128: 名無しさん 2018/05/27(日) 22:48:02.87 ID:Epwa045Fo

「ぷはー!」 


 レッスンのあとに飲むジュースは、かくべつでやがりますなぁ! 
 今日も、いっぱい頑張ったでごぜーます! 
 トレーナーのお姉さんも、いっぱい、いーっぱい褒めてくれたですよ! 
 えへへ、褒められると、うれしーでごぜーますよ! 


「……えへへ~♪」 


 思い出すだけで、うれしい気持ちが溢れちゃうんだ! こんな風に! 
 トレーナーのお姉さんだけじゃなく、皆も褒めてくれたですよ! 
 頑張ってるね、可愛いね、って! 
 そうやって褒めてくれるだけで、仁奈はとっても幸せでやがります! 


「明日は、何のキグルミにしようかな~」 


 明日は、歌のレッスン! 
 だから、お歌が上手な動物さんのキグルミにしよー! 
 ウサギのキグルミはお気に入りだけど、ウサギはお歌が得意じゃねーでごぜーます。 
 歌うとしたら、どんな感じだろ? 


「……ピョーン、ピョンピョンピョーン♪」 


 うーん、やっぱり、難しいでごぜーますなぁ。 
 ウサギの気持ちは、ピョンピョン飛び跳ねるけど、歌うのは苦手でごぜーますよ。 


 だけど、仁奈はウサギのキグルミがお気に入りでごぜーます! 
 だって、これを着てると、いつもより皆が優しくしてくれやがります♪ 
 いっぱい、ぎゅーってしてくれるですよ! 


「……そうだ!」 


 もっとウサギの気持ちになれば、皆、もっと仁奈を見てくれるかも! 
 ふおお! すげー……すげー事を思いつきやがりました! すっげー! 


「よいしょ、と」 


 きゅーけースペースは、テーブルが無いから不便でごぜーますなぁ。 
 誰も居ないし、ジュースは椅子に置いておいても大丈夫? 大丈夫! 
 ちょっとだけ、ウサギの練習をするだけでごぜーますから! 
 ここでいい子で待ってるですよ? だって、ウサギはオレンジジュースは飲みやがりません! 


「ピョン♪ ピョンピョン♪」 


 足を揃えて、ジャンプ……足を揃えて、ジャンプっ! 
 キグルミの耳が、パタパタ揺れます。 


 足を揃えて、ジャンプ……足を揃えて、ジャンプっ! 
 どんどん、どんどんウサギの気持ちになるですよ。 


 ダンスレッスンの後だから、すげー大変でごぜーます。 
 でも、仁奈は頑張るですよ! 
 もっと、もっと頑張って、皆に見てもらって、ぎゅーっとして貰うんだー! 


「ピョン、ピョン……ピョンっ!」 


 つらくても、苦しくても、仁奈はいーです。 
 寂しくて、悲しいのは、嫌でごぜーますから。





引用元: ・武内P「アイドル達に慕われて困っている?」

129: 名無しさん 2018/05/27(日) 23:21:27.42 ID:Epwa045Fo

「ピョン……ピョン、ピョン!」


 仁奈は、キグルミが好きですよ!
 キグルミを着てると、皆がかわいいって褒めてくれやがりますから……えへへ。
 ママも、新しいキグルミを着てるのを見たら、かわいいって言ってくれるでごぜーます!
 だから、もっとお仕事を頑張って、もっといっぱい新しいキグルミを着てーですよ!


「ピョンピョン……ピョ……ピョンッ!」


 仁奈は、ママが好きでごぜーます!
 ホントはもっと一緒に……そばにいてほしーでごぜーます。
 だけど、ママはお仕事が忙しいから、仁奈がそう言うのってワガママなんだー。
 ワガママを言うと、オトナになれねーので、言わないようにしてます! えっへん!


「ピョンピョンの……ピョンッ!」


 ママは、お仕事が好きでごぜーます! きっと!
 人間のキグルミは持ってねーので、ママの気持ちはわからねーですよ。
 人間のキグルミを持ってたら、もっと、そばにいて貰えるのかなぁ?
 ……うぅ、人間のキグルミ……欲しいでごぜーます。


「ピョンピョンっ!」


 だけど、お仕事が楽しいって気持ちは、仁奈にもわかるんだー!
 アイドルを始めてから、仁奈は、毎日がすげー楽しいでやがりますよ!
 きっと、ママも仁奈くらいお仕事が楽しいんだと思うです! もしかしたら、もっと!


「……」


 だから……だから――


「……ピョンッ」


 ――仁奈も、頑張るでごぜーます!


「ピョンッ! ピョンピョンッ!」


 仁奈は、お仕事が好きです! すっごく、すっごく好きでやがります!
 えへへ、だって、お仕事を頑張ってると、皆が仁奈を褒めてくれます。
 お家に帰っても、誰も居なくて、寂しくて、悲しいだけでごぜーました。


「……ふぅ……きゅーけーも大事、っておねーさんが言ってやがりました」


 でも! アイドルをやってると……お仕事してると、誰かが近くに居る!
 誰かが近くにいるって、すっげーあったけーでごぜーますよ!
 ぎゅってしてくれて、あったかくて、えへへ、ポカポカするでごぜーます。
 だから、仁奈はお仕事が大好きでごぜーます♪


「……喉、渇いた」


 キグルミを着て、お仕事をすると、皆が見てくれやがります。
 だから、仁奈はキグルミも、お仕事も、すっげー大好きでごぜーますよ!
 仁奈は……寂しいのがきらいでごぜーます。
 寂しいのはきらいなので、いっしょーけんめー頑張るですよ!

130: 名無しさん 2018/05/28(月) 00:04:18.82 ID:qelP7VnGo

「……ぷはー!」


 オレンジジュースが、しみわたりやがりますなぁ!
 おねーさん達も、お酒を飲んだ時はこんな気持ち? かなー?
 だけど、お酒を飲んだ次の日のおねーさん達は、くっせーでごぜーます!
 早苗おねーさんたちは、時々……あはは! すっげーくせー!
 お仕事してる時はチョーかっけーので、らくさがすげーですよ!


「ふ~ん♪ ふんふふ~ん♪」


 美優おねーさんは、すっげー良い匂いがするですよ!
 仁奈は、美優おねーさんの膝枕がお気に入りでごぜーます♪
 すげー良い匂いがして、やわらかくて、あったかくて、幸せな気持ちになるです♪
 間違って、ママ、って呼んじゃっても、怒らなかったでごぜーます!
 笑って、優しくナデナデしてくれたんだ! えへへっ♪


「ふ~ん♪ ふんふふ~ん♪」


 ねっ! お仕事してると、こんなにうれしー事がいーっぱい!
 だから、仁奈は事務所に来るのが、楽しみでしょーがねーですよ!
 お家に居ても、一人で寂しいだけでごぜーますからなぁ。


「……」


 ……だから、もっと頑張って、人気のアイドルになるですよ!
 そうすれば、もっといっぱい仕事が出来て、事務所にいっぱい来れるでごぜーます!
 事務所に来れば、寂しくねーですから!


「……」


 ……ここに住めれば良いのになー。
 そうすれば、学校から帰った時も、寝る時も、起きた時も……寂しくねーのになー。
 誰かと食べるゴハンは、一人で食べるよりもすげーうめー! うめーんでごぜーます!
 オニギリばっかりは……あっと、ワガママは言いやがりませんよ! エッヘン!


「……よし、きゅーけーしゅーりょー! でごぜーます!」


 ウサギさんの気持ちになるですよ!
 もっと頑張って、ファンの人を増やすでごぜーます!
 いっぱい練習して、ずっと、いーっぱいの人に見て貰えるようになるでごぜーますよ!


 えへへ、そうすれば、仕事で海外に行ってやがるパパも見てくれるかな。


「……」


 仁奈は、パパが大大、だーい好きでごぜーます!
 パパは、ママよりも忙しくて、あんまり会えないです……。
 でも、アイドルを頑張れば、海の向こうにも届くでごぜーます! きっと!
 だから、仁奈は……仁奈は――


 コトンッ。


「ん? 何の音だろー?」


 足元で、音がしやがりました。

131: 名無しさん 2018/05/28(月) 00:28:01.67 ID:qelP7VnGo

「――あっ」


 オレンジ色の、水たまりが広がっていきやがります。
 トプトプ、トプトプ広がっていきやがります。


「あっ、あっ!」


 どうしよう……どうしよう、どうしよう!
 キグルミが、引っかかっちゃったんだ!
 もう、中身は空っぽになったみてーですけど……どうしよう!



 怒られる。



「っ……!」



 嫌われる。



「いやだ……いや、いや、いや、いやでごぜーます……!」



 嫌われたら、一人になっちゃう!
 もう、一人は嫌でごぜーます!
 なんとかしなきゃ! なんとか!


「――そうだっ!」


 良いことを思いついたでごぜーます!


「んしょ……んしょっ!」


 キグルミは、汚れちゃ駄目でごぜーます!
 だって、キグルミがないと、皆が仁奈を見てくれなくなっちゃうかもしれねーですから!


 だけど、シャツが汚れても、着てなくても、大丈夫でごぜーます!


 シャツで拭いて、キレイキレイするですよ!


「……へぷちっ!」


 寒いけど、問題ねーですよ!
 寂しくなるくれーなら、こんなのヘッチャラでごぜーます!
 ……うぅ、でも、あんまりキレイにならねーです……。
 どうしよう……どうしよう……。


「……うぅ……!」


 仁奈は、もう一人になりたくねーです。

132: 名無しさん 2018/05/28(月) 01:00:12.79 ID:qelP7VnGo
  ・  ・  ・

「――やったー! キレイになったでごぜーます!」


 ジュースをこぼしたとは、誰もわかりやがらないです!
 えへへ! みすをしてもとりかえす、ってこーゆー事ですね!


 これで、嫌われずにすむです!
 アイドル、続けられる!
 一人にならなくてもすむですよ!


「……へぷちっ!」


 早くキグルミを着て、あったかくなるでごぜーます!
 んしょ……んしょっ……んー! やっぱり、あったけー♪
 キグルミは、やっぱり、最高でごぜーますなぁ♪


 キグルミを着てれば、皆が可愛がってくれやがりますから♪


 寂しくならねーなら、シャツなんていらねーでごぜーます!
 仁奈は、キグルミを着たアイドルでごぜーますから!


「シャツは……捨てちゃっても、良いですね」


 汚れちゃったし、そもそも、かなりボロっちくなってやがりましたから!
 普通の服の中では、お気に入りだったけど……最後に、頑張ってくれた!
 今まで、ありがとーごぜーました!
 もー! ポタポタたれるの、うっとーしーです! えいっ!


「……へぷちっ!」


 やっぱり、ちょっとさみーですねぇ。
 ……だけど、寂しいより、平気です! 全然!


 寂しいのは、服を着ても、キグルミを着ても、ふせげねーですからね!


 誰かがそばにいないと、ダメなんだー。


「……」


 おねーさん達、お仕事から戻ってきてるかな?
 お家に帰っても、ママは、きっとまだ帰ってねーでごぜーます。
 だから、おねーさん達が居たら、お願いしよー!


 ぎゅ~っとしてくだせー! って!


「ピョン……ピョンッ!」


 おねーさん達は優しいから、お願いを聞いてくれるでごぜーます! きっと!
 ぎゅっとして、ナデナデして、あったかくしてくれやがります! えへへ♪


 だから、ウサギの気持ちになるですよ!



おわり



147: 名無しさん 2018/05/28(月) 22:50:33.08 ID:qelP7VnGo

「あたしが失踪する理由?」


 失踪する理由かー。
 うーん、ただの趣味、って言っても納得いかない顔してるね、キミ。
 だけど、納得出来ないと、あたしが音を上げるまで聞くタイプでもない、か。
 オッケー! それじゃあ、気まぐれ志希ちゃんがお話してあげよーう!


「あたしが失踪したら、どう思う?」


 腕を後ろで組み、腰を曲げ、上目遣いで見上げながら、言う。
 右手を首筋にやって戸惑ってる姿は、最近では、もう見慣れてきたかにゃ~。
 んっふっふ、困ってる困ってる。
 あたしのもう一つの趣味は、観察。
 その対象としても、キミはとっても興味深い反応をするよねぇ。


「さあさあ、キミはどう思うのかな?」


 どう、思うんだろう。
 あたし達の関係は、あくまでもビジネスだからねん。


 アイドルと、プロデューサー。


 なのに、あたしは、それ以外の関係性から得られる答えを求めてる。
 当然、それはあたしの勘違いって可能性も、ある。
 あたしにだって、わからない事くらいあるのです。
 色々な可能性があるけれど、その、全てが正解で、全てが間違いかも知れない。


 だから、あたしは観察する。


 間違った結果を積み重ねていった結果、駄目になってしまったものがあるから。
 今度は、間違えたくはない。
 そう思う理由すらもわからないのに、おかしな話だよね~、にゃはは!
 おっとと、何か言おうと、口を開きかけてるね。


 さあ、キミは、あたしが失踪してどう思うのかな?


