67: 名無しさん 2019/02/07(木) 21:42:25.07 ID:yjDNNIaMo

「はー……やむ」 


 普段は入らないような喫茶店の、奥まった席で呟いた。 
 向かいの席に座る人に聞こえてたらどうしよう。 
 もしも聞こえてたら、どんな反応するんだろ。 
 ぼくは、上目遣いで覗き込んだ。 


「……」 


 聞いてないし!! しー!! 
 りあむちゃんの呟きをスルーするとか! はー!? 
 やむやむ! チヤホヤしてよー! 
 あ、ウソですすみませんでした。 


「……」 


 今日も学校に行かず、家でネット三昧。 
 実家のある鳥取から東京に出てきて、学校に馴染めなくて。 
 学校を辞めたいと思ってるけど、それを親には言い出せない。 
 言った時の事を考えただけで、やむ。やむ!! 


「……」 


 人生詰んだと思ってたけど、今はもっと詰んでる。 
 ちょっとコンビニに飲み物買いに出たら、声をかけられた。 
 普段のぼくだったら絶対に着いて来なかったけど、 


 ――アイドルに興味はありませんか? 


 の、一言がぼくの足を止めさせた。 


「あの……」 


 ……だけど、どう見ても不審者だし目つき悪すぎ背ぇ高すぎ! 
 声も低いし怪しさ全開! どう見てもアイドル関係じゃない! 
 明らかに、ぼくの乳目当てのえっちなビデオ関係の勧誘だよ!! 
 やったね!! 人生オワタ!! はー、やむ!! やむー!! 


「お話をしても、宜しいでしょうか?」 


 声の出所が、さっきよりも近く感じられた。 
 いつの間にか目の前のコーラのグラスに注がれていた視線を上げると、 
鋭い二つの目が、少し覗き込むようにぼくを見ていた。 


「はぁい!?」 


 殺さないで!! 


「……あ」 


 思わず出た大声に自分でも驚き、周囲を見回すと、 
喫茶店に居た他のお客さんからの注目がぼくに集まっていた。 


「――すみません、お騒がせしました」 


 向かいに座ってた勧誘の人が立ち上がり、謝ってくれた。 
 まるで意図しない炎上。 
 はー……やむ。

引用元: ・武内P「理由あって、飲み会」

68: 名無しさん 2019/02/07(木) 22:16:50.19 ID:yjDNNIaMo

「驚かせてしまったようで、申し訳ありません」


 椅子に座り直して姿勢を正すと、勧誘の人はぼくに謝ってきた。
 そういう事言われると逆にきつい!
 だけど責められたら、やむ!
 ……から、


「……あ、いえ」


 なんて、当たり障りの無い返事をした。
 それから、どうして良いかわからずグラスに手を添え、
ストローからチュウと一口コーラを飲む。
 思っていた以上に喉が乾いていたようで、妙に美味しく感じられた。


「先程もお話しましたが……私、こう言う者です」


 勧誘の人は、大きな両手で小さな紙――名刺を差し出してきた。
 人生で名刺を差し出されるなんて初めての経験で、
なんとなく両手で受け取るものだって知識を頼りに、受け取る。
 ま、どうせぼくの知らない会社名なんだろうけど。


「……」


 受け取った名刺を見て、動きが止まった。


「……はっ?」


 体はくっそ健康に出来ている。
 血潮はAB型、心はガラス。
 幾度の――


「――346……プロダクション?」


 ――ステージを描き出してきた、大手芸能プロダクション。
 それが本当なら……いやいや!
 ナイナイ! あぶなっ! あぶなー!!
 そういう詐欺だコレー! うわ、うわうわうわ!!


「はい。自分は、346プロダクションで――」


 チャンス来た!!
 このやり取りをTwitterに載せればバズる! るー!
 うへへ、チヤホヤチヤッホヤされちゃうよう!!
 そうと決まれば、


「これが本物だって、証拠は?」


 質問タイム!
 ワンチャン、これでぼくも人気者!?


