颯爽と現れたスーツ姿のサラリーマン

697: 名無しさん 2018/03/09(金) 22:53:06.85 ID:h5oZCgCQo
>>693 

「……」 


 どうして、私だけがこんな目にあうんでしょうか。 
 神様が居るとしたら、それは、とても不公平だと思います。 


「……」 


 ベッドの上に座りながら、暗い部屋を見渡してみます。 
 ほとんどの家具には、「差し押さえ」の赤い札が貼られているんです。 
 それは、ここは私の部屋なのに、ほとんどの家具が私のものでは無い、という意味です。 


「……うっ……ぐすっ……!」 


 泣いてはいけないと思っていても、ポロポロと、涙が溢れてきます。 
 誰に聞かれるわけでも無いのに、私は、声を殺して泣きました。 
 皆、私だけを置いて逃げてしまった。 
 私は、必要とされて居ないんだと思うと、余計に涙が溢れてきます。 
 泣いたらお腹が空くのに……もう、苺もパスタも残り少ないのに……! 



「――笑顔です」 



 そんな、泣き続ける私に、低い、低い声がかけられました。 
 その声はとても優しくて、温かな気持ちになりそうでした。 
 けれど、それは駄目です。 
 だって、その声の主は、私の部屋の窓を勝手に開けて佇んでる、不審人物ですから! 


「だ、誰ですか貴方は!?」 


 大きな声を出すと、怖い人達に気づかれてしまうかもしれません。 
 それなのに、大丈夫だと思ったんです。 



「通りすがりの、プロデューサーです」 



 こんなおかしな状況で、大きな体を曲げて丁寧に挨拶し、名刺を差し出すこの人。 



「アイドルに、興味はありませんか?」 



 この人が居れば、きっと大丈夫だろう、って。

695: 名無しさん 2018/03/09(金) 22:41:50.22 ID:8QXZFHEz0
前世で主従だった、主を守って従者は逝き、来世で邂逅 
飼い犬・猫が化けた 
ベットでナニしてるところを警察呼んだけど、3人になって襲われた

699: 名無しさん 2018/03/09(金) 23:15:34.61 ID:h5oZCgCQo
>>695一行目 


「……申し訳、ありません」 


 彼の顔から、生気が失われていく。 
 横たわった背中から、赤い、赤い血が溢れてくるのが見える。 
 命がこぼれ落ちていくのを私は、ただ、見ている事しか出来ない。 


「約束を……守れそうに、ありません」 


 彼は、助からない。 
 私の命を守るために、己の体を盾にして負った傷。 
 それは深く……彼自身も、自分の命の灯火が消えようとしているのを理解している。 
 足掻きたい。 
 けれど、そんな事をしていては、彼の最期の言葉を聞き逃してしまう。 
 それだけは、出来ない。 


「……笑顔です」 


 彼の手が、私の頬に触れそうになったが、その動きがピタと止まった。 
 この不器用で、誠実な私の騎士は、自らの血で私の顔が汚れるのを嫌ったのだろう。 
 ……わかってない! 本当、何もわかってない! 


「っ……!」 


 両手で彼の手を掴み、私の顔に押し付けた。 
 私の騎士の血で私が濡れる事なんて、躊躇うわけないでしょ! 


「頑張って……ください」 


 きっと私の進む先には、幾多の困難が待ち受けている事だろう。 
 それなのに、私の騎士はここから先へは行けないと言うのだ。 
 だけど、聞き入れない訳にはいかない。 


「行くよ……蒼い風が、駆け抜けるように」 


 残った兵達に、声をかける。 
 約束を果たさなかった私の騎士の、最期の言葉に応えるために。 
 振り返らず、前を向いて。 
 いつまでも、見守っててね。 


 ――いつまでも。 


 そして、いつか―― 




「アイドルに、興味はありませんか?」

696: 名無しさん 2018/03/09(金) 22:46:03.46 ID:JRcDvuh00
救助に来たヘリが墜落し脱出手段を失った武内Pは、突然意識を失う。小梅に救助された武内Pは、彼女からゾンビ化寄生虫に感染している事実を告げられる。24時間以内に抑制剤を投与しないとゾンビ化すると告げられた武内Pが、抑制剤を作成する道具の収集と新たな脱出手段を探しながらスカウト