 キミは、あたしが求める答えを導き出してくれるのかな?


「……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 右手をおろして、気をつけの姿勢。
 困っていた顔は、一見無表情に見えて誠実な匂いが漂うものに、変化した。
 心の中で、一体どんな化学変化が起こったのかな。
 ま、いいや。


「ん、何ー?」


 ヒントの一つくらいは出してあげようかな。
 頑張ってあたしを見つけたご褒美です、パンパカパーン!



「どう思われたいと……思っていますか?」



 ……わお、鋭い質問をしてくるね。

148: 名無しさん 2018/05/28(月) 23:18:42.84 ID:qelP7VnGo

「う~ん、そうだなぁ~……」


 人差し指を頬に当てて、思案する――フリをする。
 答えは出ているけれど、それを導き出す方程式を見せつける。
 風が吹いて、髪がフワリと揺れる、揺れる。
 風上に立っていたあたしの匂いが、あたしの答えを待つ人を包み込む。


「……んふふっ!」


 思わず、笑みがこぼれる。
 副交感神経がリラックス状態になっていると自覚するのは、不思議な感覚。
 この感覚に身を任せて、そのまま消えてしまえればどれだけ幸せなのだろう。
 けれど、人間の体は、そこまで思考に依ったものじゃないんだよねー。


 皆は、あたしを天才――ギフテッドと言う。


 まー、ローティーンで海外で飛び級してるんだから、そうなのかなって思うよ。
 ふつーじゃない、ってやつ。
 でも、それにも程度っていうものがあるんだよね~。


 本当の天才っていうのは、孤独。
 孤高じゃなく、孤独なものだとあたしは考えてる。


 その才能に、周囲の人間はついていけない。
 ついていこうとしても、必ず無理が生じ、致命的な破綻を生む。
 肉体的、精神的、経済的、色々な破綻をね。
 あたしの知ってる一番の天才は、もう、色々とぶっとんでて、ぶっ壊した。


 幸せだった……そんな家庭をものの見事に、ぶっ壊した。


 勿論、それが一人の責任だなんて事は言わないよ。
 だって、ファミリーっていうのは、支え合っていくものらしいからね!
 小さい頃に見たホームドラマの中で言ってたし、それに……ママも言ってたから。



「――内緒♪」



 ママは、ふつーの人だった。
 あ、すっごく美人だったよ? だから、あたしの容姿はママ譲りなので~す! ラッキー!
 でもね、中身はぜーんぜん違うの!
 だってさ、あたしの事を『希望』だって言っちゃうような人だよ? にゃはは!


 あたしには、わかんない。


 どうして、あたしが希望なのか。
 あの時、あたしがもう少し大きかったり、それこそ、ふつーの女の子だったら、わかったのかも。
 けれど、あたしはその時小さかったし、当然のように――ダッドのように、ギフテッドだったから。
 だけどさ、今でもハッキリ思い出せる。


 あたしを『希望』と言った時の、ママの笑顔。
 その時の匂いも、あたしの脳に深く……とっても深く刻み込まれてる。


「――さっ、戻ろっか!」


 あたしは、それを思い出すと、いつものあたしではいられなくなる。

149: 名無しさん 2018/05/28(月) 23:51:59.56 ID:qelP7VnGo
  ・  ・  ・

「……んー」


 マイ研究室で一人、実験ざんま~い!
 アイドルも刺激的だけど、このルーティンワークも無くせない。
 だって、これはあたしが、今まであたしでいた事の証明でもあるし。
 それに何より、イイ匂いでトリップするのも――


「――良いねぇ!」


 鼻孔を甘~い香りが通り抜けていく。
 その香りに体の神経系統を全て委ねるように、寝転がる。
 床にはマットレスが敷かれていて、準備万端! 志希ちゃん天才!
 にゃはは、前にそのまま寝ちゃって、体バッキバキになっちゃってさー。


「……ふぅ」


 どう思われたいと、思ってるか。


 さてさて、あたしはどう思われたいのでしょうか。


 誰に、どう思って欲しいのでしょーう、かっ。


「……」


 なーんてねっ!
 センチメンタリズムは、あたしらしくなーい!
 あたしはロジカルシンキーング! いえーい!


「……」


 ……あー、なんだか変な感じにキマっちゃったかにゃー?
 考えないようにしてる……思わないようにしてるのに。
 思考がどんどん溢れてきて、ふつーなら処理出来なくなるのに。
 あたしの脳は、それを処理しようと稼働して、止まらない。



「ママ……パパ……」



 ああ、口に出してみれば楽になるかと思ったけど、違ったみたい。
 聴覚を刺激して、余計に感情が溢れるのに歯止めがきかなくなる。
 大脳辺縁系が、あたしの心を司る部分が、あたしを苦しめる。


 この匂いは、成功で、失敗。


 目を開けて、視覚を頼りに、足掻く。
 仰向けに寝転がったまま、コンクリート製の天井を見つめる。
 このコンクリートの天井が突然落ちてきて、あたしを押しつぶす確率は?


 ……。


「……あー、飽きちゃった」


 脱出、成功ー!

150: 名無しさん 2018/05/29(火) 00:25:43.25 ID:WvkP/9u0o
  ・  ・  ・

 パパは――ダッドは、孤独。
 孤高じゃなく、孤独。


 にゃはは! ダッドは、それが平気な人なんだよね~!


 ……でも、あたしは違った。
 あたしの当り前は、ダッドと――パパと、ママの三人で居る事だったから。


 あたしが色々な事を出来るようになったら、ママが、偉いね、凄いねって褒めてくれる。
 優しい笑顔を向けてくれて、頭を撫でてくれる。
 それがくすぐったいけど、全然嫌じゃなくて、もっとしてほしいって思って。
 そんなあたし達を見て、パパも、笑ってて。


 ふつーの幸せ。


 あたしは、それを知ってる。
 ワクワクはしないけれど、とっても素敵で、輝いてて、それがずっと続けば良いのにって思ってた。
 ううん、続くと信じて疑わなかったんだよねー。
 きっと、パパもあたしと同じで、そう思ってたんじゃないかな。


 そう思ってたからこそ、こんな風になっちゃったのかなー、って。


 パパは、ママを深く愛してた。
 孤独なあの人が、あーんなにぶっとんだ人が、まるでふつーの人みたいに振る舞うほど。
 二人の間に、どんなラブ・ストーリーがあったかは、知らない。
 だけど、その結果として、あたしが生まれたんだもんね。


 だけど、狂った歯車は崩壊するしかない。


 どれだけ革新的な理論を構築出来る頭でも、それは止められない。
 事実、あたしにもパパにも――ダッドにも、止められなかった。
 あ、ダッドは止めようとはしてなかったかな?
 あたしは全力で抗ってみたけど、所詮は一人の人間、止められなかった。


 孤独な人の隣に立つには、あたしも孤独でなきゃならない。


 子供心にそう考えたあたしは、そうだねぇ……おバカさんでーす! にゃはは!
 だってさ、孤独だったあの人の隣に居たのは、ママだったんだから。
 あたしがやるべきだったのは、娘として、ふつーに甘える事だったんだと、今ならわかる。
 わかるけど、出来るかは別だけどねん!


 だって、あたしもギフテッドだから。


 あたしもダッドも、才能が無かった。


 致命的なまでに、家族の才能が無かった。


 結局、孤独が平気なダッドは、また一人に戻った。
 でも、あたしは一人を知らなかった。
 パパとママとあたしの、三人の、家族で暮らす幸せしか知らなかった。
 だから、必死でダッドの隣に並ぼうとした。


 結果、孤独が平気なダッドが、一人。
 孤独を寂しいと思うあたしが、一人。
 一人と一人は、二人にはならなかった。

151: 名無しさん 2018/05/29(火) 01:09:12.96 ID:WvkP/9u0o

 あたし自身が、楽しめたってのはラッキーだったかな。
 凄い! 偉い! って褒められるのは、悪い気分じゃなかったしね!
 知らない事を知る、知識を深めていくのも快感だった。


 でも、飽きた。


 あたしが本当に褒めて欲しい人は、見てくれないとわかったから。
 向こうでずっと学び続けても、あたしの孤独は決して埋まらない。
 寂しいと思う事にも慣れたけど、一生、それに付きまとわれる。
 あたしは、そんなのはごめんだったのでーす!


 孤独な人がポツン、ポツンと居るのの――何が楽しいの?


 だから、あたしはダッドから逃げたとも言えるんだよねー。
 諦め、挫折、そんな単純なものじゃなく、わかっちゃったんだ。
 このやり方じゃ、絶対にもとのカタチには戻らない、ってね。
 だから、日本に戻った。


 そして……見つけた。


 すっごくワクワクして、ドキドキする――アイドルっていう道を!
 久しぶりだったよー! 何も使わずにトリップするなんて!
 これってさ、すっごい事なんだよ!


 あたしが――ギフテッドが、夢中になるなんて!


 刺激に溢れてて、わからないことだらけで、出来ないことが沢山あって!
 そりゃあ、またにサボりたくなっちゃうけどさ、にゃはは!
 最初の頃は、あたしならヨユーヨユーなんて思ってたけど、違って。
 それがまた、面白いの!


 そしてさ、言われたんだよね、



 ――見るかも。



 ……って!


 ダッドが、アイドルになったあたしを見るかも知れない。
 可能性としては、ほとんど無いとは思う。


 でも、もしかしたら、もしかするかも。


 ギフテッドのあたしが、夢中になるのがアイドルなんだよ?
 だったらさ、あの人も夢中に……とは言わないまでも、目に留まるかもしれない。
 その時、どんな表情をするのかなー、ってあたしは思うのですよ!


 それが、あたしのやる気の源の一つ。


 あたしの想定外の、希望。
 あっ! そういう意味じゃ、あたし自身が希望とも言えるね!
 ママって、やっぱり凄い! ギフテッドなんて目じゃないよ~!


 だから、あたしは笑う。
 ママと一緒に写った写真の、パパが笑ってと言った、あの時の笑顔で。


 失踪する理由?
 それはねぇ……また今度にしよっか、にゃははは!



おわり

305: 名無しさん 2018/06/01(金) 20:53:44.47 ID:A7KOgODJo

「少し、歩きにくいかも」


 率直な感想をプロデューサーに言う。
 それを聞いたプロデューサーは、右手を首筋にやって、少し困った顔をした。
 多分それは、今の私の表情が、あまり良いものではないから。
 だけど、しょうがないでしょ? 本当の事だし。


「セットの中の移動に、支障が出そうですか?」


 だけど、仕事は仕事。
 慣れていない格好だからって、あまり文句は言えない。
 それに、これはシンデレラプロジェクトのイメージに関わる、大事な仕事だから。
 だから、そんなに心配そうにしなくても、大丈夫だから。


「その程度なら……うん、大丈夫」


 控室の中を軽く歩いて見せる――魅せる。
 私が一歩踏み出すたびに、純白のドレスの裾が揺れる。
 髪もメイクも、スタイリストさんがバッチリ決めてくれている。


 何より、極めつけは――


「お話の中みたいに、踊るわけじゃないから」


 ――ガラスの靴。


 透明で、キラキラしてて……まあ、本物のガラス製じゃないんだけどね。
 LIVEの時に履く靴と違って、ヒールが高い。
 私物の靴にもこんなのは無い……というか、
ここまでヒールの高い靴を履く女子高生って居ないでしょ。


「どう、かな?」


 ドレスの裾を持ち上げて、プロデューサーに感想を聞く。
 裾は膝下まであるから、その必要はないんだけど……まあ、なんとなく。


「……はい」


 プロデューサーの視線が、私の足元に向く。
 何について尋ねたのか、ちゃんと言わずにいたのに、わかって貰えた。
 それが、なんとなく照れ臭くて……だけど、それを悟られたくなくて。
 クールだと言われる、いつもの私の表情を無理矢理作る。


「とても、良くお似合いです」


 作って、


「……うん、ありがと」


 すぐ、壊された。

306: 名無しさん 2018/06/01(金) 21:23:40.41 ID:A7KOgODJo

「良い、笑顔です」


 何度も聞いた……聞き慣れた、プロデューサーのいつもの言葉。
 スルリと耳を通り抜け、私の中にストンと落ちる、大切な言葉。
 またそれ? と、苦笑を返すけれど、それでも、また言ってくれるよね。
 じゃないと、こういう他愛の無い反応が出来なくなっちゃう。