「……」


 詐欺師(仮)の人は、右手を首筋にやって少し困った顔をした後、
携帯電話を取り出して操作し、その画面をぼくに見せてきた。


「……プロデューサーをしています」


 画面の中では、ぼくの知っているアイドル達がこの人を取り囲んでいた。
 アイドル――シンデレラプロジェクトの、メンバー達が。

69: 名無しさん 2019/02/07(木) 22:48:03.88 ID:yjDNNIaMo

「……」


 シンデレラプロジェクトは、知ってる。
 知ってるって言うか、現場に参戦した事もある。
 この前、みくちゃんと杏ちゃんが炎上してた。
 あ、それは今は置いておいて、


「な、何が目的……?」


 シンデレラプロジェクトのプロデューサーが、ぼくに何の用!?
 アイドルの勧誘に見せかけた詐欺かと思いきやスタッフ募集とか!?
 えっ!? 芸能プロダクションのスタッフってこうやって集めてるの!?
 ちょっと待って、はー!? えっ、何!?


「君をアイドルにスカウトしたい……と」


 ……そう、考えています、だなんて言われても、追いつかない。
 あまりに唐突すぎて、脳が大炎上を起こしてる。
 素人ドッキリでしたと言われてもおかしくない発言に、
やみそうになりながら、


「や……やっぱり、良い乳してるから?」


 両腕で胸を挟み込んで寄せ、出来た山の上に両手を乗せる。
 眉は疑いから変な形になってるのが自分でもわかるし、
表情も右の頬がひくついて……って、このポーズはダメだよ!! よ!!
 また右手を首筋にやって困ってるもん!! でも、でっかくない!?



「――笑顔です」



 眼の前のこの人から出るとは思えない言葉。
 目つきが悪くて無表情で、アイドルとは無縁そう。



「貴女の笑顔が見たいと……そう、思いました」



 そんな、シンデレラプロジェクトのプロデューサーサマ。
 夜な夜なやんでポエってるぼくが、言われない台詞。


「あ、あのっ!」


 思わず立ち上がり、テーブルが音を立てる。


「ぼく、学校辞めたくてなんかもう人生詰んでて!」


 ……溢れる!


「そんなぼくでもアイドルになったらワンチャンあるかな!? な!?」


 溢れ出る!!



「それは……わかりません」



 ……うわーん!! なんだよそれ、やむ!!

70: 名無しさん 2019/02/07(木) 23:23:00.63 ID:yjDNNIaMo

「……私に出来るのは、手助けまでです」


 椅子に座り直そうとするぼくの耳に、声が届いてきた。


「アイドルになって、輝くのは……貴女自身の努力が必要になります」


 その声は、不思議とぼくの心に、響いた。


「貴女が笑顔で――楽しめるならば、ですが」


 ……楽しむ?


「詰む――行き止まりだと思っていた、貴女の眼の前の壁」


 ……前どころか、右も左も無い。



「その壁は、登っていくための階段なだけだ、と……気付けると思います」



 階段なだけ。
 ぼくが、やみにやんでる状況を階段だと言われた。
 ゆとったザコメンタルのぼくは、いつもなら、やむ。
 でも、


「プロデューサーサマ……!」


 詰んでるぼくにとっては、あまりにもキラキラしたポエムだった。
 だって、ぼくの笑顔を見たいって言ってくれる人が、
ぼくの人生は詰んでなんかない、スカウト――


 ――必要だって言ってくれてるんだから!!


 はー! めっちゃあがる! 何!? 神!?


「ですが……」


 何ですか、神!!


「学校に関しましては、親御さんとよくご相談された上で……」


 やむ!! やむー!!