700: 名無しさん 2018/03/09(金) 23:37:22.56 ID:h5oZCgCQo

「24時間以内に……抑制剤をと、投与しないと……」 


 ゾンビになる、と、目の前の少女は告げた。 
 薄々、気付いてはいた。 
 常人では有り得ない程の力を発揮し、窮地を乗り越えてきた。 
 それは恐らく、ゾンビ化寄生虫が私の脳を麻痺させ、 
本来ならば出すことの出来ない、己の肉体を破壊するだけの力を出させていたのだ。 


「では……24時間以内に、抑制剤を作成しないといけませんね」 


 少しふらつくが、立ち止まっている訳にはいかない。 
 救助に来たヘリも墜落し、現状では脱出手段すらない、この地獄。 
 ここから、生きて、人間として出なければいけないのだから。 


「そ……そんなの……無理、だよ。ゾンビになった方が……可愛い、よ?」 


 無理、か。 
 確かに、そう思う場面なのかも、知れません。 
 しかし、 



「笑顔です」 



 私は、プロデューサーだ。 
 ここで仕事を放り出すには、私はあまりにも不器用すぎる。 


「笑顔……?」 
「はい」 


 そう言う私自身が笑顔が得意でないのだから、格好がつかない。 
 右手の人差指で、頬をツイと上げ、無理矢理笑顔を作る。 


「パワーオブスマイル――笑顔には、不可能を可能にする力があります」 


 まずは、この扉の向こう側に居るゾンビを蹴散らし、より安全な場所を探す。 
 それから、抑制剤作成、脱出手段の模索……やることは、山積みだ。 


「アイドルに、興味はありませんか?」 
「あ、アイドル……?」 


 しかし、それも彼女の笑顔を見るためなら、必要なことだと、そう、思います。 


「オオオオオオ……!」 


 ゾンビ達が、扉を破り、部屋になだれ込んできた。 
 申し訳ありませんが―― 


「現在、企画中です!」

698: 名無しさん 2018/03/09(金) 23:04:07.79 ID:mz3PXsdc0
奏とベットインして、耳元でひたすらそれっぽい台詞をバリトンボイスで浴びせながらスカウト

701: 名無しさん 2018/03/10(土) 00:02:32.99 ID:KYkno0Ygo
>>698 

「アイドルに、興味はありませんか?」 


 耳元で、低く、セクシーな声で問いかけられる。 
 本当に、しつこい人ね。 


「貴女は今、楽しいですか?」 


 楽しい? 
 とっても不愉快だわ。 


「夢中になれる何かを――」 


 厳つい顔に似合わない、可愛らしいナイトキャップ。 
 その先端についた白いボンボンで、顔をくすぐられる。 


「心動かされる何かを――」 


 彼の大きい体を包んでも、尚袖が余っているパジャマが揺れている。 
 グレーを基調とした生地に、色々なポーズをとった黒いぴにゃこら太がプリントされている。 
 ナイトキャップも合わせて、なんだか逆に似合ってるように見えて、嫌。 


「――持っていますか?」 


 白いポンポンで、顔をパフンパフンと叩かれる。 
 ふふ、もの凄く腹が立つわね、これ。 


「キスしてくれたら「申し訳ありません、それは出来ません」 


 言葉を遮り、完全拒否。 
 体の前で、両腕を交差させてバッテンを作る彼。 


「アイドルに、興味はありませんか?」 


 また、白いポンポンで顔をくすぐられだした。 
 この人、私がアイドルになるって言うまで、やめないつもりね。 


「貴女は今、楽しいですか?」 


 彼は、ナイトキャップを脱ぐと、そっと私に被せた。 
 そして、うん、と頷きながら、私の横顔をジッと見つめている。 


「…………っぶふぅっ!」 


 いい笑顔です、と耳元で聞こえたが、悔しい気持ちでいっぱいだった。 
 毎晩こんなおかしな思いをさせられる位なら、アイドルでも何でもやろうと思わされたから。

702: 名無しさん 2018/03/10(土) 00:20:03.56 ID:KYkno0Ygo
  ・  ・  ・ 

ちひろ「……お、お疲れ様でした」 

武内P「……ありがとう、ございます」 

ちひろ「この間のスカウト動画、色々使われるみたいですよ!」 

武内P「それは……はい、無駄にならなくて、良かったと思います」 

ちひろ「それで、ですね……あの、こちらを」 

武内P「これは?」 

ちひろ「ウチの、役者部門からです……」 

武内P「……なるほど」 


武内P「スカウトされた時の思い出が、出来ました」 



おわり


991: 名無しさん 2018/03/20(火) 20:22:22.67 ID:t0wqhM/bo

「……」 


 シンデレラプロジェクトの、プロジェクトルーム。 
 カタカタと、キーボードを叩く音と、かすかに聞こえる時計の針の音。 
 前者を奏でているのは、大柄で、とても誠実なプロデューサーさん。 
 少し、お話をしてみたいと思って来たのですが、 
とても忙しそうな様子に声をかけるのを躊躇い、今に至ります。 