「ねえ、他には?」


 だけど、今日は少しだけ欲張ってみる。
 プロデューサーが、どんな言葉を続けてくるか、わからない。
 わからないから、少し、聞いてみたくなった。


 だって、今日の私は――お姫様だから。


「他に、ですか?」


 ……まあ、お姫様なんて、ガラじゃないんだけどさ。


 でも、私は、此処に居る。
 純白のドレスを纏って、ガラスの靴を履いて。
 物語の中から抜け出してきた、お姫様であるために。


 お姫様……シンデレラとして。


「うん。何か、無いの?」 


 私はこれから、シンデレラプロジェクトの、イメージガールとして撮影に臨む。
 勿論、最初にこの話をされた時は断ったよ。
 だって、私よりも、プロジェクトの代表として相応しい子が居ると思ったから。


 だけど、メンバー全員が、私がやるべきだと言ってくれた。


 ……まあ、皆、それぞれに言いたいことを言ってくれたけどね。
 その一人一人の、一つ一つの言葉が、私に力をくれてる。


 でも、まだ、ほんの少しだけ足りない。


「……」


 プロデューサーは、右手を下ろし、気をつけの姿勢を取った。
 高い身長、低い声、怖い顔……とても誠実で、不器用で、いつも見ててくれる人。
 私をアイドルの世界に引き入れ、毎日を輝かせてくれた人。


 そんな、プロデューサーの一言があるだけで、私は、


「私は、貴女のような素晴らしいアイドル――シンデレラの担当をする事が出来て」


 とても、嬉しく思います。


「……ふーん。まあ、悪くないかな」


 物語の中みたいに、ロマンチックな言葉は期待してなかったから、ね。

307: 名無しさん 2018/06/01(金) 22:02:39.84 ID:A7KOgODJo
  ・  ・  ・

「お疲れ様でした」


 撮影が終わり、プロデューサーに声をかけられた。
 お疲れ様とは言われたけれど、撮影時間は、とても短かった。
 本当だったら、もっと、何回も撮り直したりする予定だったみたいだけどね。
 だけど、気難しいと評判のカメラマンの人が、アッサリとオーケーを出した。


 ――まるで、魔法がかかったみたい。


 他のスタッフさん達は、口々にそう言っていた。
 カメラマンさんも、


 ――素晴らしい。


 って、言ってたから、まあ、出来上がりは期待出来そうだけど。


「とても、良い写真が出来上がると思います」


 プロデューサーも、こう言ってるし。
 言ってるだけじゃなく……少しだけ、口の端が上がってるのが、わかる。
 笑顔が苦手なこの人が稀にする、とても優しい笑顔。
 それを向けられるだけの仕事は出来た事は、私としても誇らしい。


「すぐ終わったけど、本当に良かったの?」


 一応、確認のために聞いてみる。
 もう少し撮っても良いかなと思うのは、私だけ?
 こんなに綺麗な格好、する機会もそうそう無いだろうし。


「はい、問題ありません」


 と、言われるとは思ったけど、やっぱり、少し残念。
 女の子は誰だって、小さい頃はお姫様に憧れるものだ。
 まさか、自分がこういう格好をするようになるとは思ってなかったから……多分、余計に。
 でも、もう撮影は終わりだって言うんだから、仕方ないよね。


「……渋谷さん?」


 プロデューサーは、私が返事をしないのを不思議に思っているようだ。
 あまり表情が変わるわけじゃないけど、キョトン、という空気が伝わってくる。
 でも、いつまでもこうしてはいられない。


 撮影という名の舞踏会は終わり、シンデレラの魔法はとけなきゃいけない。


「ううん、何でもない」


 だけど、私は、アイドルで居続けるし、これからも輝いていこうと思う。
 今日は、とても大事だけど、あくまでも仕事の一つなんだから。
 変に気持ちを残してちゃ、次の仕事、次のステージで全力を出せない。


「……」


 しっかり、切り替えていかなきゃ。

310: 名無しさん 2018/06/01(金) 22:30:09.75 ID:A7KOgODJo
  ・  ・  ・

「……」


 控室へ戻る道を無言で歩く。
 前を歩く、プロデューサーの広い背中を追いながら。
 いつもより高いヒールだからか、自然と、視線が上の方へ向く。
 あ、寝癖。


「――渋谷さん」


 突然、プロデューサーが立ち止まった。


「っ!?」


 その挙動が、あまりにも唐突で、ぶつかりそうになる。
 どうやら、色々な事に気を取られ、かなり距離を詰めて歩いてたみたい。
 咄嗟に両手を前に出して、顔がプロデューサーの背中にぶつからないようにする。
 黒い背広にメイクがついたら、困っちゃうだろうから。


「す、すみません! お怪我は!?」


 肩越しに、見下ろされる。
 私も身長は高い方で、高いヒールを履いてるけど、プロデューサーの背はもっと高い。
 上着越しに手に感じる、プロデューサーの背中の感触が、それを明確にする。
 それが……その身長差が、まるで、そのまま私達の距離の様に感じて、急いで離れた。


「……ううん、平気」


 どれだけ綺麗な格好をしても。
 どれだけ高いヒールを履いても。


 私は子供で、この人は大人。
 アイドルと、プロデューサー。


「急に立ち止まって、どうしたの?」


 体をこちらに向け、まだ心配そうにしているプロデューサーに、聞く。
 すると、プロデューサーは右手を首筋にやって、バツが悪そうに、



「その……私も、一枚だけ撮影したいと、そう、思いまして」



 そう、言った。
 プロデューサーは、私から視線を外し、ある場所に視線を送る。
 そこの何が、プロデューサーの琴線に触れたのか、わからない。


 白い手すりの、何の変哲もない、非常階段。


 この、素敵な格好に相応しい場所とは、普通は思えない。


「――うん、わかった」


 ……はずなのに、私の口からは自然と言葉が出ていた。
 ガラスの靴を履いた足取りは、今日一番の軽さを見せた。

311: 名無しさん 2018/06/01(金) 23:02:47.88 ID:A7KOgODJo

「どんなのが撮りたいの?」


 カツカツと、ガラスの靴が音を立てる。
 階段へ向かって、ステップを踏むように足が進む。軽い。
 ようやく、この靴にも慣れてきたってことかな。
 本当の事を言うと、撮影中も違和感があったし、ね。


「いえ、特に……決めてはいませんが」


 決めてないのに、此処で撮ろうと思ったの?
 なんだ、てっきり良い構図でも考えついたのかと思ってた。
 そうじゃなかったら、もっと、他に場所があるんじゃないの。
 こんな、ちょっと変わった場所じゃなくってさ。


「ふーん、そうなんだ」


 だけど、多分、この白い手すりがポイントだよね。


「どうする?」


 体の右側にある手すりに、左手をかける。
 そして、一段上に左足を乗せ、そこを軸に、クルリと回る。
 白いドレスのスカートがフワリと揺れる。
 綺麗にセットされた髪が流れ、少し乱れる。


 物語の中のお姫様みたいに、上品じゃないけれど。


 渋谷凛として――私らしく、振り返る。


「プロデューサー」


 多分……ううん、きっと、私は今、笑ってる。
 シンデレラプロジェクトのメンバーじゃない。


 ただ一人の、アイドルとして。


「……」


 あっ……視線、同じくらいだ。



「……渋谷さん。今すぐ、スタジオに戻りましょう」



 プロデューサーの、いつになく真剣な表情。
 どうしてそうなるの? と、問返せるような空気じゃない。
 ……まあ、良いか。
 後でまた、写真撮るチャンスはいくらでもあるもんね。


 アンタ、私のプロデューサーだから。


「うん」


 差し出された大きな手を取り、小さく返事をした。



おわり
 

353: 名無しさん 2018/06/03(日) 20:38:55.48 ID:mh1wZAT7o

「……お、お願い……助けて……!」


 助けを請われた。
 前髪に隠れてない左目は潤み、眉間には皺が寄り、眉も垂れ下がっている。
 先程の言葉を絞り出した後、彼女は唇を噛み締めながら、何かに耐えている。
 彼女の身長に対して大きいパーカーの左袖は、腹部に添えられている。


「っ!? 大丈夫ですか!?」


 彼女の体に、異常が起きている。
 椅子から立ち上がり、プロジェクトルームのドア――彼女の傍まで、駆け寄る。


「体調が、悪いのですか!?」


 私と彼女の身長差はかなりあるため、膝を付き、視線を合わせる。
 見れば、額には脂汗が浮いており、あまり健康的とは言えない顔色は、
病的なまでに、青白くなっている。
 ドアノブにかかっていた右の袖……いや、彼女の小さな右手が、差し出された。


「……うん……そう、なの……!」


 立場上、アイドルの方との過度なスキンシップは、するべきではない。
 だが、助けを求めて伸ばされた手を取らないという選択肢は、存在しない。
 私は、パーカーの袖から覗く、小さな……本当に小さな手を受け止めるため、左手をあげた。
 掌に、彼女の指が、躊躇いがちに、触れる。


「みんな……食中毒、みたい……で……!」


 ……まさか――集団食中毒!?


「っ……!?」


 彼女は、プロダクションの女子寮で生活している。
 女子寮には、多くのアイドルの方達が暮らしており、
シンデレラプロジェクトのメンバーの方も含まれている。
 彼女達も、食中毒に……いや、今は、目の前に居る彼女への対応が先決だ。


「……とにかく、今は、貴女の方が心配です」


 自分も体調不良だと言うのに、他の皆の異変を知らせるために、私の元へ来た。
 そんな、健気な少女を差し置いて、すべき事などありはしない。


「まず、トイレへ向かいましょう」


 この様子では恐らく、自らの足で移動する事は出来ないだろう。
 膝は震え、立っている事すら、ままならないように見える。
 緊急事態だ。
 申し訳ないが、彼女には、我慢して貰うしか無い。


「失礼します」


 彼女の右手を引き寄せ、私の左肩に添えさせる。
 戸惑っているのがわかるが、私は、彼女を抱き寄せ、抱え上げた。
 その体は、とても小さく……そして、軽かった。

354: 名無しさん 2018/06/03(日) 20:59:56.91 ID:mh1wZAT7o
  ・  ・  ・

「みんなが……トイレ、使ってる、から……!」


 右の耳元で、苦しげな吐息と共に、吐き出される言葉。
 彼女の年齢にそぐわない、どこか、艶を感じさせる囁き。
 ビクリ、と体を震わせ、私の首に回された腕に力が込められた。
 自然、私と彼女の顔は近づき、耳に、ピアスの感触を感じる。


「……待ってください」


 だが、私には、彼女の言葉が理解出来なかった。


「あの、誰も――」


 何故なら、



「――居ませんが……?」



 此処には、私と彼女の二人しか居ないのだから。


 彼女が言うには、『みんなが食中毒』との事だった。
 そして……とても、苦しんでいると、道中に言われていたのだ。


 しかし、トイレの中には、誰も居なかった。


 緊急事態とは言え、女子トイレに入るのだ。
 当然、入る前に声をかけて確認をし、返事が無かったので、中に入った。
 中の様子を確認し、全ての個室のドアが開いているのを見て、安堵したばかりなのだ。


「う、ううんっ……んっ……使ってる、よ……!」


 私には、そうは見えない。
 だが、私の腕の中で苦しんでいる少女には、見えているのだ。


 トイレの中で、苦しんでいる‘みんな’の姿が。


「お、お供え物……腐ってた、みた……ううっ!?」


 お供え物を腐らせてしまう、信心の足りなさに怒るべきか。
 はたまた、本来ならば視えざる者にさえ優しさを向ける彼女を叱咤すべきか。
 もしくは、このようになってしまった、私自身の運命を呪うべきか。
 それは……わからない。


「……そう、ですか」


 だが、私は一刻も早く考えなければならない。


「だから……トイレ、つっ! 使え……なく、て……!」


 私の腕の中で苦しむ少女に、トイレを使わせる方法を。

357: 名無しさん 2018/06/03(日) 21:29:27.92 ID:mh1wZAT7o

「その……落ち着いて、聞いてください」


 説き伏せる、という形で彼女を納得させるのは難しいだろう。
 元々、私自身がコミュニケーション能力が高い方ではないし、
何より、こういった部分は、彼女のアイデンティティーに関わる話だ。
 なので、企画の方向性としては、


「ひうっ!? んっ……な、何……?」


 ――如何に、彼女の考えを尊重し、且つ、尊厳を守るか。


 ……というものに、なるだろう。
 冷静に考えれば、きっと、答えは見つかるはずだ。
 決して、諦めてはいけない。
 私が諦めてしまっては、助けを求めてきた彼女に、申し訳が立たない。



「前の方が終わったら……貴女がトイレを使用するのは、どうでしょうか?」



 人ならざる者とは言え、出すものを出したら、十分なのではないだろうか。
 恨みつらみと言った、呪いや怨嗟の声でないだけ、マシとも言える……か?


「っ……!」


 腕の中の少女は、右手をゆっくりと私の顔の前に移動させ――人指し指と中指を立てた。


 これは……ピースサイン――!