 結局、名刺と資料を受け取って、後日また席を設けるという事で解散になった。
 それまでに、親に色々と話さなきゃいけない。
 夜、ベッドに寝転がりながら、必死で何て言おうか考えて。
 その上で、貰った資料に目を通しながらベッドに寝転がっていたら、
いつの間にか真夜中を通り過ぎて……朝になっていた。


「……寝癖、やば」


 ぼくは、誰に聞かせるでもなく呟いた。




おわり

152: 名無しさん 2019/02/10(日) 20:52:44.20 ID:W/pEztXNo


 ――ぼくは、今どんな顔をしてる?


「……」


 沢山のライトに照らされて、頭の中が真っ白になっていた。
 昨日の夜、必死で考えてきたポーズ。
 撮られる角度まで考えて、今日はバッチリのハズだった。
 なのに、


「……」


 ライトの中に、一歩踏み出したら。
 アイドルの世界への、大事な一歩を踏み出したら。
 ……何も考えられなくなっちゃった。


「ぅ……ぁ……」


 大勢の人。
 知らない人達に、ここまで注目されたのは初めて。
 注目されたい、目立ちたいと思ってたのに。
 なんで? どうして?


「……!」


 皆が、ぼくに‘ちゃんと’仕事をするのを望んでる。
 そりゃそうだよね。
 だって、そのために皆は此処に居るんだから。
 見たことも無い大きさのカメラのレンズが、ぼくに向けられてる。


「あぅ……ぁ……」


 えっと、今は……宣材写真の撮影をしてて。
 だから、見る人にアピール出来るような写真を撮らなきゃいけなくて。
 ぼくの前に撮った同期の子達は、少し手間取ってはいたけど、出来てて。
 それを見て、なんであんな簡単な事もー、なんて思って。
 それで、それで――



「すみませーん! 何かポーズをお願いしまーす!」



 ――あ、そっか。


「はっ、はいっ!」


 普通の人が、当たり前に出来ること。
 それが出来なかったから、人生が詰んだんだよね。
 アイドルにスカウトされて、浮かれてる場合じゃなかったんだ。
 だって、アイドルだもん。



「それと、表情がちょっとかたいねー! 柔らかく、柔らかく!」



 普通の人が出来る事も出来ないのに、
尊いアイドルサマがするような事が、ぼくに簡単に出来る訳ないもんね。
 柔らかくって言われても、わかんないし。
 だけど、やれって言われたからにはやらないと……はー、やむ。


 ……新人なので優しくしよう!! 頼むからさぁー!!

153: 名無しさん 2019/02/10(日) 21:25:03.21 ID:W/pEztXNo
  ・  ・  ・

「方向性?」


 ソファーに腰掛けながら、正面に座る人に問い返す。
 ぼくよりも、かなり身長の高いその人は、
座っていてもどうしても見上げるような形になる。
 その人――プロデューサーサマは、はい、と短く言って、


「貴女は、どんなアイドルになりたいと考えていますか?」


 そんな事を突然聞かれても、すぐには答えられない。
 だから、少し考えて、


「……売れるの」


 なんて、尊さの欠片も無い答えを返した。


「……成る程」


 噛み合わない会話。
 ぼく、ちょっとコミュ障入ってるけど……この人も割とそうじゃない?
 あんまり、お喋りするようなタイプには見えないし。
 いやまあ、この顔でマシンガントークされても困るけど。


「プロデュースの方向性は、お任せして頂ける……と?」


 この人は、シンデレラプロジェクトをプロデュースした人だ。
 だから、全部任せておけば大丈夫……だと思う。
 大手プロダクションだし、ぼくの知らない範囲もあると思う。


 あっ、でも――


「――……ういっす、そんな感じで」


 ――やめとこう。
 せっかくの人生逆転のチャンスなんだもん。
 それなのに、神の判断に口を挟むとかナイナイ。


「……そうですか」


 はー、やむ。
 今日の夜は、ポエろう。



「では――グラビア撮影は、極力控える方向で良いでしょうか?」



 ……はっ?