「……」 


 あの人の、真剣な眼差しが私に向けられる事はありません。 
 それは、私が彼の担当するアイドルではないから……です。 
 もし……もしも、私がシンデレラプロジェクトのメンバーだったら、 
と夢想してしまうのは、どうしてなのでしょう……。 
 自分でも、その理由がわからず、混乱……しているのでしょうね。 


「……」 


 特に、これと言った用事があったわけではないので、 
あの人の仕事が一段落し……私に気付いてくれるまで、待つ事にしました。 
 私はここのメンバーではないと言うのに、今のこの静けさと、 
規則的な針の音と、不規則なタイピング音が、とても心地良く感じるのです。 
 安らぎ、とでも言うべきでしょうか。 
 ここには、確かにそれがあります。 


「……」 


 ソファーに腰掛け、持ち歩いていた本のページを開きます。 
 挟んでいた栞は、目の前のテーブルの上に。 
 この手作りの栞を見たら、あの人はどういう反応を示すのでしょうか。 
 褒めてくれると、きっと、とても――……とても? よく、わかりません……。 


「……」 


 座った場所は、彼が視線を画面から外したら見える位置。 
 早く気付いて欲しいと思うのは……きっと、我儘なのでしょうね。

992: 名無しさん 2018/03/20(火) 20:38:40.79 ID:t0wqhM/bo
  ・  ・  ・ 

「……」 


 遂に、本を読み終えてしまいました。 
 中程までは読んでいたのですが、まさか読破してしまうとは。 
 物語の余韻に浸りながら、置いておいた栞に手を伸ばします。 
 本に挟んでおかないと、折れて……しまうかもしれませんから。 


「……あっ」 


 伸ばした手の先に、栞はありました。 
 そして、その横には、緑茶の小さなペットボトルが、一つ。 
 蓋の部分がオレンジ色なのは、これがホットだという事でしょう。 
 最近は、また肌寒く感じる風が吹くようになったので、ホットだったのでしょう。 


「……」 


 躊躇いがちに、そのペットボトルに手を伸ばします。 
 そして、ちょんっ、と触れた人差し指は、まだそれが温かく、 
そこに置かれてから然程時間が経っていない事を教えてくれました。 
 私は、慌ててそれを置いてくれたであろう人へ顔を向けました。 


「……」 


 カタカタ、カチカチ。 
 二つの音は、私が書の世界に入り込む前と同じように部屋に響いています。 
 声をかけてくれても……いえ、もしかしたら、声をかけてくれたのかもしれません。 
 それに、そこまでを望むのは、来訪者としてあるまじき事。 


「……」 


 嗚呼、勝手に部屋に入って、本を読み耽るおかしな女と、 
そう、思われてしまったでしょうか? 
 ……いえ、きっとそうに違いありません。

993: 名無しさん 2018/03/20(火) 20:54:43.17 ID:t0wqhM/bo

「……」 


 部屋に入る時に、声はかけたのです。 
 その……少し、声量は足りなかったかも……知れませんが。 
 ノックもきちんとしましたが、反応がなく……。 
 決して、コッソリと忍び込むというつもりは無かったのです。 
 ただ……結果的にそうなってしまった形なだけ。 


「……」 


 そう、弁明したいのですが、あの人は、 
私が最初に部屋に入った時と同じ様に、耳をヘッドフォンで覆い隠し、 
外界との音の繋がりを完全に遮断しています。 
 その目も、画面に向けられ……恐らく、担当している方達の動画の確認を。 
 そう考えると、きゅう、と胸が締め付けられるような痛みがしました。 


「……」 


 あの人は、此処に居ない方達が映る画面に……目を奪われている。 
 いえ、奪われているのではなく……注いでいる、そんな目をしています。 
 絶対に、私には向けられる事の無い、目。 
 担当アイドルでない私では、受ける事が出来ない想いの篭った眼差し。 