 小さな手が形作るピースサインを見て、頬の筋肉が緩む。
 その手は震えているが、私もまた、会心の企画を打ち出せた事に、身を震わせそうになった。


 が、


「待って……る、の……うううっ……!?」


 少女は、苦しみの波に襲われながら、言った。


 ……待ってる?
 指を二本立てているのは、ピースではなく、数字を示していた、と言うことでしょうか?
 ……いえ! ですが、二人待ちならば、何とか!


「……に、二十人……まっ、待ち……!」


 私の体の中を怒りが駆け巡った。


 関係者以外が、オフィスのトイレを集団占拠するとは何事だ、と。


「――わかりました」


 相手は、非常識な存在なのだろう。


「出ていって貰います」


 だが、私は、プロデューサーだ。

360: 名無しさん 2018/06/03(日) 21:54:43.36 ID:mh1wZAT7o

「わ、割り込、み……駄目、だっ、よっ……うぐぅ!?」


 強く、抱きしめられる。
 痛みに耐えるように、右の首筋に顔を押し付けられる。
 その強さは、彼女の優しさと引き換えに与えられた苦痛に比例しているのだろう。
 彼女の痛みが……私にも、痛いほど伝わってくるのだ。


「問題ありません」


 あくまでも、毅然とした態度で女子トイレの中を進む。


 彼女を――アイドルを苦しめるものが、自身の優しさなのだとしたら。


 その苦しみを取り除くだけの厳しさが、プロデューサーには必要だ。
 でなければ、心優しいアイドルは、いつか、擦り切れてしまう。
 そうならないためにも、今は、何者にも屈しない、強さを見せねばならない。


「失礼します」


 当然、個室のドアは開け放されている。
 だが、彼女の手前、そのまま中に入る訳にはいかない。


 開いたドア、誰も居ない個室に向かって、言う。
 便器に向かって、私は、表情を消し、勧告する。



「どいてください」



 私は何をやっているのだろうか?


 自らへの問いかけが、何度も浮かび上がるが、果たして、


「……つ、使って、い、いいいっ、て……!」


 その効果は、あったようだ。


 彼女を抱えたまま、個室に入る。
 そして、ゆっくりと、その小さな体を下ろし、即座に此処から離れるべく、体を引いた。


 ドンッ!


「っ!」


 勢いよく離れようとしたため、背中がドアに強く打ち付けられた。
 彼女を個室に入れるのに必死で、ドアが閉まったことに気づいていなかったのか。
 急いで、外に出なければ――


 ガチャッ!


「っ!?」


 ガチャッ! ガチャガチャッ! ガチャッ!


 ドアが――開かない。

361: 名無しさん 2018/06/03(日) 22:32:15.48 ID:mh1wZAT7o

「っ……!?」


 何故……どうして、鍵がかかっていないのに、ドアが開かないのだろう。
 どれだけの力で押しても、引いても、ミシミシとドアが悲鳴をあげるばかり。
 これ以上力を込めれば、ドアを破壊してしまう。


「仕方がない、上から――」


 個室の、上の隙間から外に出る。
 そう考え、個室の上辺に手をかけると、次の瞬間、上着の裾を引かれた。


「も……無、理……!」


 恐る恐る振り返ると、便座に座り上半身を伏せている少女の姿があった。
 上着の裾を握る手はガクガクと震えていて、
決壊の瞬間がすぐそこまで迫っていると、嫌でも告げてくる。
 彼女も私の意図を察したようだが、それでは、間に合わないと思ったのだろう。


「……申し訳、ありません」


 伸ばされた彼女の小さな手を取り、しゃがみこんだ。
 彼女が、最初に私に助けを求めた時と同じように、視線の高さを合わせる。
 そして、握った彼女の左手を――私の、右耳に添えた。


「しっかりと、おさえていてください」


 自身の左の掌で、左耳を塞ぐ。
 右の手で、鼻をつまむ。
 両目を……閉じる。


「何も、聞こえず、嗅がず、見えません」


 右耳への、圧力が強まった。
 閉じた瞼の裏側で何が行われているのかは、理解している。
 しかし、それを思考の端に追いやり、全く、違うことを考えるよう、努力する。


『どうして?』


 何か聞こえたような気がしたが、聞こえないフリをする。
 むしろ、耳を塞いでいるのだから、何も聞こえないのが、当然の結果です。
 手が小さいので、何かの拍子に、隙間が出来てしまった可能性もあります。
 しかし、何故、ドアが開かなくなったのでしょうか?
 原因は――


『だあれ?』


 誰、と言われましても……。
 そもそも――


『オマエダ!』


 ――……はい、わかりました。
 確かに、今回の私のやり方が強引だったのは、認めます。
 ですが、この密室事件の犯人へは、今後、塩対応させていただきます。


 水に流せるとは、思わないでください。



おわり

626: 名無しさん 2018/06/09(土) 21:18:53.44 ID:fDw+mow0o

「温泉」


 温泉の看板を通り過ぎるたび、隣からつぶやきが聞こえてくる。
 さすがのあたしでも、これはちょっと……ため息が出るわ。


「いい加減、諦めなさいよね」


 ジト目で見ても、こーの25歳児はこっちに目を向けちゃいない。
 ま、こうなるとは思ってたんだけどねー。
 温泉地でのロケなのに、温泉に入らずに戻るって言うんだから。


「でも、楓ちゃんの気持ちはわかるわ」


 助手席に座っていた瑞樹ちゃんがこちらに振り返り、言った。
 ちょっと! そういう事言わないでくれる!?


「温泉!」


 ……ああ、ほら、見なさいよ、この顔。
 グルメ番組では見せなかった、キラキラした笑顔をしちゃってまあ!
 子供みたいなんだか、年寄りくさいんだかわかりゃしないわ!
 あたしの方が歳上だって? タイホされたいの?


「だけど、ダーメ。それに、着替えは置いてきたでしょ?」


 シーズンじゃないとは言え、アイドル三人が揃って温泉に行くのは、ちょっと……ね。
 言っちゃなんだけど、あたし達って目立つのよ。
 飛び込みで行くにしても、迷惑をかけちゃうかもしれないしね。
 だから、予約の無い今日は、温泉は無しって決めてたの。


「……用意は、容易にしてたのに」


 でも、この子ったら、いざ出発となったら大きなバッグを携えてるんだもの!
 あんなに不自然な荷物を持ったままで、出発出来ると思ったのかしら。
 警察犬も呆れて昼寝する位バレバレだったわよ、あれ。
 現地解散して、一人で温泉に行くつもりだったんでしょうけど、
ほったらかして帰ったら……どうなるかわかったものじゃないしねぇ。


「温泉」


 また、温泉の看板を通り過ぎた。
 後部座席の窓に、張り付かんばかりに顔を近付け、切なげに外を見る表情。
 物憂げ、といえば聞こえは良いけど、そんな大層なものじゃないわ。
 駄々をこねてるだけよ、駄々を。



「――足湯ならば、問題無いと……そう、思いますが」



 その駄々を聞いちゃうのが、君なのよね。


「「やれやれ」」


 瑞樹ちゃんと顔を見合わせ、同時に肩をすくめ、言う。
 まあでも、文句を言う気にはならないのよね。
 如何なさいますか、って?……はぁ、あまり人が多い所じゃない?
 何言ってるのよ、ホント、全くもう!


 行くに決まってるでしょ! でないと、タイホしちゃうわよ!

627: 名無しさん 2018/06/09(土) 21:55:59.93 ID:fDw+mow0o
  ・  ・  ・

「温泉♪ 温泉♪」


 ロッカーに靴をしまい、サンダルに履き替える。
 その間も、本当に機嫌良さそうな歌声が聞こえてくる。
 本当、見た目は大人っぽいのに、こういう所は変に子供っぽいんだから。
 でも、浮かれる気持ちもわかるわ。


「足湯って……あたし、もっと小さいのを想像してたわ」


 ピッチピチのボディコンに、何の変哲もない備え付けのサンダル。
 そんなミスマッチな格好をした早苗ちゃんが、声を弾ませながら言った。
 私も、もっとこじんまりした所を想像してたわ。
 ちょっと山の方に入ったと思ったら、こんな、足湯のテーマパークみたいな所があるなんて。


「良かったわ。他に、お客さんもあまり居ないようだし」


 ロッカールームにも、私達以外の姿は見えない。
 足湯のある、園内――で、いいのかしら?――には、まばらに人の姿はあったけど。
 これなら、迷惑になるとか、余計な事を気にせずに済みそう。
 せっかく温泉に入るのに、気を遣ってちゃ色々と勿体無いからね。


「瑞樹さん、早苗さん」


 ニコニコ顔で、楓ちゃんが話しかけてくる。
 ショートパンツから伸びる細い足の先には、やっぱり普通のゴムサンダル。
 早苗ちゃんが、首をかしげてそちらを見る。
 自分の事をお姉さんって言うけど、童顔だし、そういう仕草をすると……ふふっ、可愛いわね。


「何? どうしたの?」


 大人なんだけれど、子供のような二人。
 そんな、二人と……大切な友達と、寄り道をして、温泉に入る。
 これって、とっても贅沢な話だと思うわ。
 私達、アイドルにとっては、尚更……ね。


「温泉♪ 温泉♪」


 楓ちゃんは、また、シンプルなリズムに合わせて歌いだした。
 本当、もう、全く……仕方の無い子ね。


「「温泉♪ 温泉♪」」


 私も、歌うわ。
 一人だけ大人ぶってるのも、馬鹿馬鹿しいものね!
 こういう時は、思いっきり楽しむのが、一番だわ。
 ね、そう思うでしょ?


「えっ!? あたしも歌うの!?」


 楓ちゃんと手を取り合って、年少組の子達の様に、可愛らしく腕を振る。
 温泉、温泉、と歌って、腕を振りながら、早苗ちゃんに近づいて行く。
 やらざるを得ないと観念したのか、早苗ちゃんは、私の空いている方の手を取り、


「「「温泉♪ 温泉♪」」」


 歌いだした。
 少しヤケになってるような気がするけど、わかるわ。
 でも、ちょっと楽しくない? これ。

630: 名無しさん 2018/06/09(土) 22:34:01.28 ID:fDw+mow0o
  ・  ・  ・

「次は、どこにしようかしら」


 サンダルで、ペタペタと歩く。
 色々な種類の足湯があって、とっても楽しい。
 最初は、瑞樹さん、早苗さんと三人で回ってたの。
 でも、今は別行動。


「……」


 彼が、スラックスを折り曲げて、腰掛けながら足湯に浸かってる。
 そうよね、深めの所だと、濡れちゃうもの。
 だから、ああやって浅い所だけを回ってるのかしら。


「……」


 本当は、温泉に入る予定じゃなかった。
 けれど、彼の提案のおかげで、こうして皆で温泉に入る事が出来ている。
 欲を言えば、肩まで浸かって、日本酒を飲みながらが良かったけど、
それは、やっぱり欲張りすぎよね。


「……ふふっ」


 急に、隣に座ったら、驚くかしら。
 驚いた時に、どんな顔をするのかしら。


「……」


 抜き足、差し足、忍び足。
 後ろから、音を消してゆっくりと……っと、もう、サンダルは脱いだほうが良さそう。
 ペタペタ音がしてたら、気付かれちゃうもの。
 ……ふふっ! あとは、お湯が波立たないよう、そっと足をお湯に――


「……っ!?」


 ――入れたら、沢山の小石の感触が足の裏に。
 大きさも不揃いな上、中には、ちょっぴり尖った形のもあるみたい。
 それが、足の裏をツボをゴリゴリ刺激してくる。
 というか、お湯に入れた足に全体重がかかってたから、すごく、


「いっ……いたた……!」


 痛いの!
 でも、ここからどうしたらいいの!?
 せめて……せめて、何かに手をかけられれば――!


「……ふぅ」


 咄嗟に、左手を何かにかけ、そのまま、反対の足もお湯に入れる。
 両足を入れたから、最初の時程、痛くなく、むしろ、適度な刺激がちょうど良い。
 そのまま、腰を下ろし、座る。


「あの……高垣さん……!?」


 横を見ると、彼が、右手を首筋……じゃなく、頭に手をやって、こちらを見ている。


「ふふっ! 頭に手をやって、温まってニヤって……うふふっ!」


 謝らなきゃと思ったんだけれど……ふふっ!
 良い、ダジャレを思いついちゃった!