「えっ?」


 ……なんで?


「売れるの、というご希望を叶えるのに、少し時間はかかりますが……」


 こちらを見るプロデューサーサマの顔。
 ぼくは、それをアホ面で見続けた。

154: 名無しさん 2019/02/10(日) 22:06:34.99 ID:W/pEztXNo

「いっ、いやいや!! なんで!?」


 スカウトされた時と同じ様に、ソファーから立ち上がった。
 今度は、テーブルに引っかかることなく、中腰の姿勢になる。
 勢い良く立ち上がったから、乳が揺れた。
 ぼくのいいとこなんて……この乳くらいなのに。


「なんでそう思ったの!? の!?」


 ぼくの、急激なテンションの上がり方に、
プロデューサーサマは右手を首筋にやって、少し困ったような顔をした後、


「……時間がかかるのは、どうしても」
「違う違う! そっちじゃなくてさぁ!?」


 あー! うー! うううー!



「ぼくが、その……えろっちいのイヤだ、って!」



 言った後、しまった……って思ったけど、もう遅い。
 沈黙が流れ、立ったままでもどうしようもないから、また座った。
 チラリと、前髪の隙間から上目遣いで視線を向ける。
 そこにあるのは、何を考えてるかわからない無表情。


「私も、あまり詳しい方ではありませんが――」


 そんな前置きの後に、淡々と語られた。


 ぼくの、これまでの……SNSでの活動に、違和感を感じた……って。
 構ってもらいたい――チヤホヤされたいのなら、いくらでも方法はあった。
 そうだよね、この乳だもん。でっかいし。
 だけど、ぼくはそれを避けての発言しかしてなかったし、
自分の写真なんかも公開してこなかった。


「――なので、そういった事に抵抗があるのかと……そう、考えました」


 事務所に入る時に、それまでのSNSでの発言はチェックされてた。
 そりゃそうだよね! 過去ツイートに問題があったら困るもんね!
 だけど、そう考えたら……やむ! うわーん、やむ!
 深夜に垂れ流してたポエムも、見られちゃってるって事だし!


「誰かに相手をして欲しいのならば、ポエムでそれを表現するよりも――」
「改めて言わないで!? めっちゃやむ!!」


 真っ直ぐな視線に耐えきれず、ソファーに膝立ちになって反対を向く。
 背中越しに見られてるのはわかるけど、どうしようもないよう!


「……申し訳ありません。私は、あまりコミュニケーションが得意な方ではなく、ですね」


 本当に申し訳無さそうな、低い声が聞こえてくる。
 だけど、振り返るには、ぼくのメンタルはザコすぎた。


「貴女に、不快な思いをさせてしまったでしょうか?」


 だけど、それでも。
 首を横に振って、今の言葉を否定する程度の事は出来る。
 ……出来て、良かった。

155: 名無しさん 2019/02/10(日) 23:00:36.67 ID:W/pEztXNo

「……」


 何も言わずに、ただ、ソファーの背もたれに顔を埋めて待つ。
 いつもだったら、構ってもらうために何かを言ってばかりなのに。
 今は、何も言葉が浮かんでこない。
 メンタルというか、頭がザコい。


「……アイドルが、お好きだと」


 さっきまでとは、まるで違う話の流れ。
 だけど、この話なら――乗れる。
 だって、ぼくはアイドルが好きだから。
 そうじゃなかったら、スカウトも途中で逃げてたし。


「……うん」


 いつまでも、背中を向けてるわけにもいかない。
 コミュ障……とまではいかなくても、
得意な方じゃないって人が話しかけてきてるんだもん。
 もしも、ぼくが同じ事をされたら、やむ! 自信アリ!


「……」


 体をひねって、座り直そうとした時。
 プロデューサーサマの口元が、少し綻んでたような気がする。
 気がするだけで、本当はどうかわからないよ?
 聞くのは……あ、無理です。


「LIVEにも、ファンとして参加なさっていたのですか?」


 めっちゃしてた!
 おかげで、お財布はダメージだらけで傷だらけ!
 その代わりにメンタル回復!
 まあ、だからSNSくらいしか他にやれる事無かったんだけどね!