「……」 


 私は、此処に居るのに。 


「……」 


 ……なんて、そう思っているだけだから、駄目なのでしょうね、私は。 
 そんな自分を変えたくてアイドルの道へと足を踏み入れたというのに、変わらない。 
 人と触れ合う事を恐れる……そんな、弱い自分が今は……歯がゆい。

994: 名無しさん 2018/03/20(火) 21:12:06.20 ID:t0wqhM/bo

「……」 


 気づけば、喉の奥がカラカラに渇いていました。 
 その原因は、部屋が乾燥しているからか、はたまた、私自身の問題か。 


「……」 


 一旦、考えることをやめて、ペットボトルを両手で包み込む。 
 まだ熱を残しているそれは、じんわりと私の両手を温めてくれます。 
 ……けれど、乱雑に積み重ねられた本の海の様な私の内側までは、その熱は届きません。 


「……」 


 無駄な事だとはわかっていても、そうせざるを得なくて。 
 この温かさが、私に向けられた優しさが、内側までも温めてくれると信じて。 
 私のための、ペットボトルを持ち上げました。 


 ……すると、その下には―― 


「……」 


 ――黒いぴにゃこら太の、メモが置かれていました。 


「……可愛い」 


 お腹の白い部分に、 


「どうぞ」 


 と、まるで声まで聞こえてくる一言が添えられて―― 


「――っ!?」 


 まるで、ではなく、実際にかけられた声に、私はビクリと体を震わせました。

995: 名無しさん 2018/03/20(火) 21:31:55.84 ID:t0wqhM/bo

「あ……あっ、あの……!?」 


 さっきまで、デスクに座っていたと思ったのに、いつの間に……!? 
 ワタワタと慌てる様子を見て、プロデューサーさんも、しまった、という顔をしています。 
 この人は、自分の顔が、物語に登場する怪物のように思っているらしいのです。 
 見ただけで、相手が怖がってしまう顔だ、と。 


「あっ――」 


 私が驚いた理由は、そうではないのに。 
 それを弁明する暇もなく、慌てたせいか、持っていたペットボトルから手が離れてしまいました。 


 絶対に、これを落としてはいけない。 


 ……何故か、そんな想いが、私の思考を埋め尽くしました。 


「――っ!」 


 前までの私だったら、全く動くことなく、それを落としてしまっていたと思います。 
 けれど、アイドルとしてのレッスンの成果でしょうか。 
 両の手は、私自身でも驚く程の速さで、包み込みました。 


「……あ」 


 空中でペットボトルを掴んだ、彼の右手を。 
 大きく、ゴツゴツとした……とても、温かい手。 
 その手から伝わってくる熱が、手を、腕を、体を駆け巡っていくようです。 
 ……自分で言うのも恥ずかしいのですが、なんて、熱を伝えやすい体なのでしょう。 


「……」 


 首を伝って、顔までも、熱くなってしまいました。

996: 名無しさん 2018/03/20(火) 21:44:49.64 ID:t0wqhM/bo

「……あの」 


 いつまでも手を離さない私に、低い、戸惑う声がかけられました。 
 慌てて両手を離し、銃を向けられているかのようなポーズを取ります。 
 今のはわざとではありません、違うのです、と、無言の弁明のつもりで。 


「……」 


 そんな私の驚きように、目の前の人は、ふと、少しだけ考え、 


「どうぞ」 


 と、手に持っていたペットボトルを差し出してきた。 
 混乱する私は、目を見開いたまま、カクカクと首を上下させ、それを受け取りました。 
 思考をかき乱された理由は……わかっています。 


 この人が、とても優しい、笑顔をしていたから。 


「……ありがとう……ござい、ます」 


 今にも消え入りそうな、感謝の言葉。 
 目を見て言わなければと思うのですが、今は、とても顔をあげられません。 
 だって、こんなに紅潮した顔を見られたら、余計に……いけません、考えたら、駄目。 



「申し訳ありません。丁度、貴方の動画を確認していて――」 



 気付くのが遅れてしまいました、と、言われた所までは聞こえていました。 
 けれど、それに続く言葉は、私の耳には入ってきませんでした。 


 心臓の音がうるさすぎて、それが彼に聞こえてしまわないか気が気でなくて。 



おわり