631: 名無しさん 2018/06/09(土) 23:06:19.08 ID:fDw+mow0o
  ・  ・  ・

「……」


 信号待ちをしている時、バックミラー越しに後部座席を見る。
 彼女達は、346プロダクションでも、トップクラスのアイドル達だ。
 その輝きは、とてもまばゆく、ファンの方達だけでなく、様々な人を明るく照らし続けている。
 言うまでもなく、私も、その内の一人だ。


「……」


 今回、私が彼女達のロケに同行させて頂いたのは、
シンデレラプロジェクトのメンバー達の参考になる部分があると思ったからだ。
 実際の現場での彼女達の仕事を見て、それをプロデュースに反映させる。
 メンバーの方も同行して頂く事も考えたのだが、
何分、急な話だったのでスケジュールの調整をする暇がなかったのだ。
 ドライバーを担当するはずだった人間の急病は、さすがに予定には組み込めない。


「……」


 想像していた通り……いや、彼女達の仕事ぶりは、素晴らしいものだった。
 グルメ番組の収録だからと言うだけでなく、
本当に、出された料理を楽しみながらのレポートは、放送時に反響を呼ぶ事は間違いない。
 海鮮だったので、お酒を飲みたがったのはスタッフの方達も困っていたが、
それを差し引いても、とても、参考になるものを見せて頂いた。


「……」


 その御礼……ではないが、足湯に浸かる事を提案した。
 当日になっても残念そうにしていた高垣さんは言うまでもないが、
川島さん、片桐さんも、温泉地でのロケで温泉に入らない事を残念がっている様子だった。
 一般の方に迷惑をかけたくないという、心遣い。
 その様な考えを持った方達が、心残りを残しながら帰路につくというのは、
その……良くない事だと、そう、思いました。


「……」


 結果的に、三人共、非常に満足して頂けたようだ。
 また来たい、今度は他の方も連れて、と言われた時の反応には困ったが。
 検討します、とだけ答えたのだが、まさか、面子や日程の話をされるとは……。
 やはり、アイドルの方というのは、想定した以上のものを示してくる。


「……」


 それは、今、この時にも言える。
 三人、並びながら、後部座席でスヤスヤと寝息を立てている。
 まさか、全員がはしゃぎ疲れて寝てしまうとは、思っていませんでした。
 ですが、



「……良い、笑顔です」



 それだけ楽しんで頂けたのだと、そう、思うようにしよう。


「……」


 信号が青に変わったので、ゆっくりと発進させる。
 彼女達を起こしてしまうのは、あまりにも、勿体無いので。

632: 名無しさん 2018/06/09(土) 23:53:26.00 ID:fDw+mow0o
  ・  ・  ・

「――待ってください! それは、誤解です!」


 シンデレラプロジェクトの、プロジェクトルーム。
 其処で、一人の男が必死に反論していた。
 普段は無表情と呼ばれているその厳しい顔は、情けなく、歪んでいる。


「混浴、したんでしょ? いい湯だった?」


 そんな彼に――プロデューサーに対する彼女達は――アイドル。
 星々の如き煌めきで、人々を魅了してやまない彼女達の笑顔は、鳴りを潜めている。


 今の彼女達は正に……修羅。


 己が信じていた、プロデューサーが。
 遠すぎるとも言える程、私達とは距離を置いていた、この人が。
 担当でない、同じ事務所のアイドルと、破廉恥極まりない行為を働いたと耳にしたのだ。
 彼女達の怒りは、至極当然のものであり、この状況は、必然と言えるだろう。


「いい湯でしたが……ある意味、混浴では……ありましたが、その、違います!」


 男が、もう少しコミュニケーション能力が高ければ。
 彼女達が、もう少し人の話をよく聞く性格だったならば。
 あの三人が、嬉しそうに、誤解を招くような言い方をしなければ。


 ……こうは、ならなかったかも知れない。


「あ痛っ! 痛っ! も、物を! 物を投げないでください!」


 両腕で頭を保護しながら懇願する男に、有形無形問わず様々な物が飛ぶ。
 罵声は言うに及ばず、ネコミミ、ヌイグルミ、本……中には、パスタや投げキッス、エアギター等も。
 その一つ一つが銃弾ならば、彼の体は、既にその形を残しては居なかっただろう。
 だが、幸か不幸か、彼の屈強な体はそれら全てを受け止め、弾き、耐えきる。


「……!?」


 投擲が止み、沈黙が落ちる。
 だが、この耳鳴りがする程の静寂は、台風の目に入ったという訳ではない。
 彼女達は、待っているのだ。
 彼が次に発する一言を。


「……」


 怒りを雲散霧消させるか、はたまた、最悪の起爆剤になるか。
 どちらの道を歩むのか、彼女達は、待っているのだ。


 そして、彼が選んだ選択肢は――。



 後日、346プロダクションのアイドル達を慰労するため、温泉旅行が企画された。
 その規模の大きさは、一人の男の、苦心の大きさに比例している。
 図らずも、彼が浸かっていた温泉は、それを成し遂げるための助けになった。
 胃腸によく効く足湯に浸かっていなければ、冷たい視線に、耐えられなかっただろうから。



おわり



740: 名無しさん 2018/06/12(火) 11:17:13.52 ID:bqp0Nz7GO
アイドルとして手違いでプロデュースされるちひろさんください!

746: 名無しさん 2018/06/12(火) 21:33:17.54 ID:FZ7K78Auo

「その……どうぞ、自己紹介を」


 会議テーブルの中央、右手を首筋から下ろしたプロデューサーさんが、声を発した。
 オーディションの最中だって言うのに、その口調はぎこちない。
 表情に乏しく、感情表現も小さい彼だけど、その戸惑いがこちらにも伝わってくる。
 でも……わかります、その気持ち。


「……千川ちひろ、です」


 だって、プロデューサーさんがオーディションをしているのは、私なんですもの!
 346プロダクションは大手なだけあって、オーディションに使用する椅子も質が良い。
 折りたたみタイプの椅子なのに、座り心地は良いんだけど……とにかく、居心地が悪い。
 だって、自己紹介も何も、同じ職場で働く仲間じゃないですか!


「それだけかね?」


 プロデューサーさんの隣に座る、今西部長がニコニコと笑いながら問いかけてくる。
 人好きのする、相手の警戒心を解いてしまいそうな表情。


 でも、この状況を作りだしたのは、この人なのだ。


「年齢は? 申し訳ないが、プロフィールが用意されていなくてね」


 以前から、346プロダクション内で、サービス残業、そして、休日出勤は問題になっていた。
 見かねた専務が、社内改革の一つとして、その問題の改善に取り組んでいたの。
 私も、専務のその取り組みには大いに賛成だったのよ?
 だって、プロデューサーさん、明らかに働きすぎですもの。


「……25歳、です」


 だから、今日も無理をしてるんじゃないかって、事務所の近くに来たついでに、差し入れを。
 そうしたら、案の定昼休みを返上してまで作業に、没頭してて……。
 そんなの見たら、ちょっと位手伝いたくなっちゃっても、仕方ないですよね!?
 それで、事務作業をしている間に、プロデューサーさんに休憩に行って貰ってたら――


「む? 26歳じゃなかったかな?」


 ――……プロデューサーさんを尋ねてきた、今西部長に見つかっちゃったの。
 部長は、私が休日だと知っていて、
それでプロデューサーさんが無理をしていないか確認しに来たみたいで。
 当然、どうしてプロジェクトルームに居るのか問い詰められたわ。
 あの時、PCの前で固まっていず、すぐにでも逃げ出してれば!


「25歳です!」


 こんな事には、ならなかったのに!


「おうおう、こりゃあ元気で宜しい!」


 ――ははあ、さては、アイドルのオーディションを受けに来たのかい?


 ……だなんて!
 何が、さては、よ!

748: 名無しさん 2018/06/12(火) 21:59:19.59 ID:FZ7K78Auo

「……!」


 膝の上で作った握りこぶしをギュッと握り、プロデューサーさんを睨みつける。
 今西部長が、たまにこういった悪ノリをするのはわかってましたけど!
 プロデューサーさんが、そういうのに逆らえない人だとは知ってましたけど!
 今度、絶対埋め合わせはして貰いますからね!?


「その……ふ、普段は、何をなされているのですか?」


 マニュアル通りの、無難な質問。
 プロデューサーさんも、この状況に混乱してるみたいだけど……。
 でも、だからって、本当にオーディションの手順を踏む事は無いと思うんです。
 そもそも、貴方が仕事の虫でなければ、こんな事に……って、これは八つ当たりよね。


「はい。とても……と~っても! 仕事熱心な方の、サポートをしています!」


 八つ当たりとわかってはいるけど、しないとは言ってません。
 プロデューサーさんは、言葉に詰まると、
ポケットから青いハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
 その、一挙手一投足をジッと見つめながら、無言で抗議する。


「は、はい……とても、助かっています」


 大きな体が、まるで一回り小さくなったかのように、私には見える。
 そんな私達のやり取りを見ながら、今西部長はニヤニヤと笑っている。
 んふふ、と笑いながら頬杖をつくなんて、審査員としてちょっと態度が悪いんじゃないですか?
 プロデューサーさんから視線を外し、今西部長をキッと睨みつける。


「ほほう、休日出勤もしてしまったりする程……君も熱心にサポートを?」


 ……ずるい! 本当、ずるいですよ、部長!
 そういう事を言われたら、何も言えなくなっちゃうじゃないですか!


「だけどね、安心してくれたまえよ!」


 部長が、椅子に深く腰掛け直しながら、言う。



「うちは今、サービス残業や休日出勤は厳禁の、ホワイト企業だからね!」



 ははは、と笑いながら、隣に座るプロデューサーさんに同意を求める、部長。
 しどろもどりになりながら、そうですね、と、小声で言葉を返している、プロデューサーさん。


 これは、お説教なのだ。


 何度注意しても直らない、私達の悪癖を矯正するための、一風変わったお説教。
 それは、わかってるんです。
 わかってるんですけど……!


「それじゃあ、次の質問に移ろうか!」


 何で、そんなに楽しそうなんですか、部長!

749: 名無しさん 2018/06/12(火) 22:26:36.27 ID:FZ7K78Auo
  ・  ・  ・

「そうかそうか、そのプロデューサーは困った奴だねぇ!」


 いくつか質問をされる度、ふつふつと、それまでとは違う怒りがこみ上げてきていた。
 最初は、この状況に対する憤りだったけど、それとはまた別。


「ええ……いつか倒れちゃうんじゃないかと、心配です」


 そう言って視線を向けると、右手を首筋にやって、困ってる。
 困ってるんだけど、私の小言は、ちゃんと届いてないみたい。
 ため息をつきたくなるけれど、もう、慣れちゃいましたよ、プロデューサーさん。
 そんな貴方だからこそ、手伝ってあげなきゃって思う私も……大概ですけど。


「……部長、そろそろ時間が」


 プロデューサーさんが、そろそろ切り上げ時だと、時計を見ながら言う。
 流石に、これが私達に対するお説教だと察したみたいだけど、その効果はあまり無さそう。
 真面目で、誠実で、不器用で……とっても、頑固な人。
 もう少し、自分のことを顧みて欲しいと思うのは、同僚として、当り前だと思います。


「おや、もうそんなに経っていたかね?」


 ようやく解放される……そう、思うと同時に、まだ、言い足りないとも思う。
 言っても意味がないのはわかっているけれど、それでも言わずにはいられない。
 もう……本当に、どうしたら。


 どうしたら、貴方に――プロデューサーさんに、思いが伝わるのかしら。



「それじゃあ、何か一曲歌って貰おうかな」



 …………。


「はいっ!?」


 ぶ、部長!? 今、何て言ったんですか!?
 聞き間違いだとは思うんですけど、歌えって……言いました!?


「ん? どうしたのかね?」


 ニコニコと笑いながら、部長は机の上に両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる。
 その、有無を言わさない様子に、私は、視線でプロデューサーさんに助けを求めた。


「っ……!?」
「……!」


 目と目が、合う。
 しかし、私が送った救難信号は、何の手違いか、



「『お願いシンデレラ』なら……すぐに、曲を流せますが」



 私が望んだものとは、まるで違う手助けをするという行動をさせるに至った。

750: 名無しさん 2018/06/12(火) 22:48:51.69 ID:FZ7K78Auo

「ぷっ、プロデューサーさんっ!?」


 貴方まで、何を言い出すんですか!?
 部長のわるふざけに付き合ってないで、真面目に……あっ、駄目。


「はい? 何か、問題でも?」


 プロデューサーさんは、いつもの調子に戻っている。
 いつもの、アイドルをプロデュースする時の、普段の調子に。
 でも、待ってください! 私、アイドルじゃないですよ!?
 貴方の同僚の、事務員ですからね!?


「オーディションで歌うのに、何の問題もないさ」


 部長は、プロデューサーさんがこういう反応をすると予想していたのだろう。
 そもそも、この人達は、少し感覚が麻痺している部分がある。


 人前で、歌わせる。


 ……それが、彼らにとっては当り前の事で、
また、それを求めた相手は、いつもそれに応えてきたのだ。


「そうだろう? 千川くん」


 それに、どうやら部長は、これも私への罰のつもりでいるらしい。
 そうでなきゃ、そんなにニヤニヤ笑ってるはずがありませんものね!
 本当、意地が悪いんですから!