「……成る程」


 頷くだけのぼく、めっちゃコミュ障!



「ならば――貴女は、ファンの気持ちが理解出来るアイドル、になりますね」



 アイドル。
 ……そっか、アイドルになるんだ。


「少しだけ、先程の質問を変えようと思います」


 プロデューサーサマは、一度言葉を切り、


「貴女は、どんなアイドルが好きですか?」


 そう、聞いてきた。
 だから――



「顔がいいアイドルが……しゅき……」



 ――思わず、正直に答えた。

156: 名無しさん 2019/02/10(日) 23:28:22.62 ID:W/pEztXNo

「……」


 プロデューサーサマは、口元に手を当てて考え事をしてるようだった。
 ぼくの答えに不満があったのかな!?
 正直に答えて不満がられるとか、やむ!
 しょうがないじゃん! 好きなんだもん!


「……失礼しました」


 あれ?


「もしかして……笑ってただけ?」


 浮かんだ疑問をそのままぶつける。


「……すみません」


 謝られた。


「っはー!? 正直に言ったら、笑ったの!? やむ!」
「も、申し訳ありません……!」
「プロデ――」


 もう! もおお!


「――Pサマ! 頼むよPサマ!? 本気でやむよ!」


 せっかくさあ! なけなしのコミュ力振り絞ったのに! にー!


「……今後は、気をつけます」


 Pサマは、右手を首筋にやってそう言った。
 ぼくの気のせいじゃなければ、ちょっと頬のあたりがひくついてる気がする。
 そして、ゴホンと一つ咳払いをした後、また、無表情に戻った。


「では……例えば、ウチの事務所でしたら?」


 そりゃあ、皆可愛いよ。
 だけど、今聞いてるのはそういう事じゃないよね。
 Pサマは、ぼくの好みを聞いてるんだ……よね?


「えっとねぇ!……ちょっと待って!? 何人まで挙げて良いの!? の!?」


 ファンとして参加してきたLIVEの光景を思い出しながら、指折り数える。
 順番なんてつけられない! DD全推し!!
 誰かを雑く扱うとかマジ無いし!


「……」


 Pサマは、また、口元に手を当てた。

157: 名無しさん 2019/02/10(日) 23:55:48.12 ID:W/pEztXNo
  ・  ・  ・

「……」


 ――なんて、そんなやり取りを思い出した。
 あっれ!? 全然役に立つ記憶じゃないよ!?



「どうしたのー?」



 カメラマンさんが、心配そうに声をかけてきた。
 撮影中にボーッとするとか、やば!
 えっと、あっと……何だっけ!? ポーズ!?
 ポーズ……ポーズ……や――



「や――」



 右手を広げて、前に突き出し、



「――っ! こう!? どう!?」



 決め台詞は言わずに、止めた! 止まった!
 参考にしようとは思ってたけど、台詞まで言ったら丸パクリだよう!
 炎上どころか、訴訟問題になっちゃうんじゃない!?
 いやでも、同じ事務所だから平気!? かな!?



「良いねー、そんな感じで色々ポーズ変えてみようかー」



 シャッターが切られ、次のポーズを要求される。
 だから、ぼくの知ってる限りの色んなアイドルの取っていたポーズを。
 ……しょうがないじゃん!
 パッと思い浮かぶの、それ位なんだもん!


「……!」


 次々とフラッシュが焚かれ、その度にポーズを変える。
 次第に、いくらぼくでも余裕が生まれてきて、
スタジオの様子が目に入るようになってきた。
 そして、端の方に……背の高い、目立つ影が見つかった。


「……!?」


 事もあろうに、その影――Pサマは、携帯で誰かと話しているようだった。
 うわーん! 何だよそれ! ぼくの撮影中なのに!


「――!」


 ぼくをすこれ! よ!



 後で聞いた話だと、その電話はぼくの撮影の時間がが伸びてるって報告だったらしい。
 撮った写真の中に、ムッとした顔のがあったけど、それは……気にするな! よ!




おわり

167: 名無しさん 2019/02/11(月) 21:43:50.55 ID:u2YgayRoo

「すっ、スキンケア……!」


 スカウトされて、アイドルになって。
 山形から東京に出てきて、色々と生活に変化があって。
 何か困ってることは無いかと、プロデューサーさんに聞かれて。
 強いて上げるなら、なんて感じで言った肌の悩み。


「はい」


 すぐ、ほっぺが赤くなる。
 これは、地元に居た時からの悩みの一つでもあった。
 小さい子供みたいで可愛い、なんて言われてたけど……。
 アイドルだったら、やっぱり白い肌が良いんだなぁ~。


「今は、特にこれといった対策はしていますか?」


 してないんご。
 お母ちゃんには、そろそろしないとねって言われてたけど……。
 そのたんびに、お父ちゃんがからかってきてて!
 あっ、洗顔とかをちゃんとしてるのも対策かな!?


「お母ちゃんが使ってた洗顔フォームをずっと使ってるんご!」


 自分で選ぶってなっても、よくわからないし。
 山形に居た時、友達に聞いてみても皆同じ答えだった。
 大体、普通の女子高生には手が出にくいお値段だもん!
 そういうのにお金を使うと、ラーメン食べに行けなくなっちゃう!


「……成る程」


 プロデューサーさんが、小さな手帳にメモをとっていく。
 なっ、何か問題でもありましたか!?
 もしかして、都会では一家全員それぞれ違う洗顔フォームを使ってるとか!?
 ひいい!? やっぱり、都会は怖い!


「これからアイドルとして活動していく中で、メイクをする場面が出てきます」


 内心、恐れおののく私を尻目に、
プロデューサーさんは言い聞かせるように、真っ直ぐこちらを見ている。
 あっ! 別に、プロデューサーさんの顔が怖いんじゃないですからね!?
 いやでも怖……っとと、ちゃんと話を聞かなきゃ!


「なので、スキンケアは重要になってきます」


 ――仕事面だけじゃなく、私自身のためにも。


「はあ……」


 私自身のためと言われても、いまいちピンと来ない。
 地元は、こっちに比べてかなりのほほんとしてたから……。


「頬が赤くなりやすい、という問題も解消した方が良いかと」


 へっ?


「もっ、問題!? ほっぺが赤くなりやすいのって、問題なんですか!?」


 ビックリして、大きな声が出た。
 今、多分ほっぺが赤くなってるのは、なんとなくわかった。

168: 名無しさん 2019/02/11(月) 22:47:13.16 ID:u2YgayRoo

「え、ええ……」


 私の剣幕に押されてか、プロデューサーさんは少しだけ目を見開いた。
 その原因が、私が急に大声を出したからか、
ほっぺが赤くなりやすいのを問題と知らなかったからかは、わからない。
 うぅ……ど、どっちでも恥ずかしい……!


「……原因は、いくつか考えられますが」


 それから、プロデューサーさんはゆっくりと説明してくれた。
 ほっぺが赤くりやすい原因は、遺伝や体質等、色々とあるらしい。
 その一つ一つを頷きながら、真剣に聞く。
 だって、真面目な顔で問題なんて言われたら怖いもん!


「私の肌って、どうなんでしょうか?」


 これでも、生まれた時からずっと付き合ってきた顔。
 他の人と比べたことが無いから、あまりよくわからない。
 そりゃあ、ほっぺを突っつかれた事はよくあるけど……。
 りんごを食べて、ビタミンCを補給してるだけじゃ駄目だったんだー……。


「すみません。私も、そこまで詳しい方では……」


 プロデューサーさんは、右手を首筋にやって、そう言った。
 だけど、言われてみれば確かにその通りなんだよね。
 男の人って、メイクとかしないし。
 ……あっ、そうだ! 良い事を思いついた!