「……」


 プロデューサーさんは、カタカタとノートPCを操作している。
 きっと、『お願い! シンデレラ』のBGM部分をあそこから流すつもりでいるのだろう。
 ……ああ、もう……本当に……?
 やめてください……音量だけじゃなく、微妙に音響も気にしないで良いですから!


「……はい、いつでも、大丈夫です」


 プロデューサーさんは、コクリと頷いた。
 アイドルの子達は、この様子を見ると、とても勇気づけられた、良い表情をする。
 でも、今の私の表情は、色々な感情によって、どう表現したものか迷うものになっている。


「ささ! 時間も無いんだ、立って立って!」


 部長が、両手で立ち上がるように指示してくる。
 差し入れをするために立ち寄って、すぐに帰るつもりだったのに。


「……どうして、こんな事に」


 はぁ、とため息をつく。
 ため息をつくと幸せが逃げてしまうと言うけれど、
もう、多少幸せが逃げた所で、この状況に変化は無いのだから、構わない。


「――千川ちひろ、歌います!」


 もう、ヤケよ!


「『お願い! シンデレラ』」

751: 名無しさん 2018/06/12(火) 23:12:08.06 ID:FZ7K78Auo
  ・  ・  ・

「――待ってください!」


 事務所内の廊下を早足で歩く。
 遙か後方から、私を呼び止めようとする、低い声が聞こえてくる。
 社内を走ってはいけないという規則があるので、走っては逃げない。
 今度は、何をやらされるかわかったものじゃないですから!


「お願いします! 少し、お話を!」


 けれど、私を追ってくる人は、私よりもかなり歩幅が広い。
 足音が、どんどん近づいてくるのがわかる。
 追いつかれまいと、両腕を振って早歩きするけど、あまり意味はない。
 だって、相手は仕事熱心な、プロデューサーさんだから。


「……何ですか?」


 立ち止まり、後を振り返ると――すぐ、近くまで迫ってきていた。
 プロデューサーさんは、一歩踏み出せば、手が届く程の距離にまで近づくと、



「千川さん。アイドルに、興味はありませんか?」



 ……と、スカウトを始めた。
 皆がスカウトされた時も、こんな感じだったなのかなと思ったけど、違うわよね。
 だって、そもそも私達、いまさら名刺を差し出すような関係じゃないですし。
 でも……ちょっぴり、嬉しい気持ちもある。


 だけど、


「……あのですね、私がアイドルになったとして――」


 私は、貴方に手を引いて貰いたいわけじゃ、ないんですよ。


「――誰が、貴方のお手伝い……手助けをするんですか?」


 プロデューサーさんみたいな、とってもわかりにくい人の!
 貴方の事を知らない人が事務員になったとしたら、きっと、倒れちゃいますよ!?
 そうなったら、プロデュースも何もありません! そうですよね!?


「それ、は……わかりません」


 プロデューサーさんは、困った顔をして、右手を首筋にやった。
 ほら、やっぱり、何も考えて無かったんじゃないですか。
 私の代わりが、そうそう簡単に見つかると思ってなかっだけ、良いですけど。


「ええ。だから、私はアイドルにはなりません♪」


 そう、微笑みかける。


 私は、事務員で良いんです。
 だって、その方が、貴方を支える事が出来るでしょう?


「っ――! や、やはり、アイドルに!」


 ……会心の笑顔だと思ったんだけど、手を間違えちゃったわ。



おわり

806: 名無しさん 2018/06/14(木) 07:50:24.94 ID:J6Kw8LsSO
楓さんの誕生日には流石のしぶりぶりんも何もしないはず

815: 名無しさん 2018/06/14(木) 20:19:29.83 ID:Ytz+xpTfo

「6月14日の予定、ですか?」


 プロジェクトルームの、自分のデスクで仕事中のプロデューサーに、尋ねる。
 PCを操作する手を止め、上着から手帳を取り出し、確認。
 めくれていくページ、流れる視線。
 その一挙手一投足を緊張しながら、見つめる。


「――渋谷さんは、ダンスレッスンの予定が入っていますね」


 ……ちょっと、聞き方を間違えたかな。
 そうだよね、普通に予定を聞いただけじゃ、そう応えるのが自然な流れだよね。
 なんでだろ、いつもはこういう失敗はしないのに。
 少し、緊張してるのかな。


「ごめん、私の予定じゃなくて」


 聞き直さないと、いけないよね。
 ……まあ、いけないことは無いんだけど、一応、聞いておきたい。
 だって――


 6月14日は、誕生日だから。


「プロデューサーの、その日の予定」


 当然、私の誕生日でも無いし、プロジェクトのメンバーのでも無い。
 智絵里の誕生日はつい先日だったけど、平日だったから、週末に誕生パーティーをする予定。
 その時は、かな子がはりきってケーキを作るって……って、今はその話じゃなかった。


 今は、プロデューサーが、その日にどうするかが、知りたい。


「私の予定、ですか?」


 自分の予定を聞かれるとは思ってなかったのか、少し、呆けたような顔をしてる。
 そうですね、と思案する姿を見ていると、
何故か、LIVEの直前のように緊張して、拳を握りしめているのがわかった。
 何て答えて欲しいのか、自分でも、よくわからない。


 わからないのに、凄く、緊張する。


「うん。特別な予定とか、あったりする?」


 6月14日、プロデューサーは、どうするの。
 あの人の誕生日だから、何か、してあげたりするのかな。
 プロデューサーの事だから、実は、もう何か考えてたりして。


 ねえ、どうなの?


「いえ……特に、ありません」


 プロデューサーの、その言葉を聞いて、私の手からフッと力が抜けるのを感じた。
 知らない間に、強く……想像以上に、強く手を握りしめていたらしい。
 そっか、プロデューサー、特に予定は無いんだ。


「そうですね……渋谷さんのレッスンを見学させて頂いても、宜しいですか?」


 不思議な安堵の後に、不可解な緊張を感じた。

816: 名無しさん 2018/06/14(木) 20:48:24.40 ID:Ytz+xpTfo
  ・  ・  ・

「……」


 事務所内の長い廊下を歩く。
 その足取りは、私の名前の様に、凛としたものじゃない。
 それは、きっと、本来私が感じる必要の無い、後ろめたさのせい、だと思う。
 ……なんでだろ、なんか……納得出来ない。


「……」


 結局、私はプロデューサーの申し出を受け入れた。
 だって、あの人は私のプロデューサーだから、断る理由は無い。
 プロデューサーは、シンデレラプロジェクト二期の仕事も控えていて、
私は、シンデレラプロジェクトと、クローネの仕事もあり、レッスンを見て貰うのは久しぶり。


 だから、気合が入るし、嬉しいとも思う。


「……」


 なのに、素直に喜べない。


 足を前に出すのが億劫だし、胸を張って、前を見て歩く事が出来ない。
 下がった視線は、靴の少し先の、磨き上げられた廊下に固定されてる。
 今の私を見て、アイドル、渋谷凛だと思う人が、どれだけ居るだろうか。


 プロデューサーの言う、笑顔とは程遠い、今の私を――



「凛ちゃん」



 ――呼び止める、とても綺麗な声が聞こえた。


 突然声をかけられたのに、その声があまりに優しすぎて、驚きはしなかった。
 この声の主を私は知ってる。
 先輩アイドルとして、私達、ニュージェネレーションズに、アイドルの在り方を教えてくれた人。


 6月14日が、誕生日の人。



「楓さん」



 視線を向けた先――談話スペースの長椅子に、楓さんは座ってた。
 左手を私に向けて小さく振りながら、優しく微笑んで。


「おっ、おはようございます」


 その姿に見惚れそうになったけど、慌てて挨拶する。


「はい、おはようございます」


 その、挨拶する時の笑顔が、とても輝いて見えて。
 私の足は、吸い寄せられるように楓さんに向かって歩を進めた。

818: 名無しさん 2018/06/14(木) 21:25:16.14 ID:Ytz+xpTfo
  ・  ・  ・

「6月14日の予定?」


 休憩スペースの――楓さんの隣に座って、尋ねる。
 空になったコーヒーの缶を弄ぶ手を止め、首を少し傾けて、思案。
 流れる雲が、窓からの光を遮り、また流れ、陽の光を差し込ませる。
 移り変わる太陽のスポットライトに照らされる楓さんを見つめる。


「――その日は、確かボイスレッスンの予定が入ってるわ」


 ……また、同じ失敗……それも、この短時間で。
 そうだよね、この人も、形は違うけど、かなりの仕事人間だった。
 職場で、先輩と後輩っていう立場だったら、そう答えるよね。
 まあ、私がプライベートな質問をするって、思われなかっただけかも。


「すみません、仕事の予定じゃなくて」


 だから、ちゃんと聞き直そう。
 ……多分、瑞樹さんや早苗さんと、飲みに行ったりするんだと思うけど。
 だって――


 一年に一回の、誕生日だから。


「仕事が終わった後の……えっと、プライベートの予定です」


 そんな質問をされると思ってなかったのか、ちょっと驚いたみたい。
 左手を頬にやって、少し困ってる。
 だけど、その困り方が、私がプライベートの予定を聞いたからとは、違うように見える。


 楓さんは、誕生日をどう過ごすか、聞いただけなのに。


「そうね、仕事が終わった後の、プライベートの予定は――」


 楓さんの指先が、缶の縁をついと、なぞる。
 さっきまで、明るかった表情は、日が陰ったせいか……一瞬、暗く見えた。
 あの、どうしてそんな顔をするんですか?


「仕事が終わったら……ふふっ!」


 楓さんは、笑った。



「バースデーだけど、真っ直ぐ、バスで帰りまーす♪……うふふっ!」



 私は、笑えなかった。


 楓さんの言ったダジャレが……えっと、ごめんなさい。
 っと、それが理由じゃなくて、もっと、別の理由。


「あの……何も、しないんですか?」


 誕生日なのに? という続く言葉は、言えなかった。
 むしろ、楓さんのあんな笑顔を見て、何か言える人って、居ないと思う。


 それが、無性に悔しくて、情けなくて、申し訳なくて。


 私は、全力で踊ると、そう決めた。

819: 名無しさん 2018/06/14(木) 21:49:31.03 ID:Ytz+xpTfo
  ・  ・  ・

「プロデューサー!」


 楓さんと別れた後、私は、プロジェクトルームに戻ってきていた。
 さっき此処を出た時とは、まるで、足の軽さが違っていた。
 心にかかってたモヤモヤが晴れて、凄く、スッキリした感じ。
 うん、やっぱり、こうでなくちゃ駄目だよね。


「し、渋谷さん? あの……どうか、されましたか?」


 デスクに両手をついて、上半身を乗り出す形になった私を見て、
プロデューサーは少したじろいだみたい。
 もしかしたら、私が、怒ったような顔をしてるからかも。
 ふふっ、今でこそ笑い話だけど、前に怒った時も、こんな感じだったっけ。


「6月14日は、誰の誕生日か知ってる?」


 知らないって答えたなら、プロデューサーは関係ないかな。
 ……でも、きっと、知ってるんだよね。


 だって、アンタ――


「はい……高垣さんの、誕生日ですね」


 ――プロデューサーだから。


「なのにアンタ、何もしないの?」


 楓さんの言葉が、頭に浮かぶ。


  ・  ・  ・


「そうね……今年は、ちょっと皆お仕事の都合で」


「でもね、年齢を重ねるごとに、皆でお祝いとは……いかなくなってくるの」


「ちょっぴり寂しいけれど、それが、大人になるって事」


「うふふっ、それとも……凛ちゃんが何かしてくれるのかしら?」


  ・  ・  ・


「いえ、しかし……私は、彼女の担当ではありませんし」


 プロデューサーの言ってることは、正しい。
 そして、楓さんの言ってることも、間違ってないんだと思う。


 ――だけど、私は納得出来ない。


「だから、何?」


 二人に比べて、私は、まだ子供。
 だけど、子供には子供の――15歳の、正しさが存在する。

820: 名無しさん 2018/06/14(木) 22:30:06.64 ID:Ytz+xpTfo

「プロデューサーって、楓さんと……知り合いなんでしょ?」


 知り合い、とは言ったけど、多分、もう少し深い関係だと思う。
 そうでなかったら、すれ違う時に挨拶を交わしたり、
私達の参考になればって、楓さんのLIVEを見せようとは考えないだろうから。


「ですが……私は……」


 プロデューサーと楓さんは、少し似てる所があると思う。
 こういう頑固な所とか……とは、楓さんには言えないかな。
 いつもの私だったら、ここまではしない。
 余計なお世話かも知れないし、それに……ううん、今は良いかな。


「6月14日の、誕生花は――グラジオラス、って言う花なんだけどさ」


 私は、誕生日は、楽しいものじゃないと駄目だと思う。
 だって、一年に一回しかない、大事な日だから。
 それなのに、大人だからって、寂しいけれど、しょうがないって諦めて。


 ――ふざけないでよ。


「花言葉は色々あるけど、私は『思い出』が一番好きかな」


 アイドルは、夢を見せて、笑顔にするものでしょ。
 プロデューサーは、それを支えるものでしょ。


 ――なのに、誕生日くらい笑顔で過ごせなくて、どうするの!


「良いの? 楓さんの誕生日、仕事から直で帰るって思い出にして!」


 思わず、大きな声が出た。
 それを聞いたプロデューサーは、明らかに狼狽えてる。


「ま、待ってください! 渋谷さん!」


 何を言うつもり?
 中途半端な答えじゃ、許さないから。



「高垣さんの誕生会は――先週末、行いました!」



 ……はっ?


「ちょ……ちょっと待って?」


 誕生会は……先週末に、もうやってた?


「じゃ、じゃあ! 仕事の都合で、皆でお祝いとはいなくなるって……そう、言ってたのは!?」


 何それ……ねえ、何それ!?


「は、はい……全員一度にとはいかないので、今週末と、二回に分けて行うと……」


 何なの、それ!?

821: 名無しさん 2018/06/14(木) 23:10:38.10 ID:Ytz+xpTfo
  ・  ・  ・

「……はぁ」


 ダンスレッスンの休憩中、汗を拭きながらため息をつく。
 先日の、早とちりから来るおせっかいという失敗は、苦々しい思い出。
 一人で緊張して、心配して、踊る……正に、ピエロだ。


「……はぁ」


 よく考えてみれば、とても、当り前の事だよね。
 私達だって、皆の予定が合わなければ、
誕生日当日でなく、別の日に誕生会をずらすんだから。
 でも、楓さんの、あの暗い顔の理由が――


  ・  ・  ・


「恐らく、次の週末もやるのだからと、酒量を制限されていたから……かと」


  ・  ・  ・


 ――なんて、そんなのだったなんて!


「……」


 本当、お酒の何がそんなに良いのか、全然わからない。
 二週連続で、飲みたくなるようなものなの?
 ……まあ、誕生会だから、はしゃぎたくなる気持ちは、わかるけど!
 わかるけど、楓さん、ちょっと紛らわしすぎ!


「……」


 だから私は、ちょっとした仕返しをする事にした。
 ダンスレッスンを見に来たプロデューサーを楓さんに送りつけたのだ。
 来るとは思ってなかっただろうから、きっと、驚くんじゃないかな。
 私だったら……うん、驚くね、絶対。



「凛ちゃ~ん♪」
「……」


 だから、レッスンルームの入り口で、こっちを見てる楓さんは、何かの間違い。
 右手を首筋にやりながら、困った顔で視線をさまよわせるプロデューサーは、幻覚。


「……~~もうっ!」



 レッスン終了後に聞いた話だと、プロデューサーが向かった時には、
楓さんのボイスレッスンは、終了間際だったらしい。
 うん……レッスンが同じ時間に始まるとは、一言も言って無かったもんね。


 結局、バスには三人で乗ることになり、私の家のグラジオラスが少し売れた。
 予定になかった外食は……まあ、悪くなかったかな。



おわり



964: 名無しさん 2018/06/19(火) 20:12:46.79 ID:uKG7/WyFo

「何を……しているのですか……!?」


 此処は、シンデレラプロジェクトの、プロジェクトルーム――では、無い。


「何って……勿論、決まってるじゃないですか」


 私の問いかけ対しに、彼女はゆっくりと振り向き、言葉を続ける。
 艷やかな口元は、ゆるやかな弧を描いている。
 一歩踏み出せば全身が飲み込まれてしまう底なし沼のように、仄暗く。
 しかし、同時に、全てを捧げる聖者のように、清らかでもある。


「――うふ」


 彼女の視線は、再び目の前にあるデスクに注がれる。
 少し、散らかっているそのデスクの表面を指先でツイとなぞる彼女の目は、
普段そこに座って業務に勤しむ、彼の視線を感じ、重ねようとしているのだろう。
 クスクスと、本当に、幸せそうな笑い声が、部屋を支配する。


「……プロデューサーさんは――」


 これは、私を指しているのでは……無いようですね。


「――運命の人」


 彼女を担当するプロデューサーの事を言っているのだ。
 私の同期であり、必要な資料を机の上に置いておいてくれとLINEで寄越した、彼を。


 ……気を利かせて、朝一で来たのは失敗……本当に、失敗でした。


「プロデューサーさんなら、この困難も、きっと乗り越えてくれます」


 彼女は、私にその姿を確認されているにも関わらず、そこから動こうとしない。
 本来ならば、すぐにでも行動をし、問題の解決を目指すべき、この状況。
 そうしないという事は、則ち、彼女は今のこの状況を自ら作り出したのだ。


「――うふふ……そう、思いませんか?」


 艷然。
 そう評するに相応しい彼女の笑みは、彼への想い故に、だろうか。
 その想いは、彼女にこんな行動を取らせてしまう程、強いものだったのか。
 担当するアイドルから、全幅の信頼を置かれている……と言えば、聞こえは良い。


 ですが、私は、それを羨ましいとは、全く思いません。


「どう……でしょうか」


 何故なら、


「だって――運命の紅い糸で、結ばれてますから」


 彼女は、彼が普段仕事をしている場所で、脱糞をしていたのだから。
 ソレが落ちていくはずの穴の空いていない、リクライニングのきく、彼の椅子で。


「……うふふっ!」

967: 名無しさん 2018/06/19(火) 20:41:50.19 ID:uKG7/WyFo

「運命の紅い糸……ですか」


 最初に、部屋に入った時に感じたのは、異臭だった。
 人間、誰しもが嗅いだことのある、アンモニア臭。
 しかし、一般的なオフィスでは嗅ぐ事があるはずの無い、その臭い。


「はい♪」


 私の言葉を同意と受け取ったのか、彼女は嬉しそうに笑った。
 一見、輝くような笑顔に見えるが、私には、それが明るいとは感じなかった。


「きつく結ばれた……絶対にほどけない、紅い糸」


 左の手首に巻かれたリボンを見ながら、放たれたその言葉。
 絶対に、何者にも踏み込む事など出来はしないと、そう、思わされる。
 迂闊にもその間に入り込もうとしたならば、全てを溶かし尽くすような、その笑顔。


 彼女は、夜空に煌めく星では、無い。


 ただ一人のために、燦然と輝く、赤い……紅い、太陽なのだ。


「しかし……あの、何故……このような真似を……!?」


 彼の口から、彼女とは上手くやっていると、聞いていた。
 仕事面では、彼女の魅力を最大限に引き出す、良いプロデュースだと私も思っていた。
 プライベートに関しても、彼女の年齢を考慮し、
適度な距離を保てていると……そう、言っていた。


 ――なのに、何故、彼女はこんな凶行に及んだのか。



「とっても、順調だったからです」



 ……えっ?


「えっ?」


 順調だと、彼女も自覚していたのに。
 それなのに、彼の椅子に座り、糞をする必要があると言うのか。
 ここからでは確認出来ないが、彼の机の周辺には、茶色い水たまりが出来ている。
 時が経つにつれ、勢力を拡大していくそれを視界の端に捉えながら、


「愛には、試練がつきものですから……うふふ」


 私は続く彼女の言葉を聞き、耳を疑った。


 彼女は、運命が絶対だと、信じている。
 しかし、穏やかな日常に、あえて自ら波を立たせ、それをより強固なものにしようとしたのだ。
 理解したくはないが、私も、プロデューサー。
 彼女の――アイドルの目的は、残念だが、理解出来た。


 しかし――


「――貴女は、間違っています」


 ――だからと言って、こんな事をして良い訳では……無い。

969: 名無しさん 2018/06/19(火) 21:10:33.21 ID:uKG7/WyFo

「間違っている?」


 理解出来ない……とでも言いたげな表情で、首を傾げている。
 その位はわかっていただきたいと、そう、思います。
 恋は盲目と言うが、こんなにも先が見通せなくなる程の濃い霧だとは。


 私は、彼女の担当プロデューサーでは無い。
 濃霧の発生源をどうにか出来る程、自惚れてはいない。


 ――だが、この状況を打破する事は、出来る。


「はい。まず、彼はドアを開けた時……その、異臭に気付くと思われます」


 今すぐにでも窓を開けて換気がしたくなる、この臭い。
 私は、この臭いを嗅いだ時、既に判断を誤っていたのだ。
 だが、その間違った判断が、彼女に行動を省みさせるという結果に、繋がるかもしれない。
 正に、災い転じて……いや、どう言い繕おうとしても、とんだ災難です。


「……それが?」


 彼女の瞳からは、光が消えている。
 私こそが、二人の仲を裂こうとする障害だと言わんばかりの、強烈な視線。


「プロデューサーさんは、絶対に挫けません」


 そう言いながら、彼女は何もない空を見つめる。


「プロデューサーさんは、きっと乗り越えます」


 彼女の、彼に対する想いが、嫌という程伝わってくる。


「だって――運命の人だから! 紅い糸で、結ばれてるから!」


 紅潮する頬、熱に浮かされた視線。


「うふふ……この困難を乗り越えて、もっと、もっと――」


 そんな、彼女の目を覚ますため、



「異臭に気付き……警備員の方を呼ぶと思われます」



 現実という、非常に冷たい冷水を浴びせかける。


「――もっ……と……」


 恍惚としていた表情から、一転。
 頭に昇りつめていた赤い血は、燦然と輝いていた太陽は――


「……あっ」


 ――地に、落ちた。

971: 名無しさん 2018/06/19(火) 21:44:38.23 ID:uKG7/WyFo

「……」


 そう……普通は、思わないのだ。
 自らのオフィスで、異臭がしたとしても……アイドルが大をしているとは。
 それにも関わらず、彼女は、信じて疑わなかった。
 彼女がこのプロダクションに入る時に発揮した、恐ろしいまでの行動力と決断力は、
今回ばかりは、見当違いの方向に向いてしまったと言わざるを得ない。


「あっ、ど……どうしよう……どうすれば……!」


 両手で頭を抱え込み、必死に思考を巡らせているようだ。
 彼に与えられるはずだった困難が、大きさそのままに、彼女に跳ね返っている。
 ……最初に彼女を発見したのが私という時点で、企画は失敗だったのでは?
 いや、よそう……今、彼女の企画の拙さを責めても、何の解決にもならない。


「このままでは、貴女は、担当プロデューサーの席で脱糞し――」


 ゆっくりと、


「――警備員の方に囲まれ、大騒ぎを起こした――」


 言い聞かせる。


「――超問題児として、彼に認識されるでしょう」


 既に、私の中では貴女は超問題児ですが。


「ちょ、超問題児……!?」


 彼に、そのように思われると考えただけで、体の震えが止まらないようだ。


 ――ブビッ!


 ……体に力が入ったことで、アンコールが発生したようですね。
 全く望んでいないLIVEではあったが、腸に問題はなさそうで、何よりです。
 ……はい、少しでも良かった所を探さないと、心が折れてしまいそうです。


「あ、あのっ! どうすれば良いんですかぁ!?」


 眉間に皺を寄せ、眉はハの字に垂れ下がり、歯は噛み合わずカチカチと音を鳴らしている。
 そんな彼女を見ることなく、私は歩を進め、



「――此処は、私が」



 窓を全開にし、換気を始める。
 排気ガスで汚れていると言われる都会の空気でも、この部屋にただようそれに比べれば、新鮮だ。
 次々と窓を開け放ち、風通しを良くする。
 北風は太陽とは違い、旅人の服を脱がすことは出来ないが、霧を晴らすことは出来るのだ。


「貴女は、汚れの痕を残さないよう、十分に気をつけて……シャワールームへ」


 アイドルの方は、輝いていなければいけない。
 汚れ仕事は、プロデューサーの役目だ。

974: 名無しさん 2018/06/19(火) 22:20:20.34 ID:uKG7/WyFo
  ・  ・  ・

「……――これで、此処は大丈夫だろう」


 まるで、何事も無かったかのように、原状復帰出来た部屋を見渡す。
 臭いも、むしろ、彼女が脱糞する以前の状態よりも良くなっているかも知れない。
 だが、唯一、如何とも出来なかった場所が、ある。
 それは――爆心地。


「……」


 彼の、椅子だ。
 ビニール袋を何枚も被せるという封印を施したその中には、
彼女のドロドロと溢れ出してしまった想いと、彼の椅子が入っている。
 彼女が脱ぎ捨てていった下着も、別の小さい袋に入れ、一緒に封印している。
 下着の色? はい、茶色です。


「……」


 私は、その大きな塊を抱え上げ、歩き出した。
 目的地は――シンデレラプロジェクトの、プロジェクトルーム。
 本当に、したくはないのだが……とりあえず、私の椅子と交換するしかなさそうだ。
 あまり時間は残されていないし、彼が来る前に、全ての処理を終わらせなくては。