「ちょっと、ほっぺ触ってみてください!」


 我ながら、ナイスアイディア!
 詳しくなくても、触ってみれば何となくわかると思うっ!
 今は、いつも通りのすっぴんだし!
 あは♪ あかりんご、冴えてるんご!


「えっ!? いえ、それは……」


 テーブルに手をついて乗り出し、顔を突き出す。
 こうすれば、手が届きますよね!
 ほらほら、早く早くー!
 お肌のチェック……あ、チェキ!? チェキしてくださいなっ!


「……どうしたんですか?」


 いつまで待っても、プロデューサーさんは固まったまま。
 どうしたんだろ?
 もしかして、まじまじ見られてると駄目とか?
 もー、しょうがないですねー!


「あは♪ こういう事ですねっ!」


 目をつぶって、待つ。


「いえ、あの……!」


 プロデューサーさんが、焦った声を出した。
 ……なんでだろ?

169: 名無しさん 2019/02/11(月) 23:08:00.16 ID:u2YgayRoo

「えっ、と……スキンケア、大事なんですよねっ!」


 目を開けて、プロデューサーさんを真っ直ぐみつめる。
 普段は鋭い目つきが、今は妙に頼りなさげに揺れている。
 だから、私は思っていることをそのまま言うことにした。
 それが、この人には一番通じると思ったから。


「だから、今の肌の状態を知るって、重要な事だと思うんご!」


 私は、やるなら1番になりたい。
 その意志は、プロデューサーさんには伝えてあった。
 目立つのは得意じゃないし、自分がアイドルでよかったのかと思う時もある。


「でも、自分じゃよくわかないから……」


 苦手な事もあるし、変に浮かれちゃう時もある。
 りんごを推していく、っていう方向性も迷いながら。
 ……そんな私でも、確かなものがある。


「プロデューサーさん、お助けを~!」


 私のプロデューサーさんは、この人なんだ、って!


「……!」


 また、目をつぶって、待つ。
 今のでほっぺが赤くなった気がするけど、気にしない。
 だって、私はアイドルだから。
 そのためだったら、出来る限りの事はがんばるんご!


「で、では……すみません、失礼します……」


 私の熱意が伝わったのか、そんな言葉が返ってきた。
 んー? 私が頼んだのに、どうして謝ったんだろ?
 あっ、都会ではそういう感じでやり取りするんですか!?
 よーし、早速!


「すみません、お世話になります!」


 あはっ♪ 今ので合ってますよね?
 父ちゃん、お母ちゃん……あかり、都会の女に一歩近づいたよ!
 でも、山形の事は忘れないから、安心してね!
 ……山形弁は、可愛くないから使わないけど。


「ん」


 プロデューサーさんの指先が、ほっぺに触れた。
 自分の手とは違う、男の人の手の感触。
 その違いに、かなりビックリ!
 ……って、


「それでわかります? もっと、りんごを掴むように!」


 遠慮なんてしないでください、プロデューサーさんっ!


「えっ!?」


 ……今、驚く所ありました?
 あ、今の例え駄目でした?
 愛ですよ! りんごを慈しむ、愛の心で触ってくださいなっ!

170: 名無しさん 2019/02/11(月) 23:35:44.73 ID:u2YgayRoo

「……!」


 プロデューサーさんの手の平が、ほっぺに当てられた。
 ほっぺで感じる、大きな手。
 小さい頃、父ちゃんに褒められた時にもこうされたっけ。
 懐かしさに、自然と笑みがこぼれた。


「あはっ♪ プロデューサーさんの手、温かいんごね~♪」


 顔を手に擦り寄せ、言う。
 こうすれば、私もほっぺが温かいし、
プロデューサーさんも肌の感じがわかりやすくて一石二鳥ですね!