「……笑顔です」


 一瞬、私は何のためにこの会社に務めているのだろうと、疑問が頭に浮かんだ。
 しかし、それに対する答えを私は知り得ているし、それこそが、
何もかもを放り出して帰宅したくなる私の足を前に進める原動力になる。
 だから私は、それを口にすることで、なんとか平静を保った。


「……」


 確かに、彼女の、彼へ対する想いは、問題がある。
 アイドルと、プロデューサーという立場。
 そして、彼女の年齢も考慮すると、会社的にも、社会的にも許されはしない。


 しかし、その想いこそが、彼女をよりアイドルとして輝かせている。


 それだけは、誰にも否定しようのない、事実だ。


「……」


 願わくば、彼と――そして、彼女がこれからも、笑顔で。


「……」


 ドアを開け、プロジェクトルームへ急ぐ。
 速やかに、椅子の交換と、彼に渡すための資料を印刷しなければならないから。
 持ってきた資料は、後処理に使用したため、茶色く染まり、読めなくなってしまったので。
 恐らく、これ以上無いほど、役に立ったのでは無いでしょうか。


 私は、固く心に誓った。


 この一件が終わったら、何を言われようと、此処には二度と近づかない、と。



おわり

981: 名無しさん 2018/06/20(水) 21:13:28.73 ID:5Xhr7xCLo

「ねえ……起きて」


 静まり返った部屋に、一人のアイドルの声が響く。
 その声を聞いて、霞がかっていた意識がハッキリとしてきた。
 うっすらとだが、ノックの音が聞こえていた……ような気もする。
 私は、身をよじって声のする方へと、視線を向けた。


「起きて、Pチャン」


 旅館に備え付けられていた浴衣ではなく、Tシャツとハーフパンツ。
 そして、普段では見ることのない、眼鏡をかけている彼女の姿が目に映った。
 薄闇の中でも、視界がクリアーになっていく。
 だが、今の状況を正しく理解出来る程には、頭が回らない。


「……Pチャン」


 彼女は、布団に横たわっている私の傍に座り、胸に手を置いてきた。
 明かりの灯った廊下から歩いてきたからか、この暗闇に彼女の視界はまだ慣れていなのだろう。
 浴衣のはだけている、肌が露出している場所に、
同じ年頃の少女よりも少し皮膚が固くなっている指先の感触を感じる。
 だが、それは彼女がアイドルとして人一倍努力している結果であり、私は――


「っ!?」


 ――などと、悠長にしている場合ではない!


「にゃっ!?」


 飛び起きた。
 それに彼女は驚いて声を上げ、置いていた手をすばやく引っ込めた。
 その手を胸に抱え込み、目を大きく開きながら、声を失っている。


「あ、あの……ここで、何を……!?」


 私も私で、彼女の指先が触れた左胸――丁度心臓の真上だった――を隠すように、
はだけていた浴衣をたくしあげ、少しでもマシになるよう、体裁を整える。
 そうは言っても、この様な状況に陥ってしまった時点で、かなりの失態だ。
 担当しているアイドル……いや、それ以前に、彼女はまだ年若い。
 そのような方に無防備な姿を晒してしまうとは……いや、年齢は関係ないか。


「え、えっと……その……お願いがあるの」


 太ももをすり合わせながら、非常に言いにくそうに、彼女は言葉を紡いだ。
 瞳は潤み、切なげなその表情は、普段の明るい彼女からは想像が出来ないものだった。
 仕事とプライベートの区別をしっかりする方だとは思っていたが、
今の姿が、彼女の素……という事なのだろうか。


「あの……ね」


 彼女は、普段の装いを脱ぎ捨て、ありのままの自分を曝け出している。
 それは、彼女が言おうとしている事が、心の底からの、願いということだろう。


 それは……一体――?


「とっ――トイレに着いて来て欲しいの!」


 その言葉を発するのに、彼女は大いに悩んだのだろう。
 だが、私は想定していたものとはまるで違う彼女の願いに、大いに安堵した。

984: 名無しさん 2018/06/20(水) 21:47:22.73 ID:5Xhr7xCLo
  ・  ・  ・

「……はあ、和式……ですか」


 私達は、仕事で来た山奥にある、小さな宿に宿泊している。
 予約をとっておいたホテルはあったのだが、
ホテル側の手違いで他の旅行客の方とダブルブッキングしてしまったらしい。
 私は、交渉して譲って貰うつもりでいたのだが、
話してみたら、なんと、旅行客の方が彼女のファンだと言うのだ。


「それに……な、なんか暗いんだもん!」


 それに気を良くした彼女は、快く部屋を譲り、颯爽とホテルを後にした。
 勿論、少し離れた所で頭を抱えて後悔されたのは、言うまでもないだろう。


 そこから、他に空いているホテルを探したのだが、
どこも生憎と、空いていている部屋が……一部屋のみ。
 アイドルとプロデューサーが、同室で寝泊まりするわけにはいかないと、
一時は別々のホテルに宿泊する事も考えたのだが、何かあった時のために、却下した。


「うぅ……なんで、こんな目に……!」


 結果、二部屋だけ空きがあった、ここに宿泊する事になったのだ。
 少し……いや、かなり古びた宿だったので不安ではあったが、
夕食は非常に絶品で、小さいながらも温泉まである、良い宿です。
 部屋の窓からの景色も良く、機会があれば、個人的にまた来ようとも思える程だった。


「……早く、帰りたい……!」


 ……しかし、彼女はそうは思ってはくれなかったようだ。
 そこに、一抹の寂しさを覚えながらも、仕方ないとは思うのも、また事実。


 普段、気の強い所を見せている彼女には、怖がりな面もある。


 そして、驚いた事に、和式のトイレを使用した事が無いらしい。


「トイレくらい、座ってしたいにゃ……!」


 そんな、二つの不安要素が重なって、私に助けを求めてきたと、そういう事のようだ。
 時刻は既に、深夜二時をまわり……図らずも、丑三つ時になっている。
 朝まで我慢する気でいたらしいが、どうしても、耐えられなくなったらしい。
 そうですね……はい、夕食をかなり食べていましたから、当然の結果です。


「あの……どうぞ」


 トイレの――木製のドアの前に立ち、彼女は泣きそうな声を上げ続けている。
 迷惑にならないように、小声でぼやいているのが、彼女らしいといえばらしい。
 だが、トイレには、ドアを開けなければ入れない。
 それなのに、彼女はドアに手をかけようとしないのだ。


「……」


 促しても、彼女はトイレに入ろうとしない。
 それどころか、眼鏡越しに訴えるような眼差しでこちらを見つめてきている。


 が、


「どうぞ、中へ」


 私はそれを無視し、ギィィと鳴るドアを開け、催促した。
 申し訳ありません、私も眠いのです。

985: 名無しさん 2018/06/20(水) 22:12:35.26 ID:5Xhr7xCLo

「……わかったにゃ」


 私の有無を言わさぬ様子に観念したのか、彼女はトボトボとトイレに向かって歩き出した。
 恐らく、彼女にネコミミがついていたならば、それはピタリと頭にはりついていただろう。
 尻尾があったら、その毛は逆だっていたか、もしくは、垂れ下がっていたか……。


 とにかく、これで、トイレに入っていただけ、部屋に戻れ――


「でも! 戻っちゃダメだよ!?」


 ――ない……らしい。


「……わかりました」


 右手を首筋にやって、必死な彼女の顔を見る。
 しばし、月明かりの下、無言で見つめ合う。
 廊下も照明がついてはいるのだが、その光量はほんの僅かだ。
 そして、彼女はトイレの――和式便所をキッと睨みつけ、トイレの照明ボタンを押した。


 パチン。


「…………ん?」


 少し古めかしい、黒いスイッチ式のそれが反対側に倒れたのに、照明はつかない。


 パチン……パチン、パチン。


「…………えっ? えっ?」


 パチン、パチン……パチンパチンパチンパチンッ!


「…………うそにゃ」


 ――トイレの照明が――つかない。


 電球の交換を怠っていたのか、はたまた、他に違う原因があるのか。
 何にせよ、このトイレの電気は――スポットライトは、無い。


「Pチャン……どうしよう……?」


 顔から一切の感情が抜け落ちた彼女に対し、私は、


「……頑張ってください」


 精一杯の、声援を送る。
 しかし、彼女は「それだけ?」と小さく呟いた。
 なので、


「……笑顔で、頑張ってください」


 パワーオブスマイル……笑顔の力を信じてくださいと、再度声援を送る。
 あの……それ以外、かける言葉が無いと、そう、思います。

986: 名無しさん 2018/06/20(水) 22:40:45.75 ID:5Xhr7xCLo
  ・  ・  ・

「……絶対、後を向いちゃダメだからね、Pチャン」


 最悪だ。
 私の眼の前には、トイレの木製のドアがある。
 暗がりの中とは言え、窓から差し込む月の光で、木目すら数えられる程の、至近距離で。
 ……そう、私は今、


「はい、決して振り返りません」


 彼女と一緒に、暗い、トイレの中に居る。
 同室になるのを避けたばかりに、こんな事態に陥ってしまうとは、思わなかった。
 こんな事になるならば、別々のホテルに宿泊すれば良かった。
 これ以上の事態など、そうそう、起こり得はしないだろうから。


「……ふぅ、んんっ……!」


 今すぐに、耳を塞ぎたい。
 だが、私の両手は、既に使用中なのだ。


「んぐっ……ふ、ん……!」


 背後でふんばっている彼女が、支えにしたいと要求して来たために。


 私の担当アイドルは、和式トイレを正しい向き――ドア側を見る形で、用を足そうとしている。
 だが、しゃがんだその体勢では、暗がりの中安定せず転んでしまうと、そう、言ってきた。
 そんな事を仰られてもと困る私とは逆に、彼女は……閃いた、と。
 不思議なもので、閃いたはずなのに、私は視界がより一層暗くなった。


「はぁ……はぁ……緊張して出ないよぉ……!」


 後ろに回した両の手は、彼女がふんばる度に、強く、握りしめられる。
 一見すれば、私が前に立ち、彼女の手を引き、導いているように感じるだろう。
 ……そうですね、そう考えてみれば、気分も大分違うはずです。


 楽しい事を考えよう……笑顔……そう、良い笑顔の事を――


「そうにゃ! 笑顔! 笑顔になれば、リラックス出来るにゃ!」


 ――……もう、考えるのはやめよう。


「……」


 早く、この悪夢のような時間が過ぎれば良い。
 いや、むしろ、これは夢なのではないだろうか?
 本当の私は、今も布団の中で目を閉じて眠り続け、日中の疲れを癒やしているのでは?
 そうだ、そうに違いない……これは、夢――


「アイドルになるの、ずっと夢だったの」


 ――では、無いですね、はい……現実ですね、わかっています。
 ですが……あの、この状況で、何故その話題を選択してしまうのですか?
 他にもっと、こう……あると思うのですが。

988: 名無しさん 2018/06/20(水) 23:09:37.99 ID:5Xhr7xCLo

「でもね、その夢は叶ったでしょ?」


 彼女の小さな手に込められていた力が抜け、しがみつくから、繋ぐに変わった。
 プロジェクト内でも、飛び抜けたプロ意識を持つ彼女は、
文字通り、夢を叶えるために、必死にしがみついて歩いてきた。
 だが、ユニットを伝えた時の彼女は、非常に不満を持っているようだった。


「だから、今の夢はトップアイドルにゃ!」


 しかし、彼女はそれを乗り越え、手を繋いだのだ。
 今でも、彼女の――彼女達のデビューライブの時の姿は、ハッキリと思い出せる。
 目を閉じれば、瞼の裏に焼き付いた光景が、まざまざと浮かんでくる。
 今の言葉が現実になるだろうと思える程の、本当に、良い笑顔だった。


「だからね、Pチャン……これからも、プロデュースよろしくにゃ!」


 キュッと、手を握りしめられる。
 この様な状況にも関わらず、やはり、彼女は素晴らしいアイドルだと認識させられる。
 きっと、私の後で、彼女は良い笑顔をしているのだろう。
 振り返る事は出来ないが、今の言葉に応える事は――


「はい……これか「あ、出る! 出る出る出る出る出るにゃ!」


 ――出来なかった。


 ブフーッ!


「……」


 凄い、放屁です。


「ふっぐ……P、チャン……!」


 お願いします、手を握り締めるのは、構いませんが、その……私を呼ばないでくれますか?


「手……! 手、握っててぇっ……!」


 絞り出すような、彼女の声。
 私の手を掴む彼女の掌は、小刻みに震えている。
 それが、羞恥のためか、腹筋に力を込めているかは、わからない。


 だが、アイドルの方の要望に可能な限りお応えするのが、プロデューサーの務めだ。


「――はい、わかりました」


 彼女の、小さな手を握り締める。


「ふんっ、にゃあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ゙……!」


 ブポッ! ブッ、ムッ、ブリィッ!


「……」


 一つだけ、気付いた事がある。


 木目を数えるのは、案外と、楽しい。



おわり