「私の肌、どんな感じですかね~?」


 右側はプロデューサーさんの手が触れてるから、
反対側の左目を開けて、聞いてみる。
 何故か、プロデューサーさんは妙に背筋をピンと伸ばしてて、
左手は軽く拳を作って膝の上に置いていた。


「と、とてもきめ細かいですが……す、少し乾燥しています、ね」


 きめ細かい……これって、褒められてる!
 だけど、乾燥してるっていうのは……あっ、そっか!


「東京に来てから、まだ良いラーメン屋を見つけてないからですかね~?」


 ラーメンの油分を補給してない。
 早く、こっちでの生活にも慣れて色々と行ってみたいんですよねー。
 電車なんかいっぱい走ってるから、すっごく便利ですよ!
 あは♪ 考えただけで、楽しみ!


「も……もう、良いでしょうか?」


 聞きながら、プロデューサーさんはサッと手を引っ込めた。
 そして、引っ込めた手を少し彷徨わせた後、
左手と同じように軽く拳を作って、膝の上に乗せた。
 どうしたんですか? 何か、緊張してません?


「……?」


 お肌のチェッ……チェキ!
 チェキするのって、そんなに緊張するような――


「――あっ」


 顔が、熱くなっていくのがわかる。
 ほっぺだけじゃなく、顔から首筋から、色々……全部。
 何も言えなくて、唇をまっすぐ引き絞る。
 頭上からは、湯気が立ち上ってるかも知れない。


「……!」


 あまりの熱に、りんごが一つ焼き上がってしまった。
 甘いそれは、心の準備を全くしていない私にとっては、あまりに甘すぎた。


「んごぉ……!」



おわり



387: 名無しさん 2019/02/19(火) 22:09:59.81 ID:eTYnncSBo

「っ……!」


 ドアを開け、歩を進める毎に強くなっていく異臭。
 これ以上進みたく無いとは思うが、そうも行かない。
 明らかに、プロジェクトルームに異変が起こっている。
 今は、その原因を確かめなければならないのだから。


「誰か……居ませんか?」


 そう呼びかけてみるものの、返事は無い。
 まさかとは思うが、用が済んだら行ってしまったのだろうか。
 だが、部屋にこもったこの臭いは、
危険物が未だこの部屋に存在している事を主張し続けていた。


「……」


 先ずは、窓を開けよう。
 粘性を感じる――いや、コレは気のせいか――空気の中、
革靴が立てる音を妙に耳に感じながら、窓へと向かう。
 当然、部屋の外に臭いが漏れないようドアは閉め、鍵をかけていた。


「……」


 窓を開けると、冬の肌寒い空気がピウと悪臭を切り裂いた。
 最近は乾燥しているので、部屋の換気をする機会も減っていた。
 良い機会だったのかも知れない、と……そう、自分に言い聞かせようとするが、
こんな事で与えられる機会は微塵も望んでいないので、考えるのをやめた。



「ひぇっくしゅん!!」



 くしゃみ。
 冷たい風が、この部屋に‘居た’彼女をくすぐったようだ。
 何かの間違いで合って欲しい。
 私の担当する彼女は、放つ言葉とは裏腹に、とても勤勉な一面が――



「……うぃ~」



 ――あ、はい。
 今の声は、私の脳裏に浮かんだ小柄な彼女のものと、完全に一致していた。
 よくよく考えてみれば、誰かが居たとして姿が見えないのはおかしい。
 可能性があるとすれば、どこかの椅子の下。


「……」


 彼女ととても仲の良い、別の担当アイドルの方の様に、
「プロデューサーシャワー」とでも言いながら飴を投げれば、姿を見せるだろうか。
 ……いや、やめておこう。
 この様な状況に、食べ物を関わらせるのは今後に影響する。


「……」


 そういえば、『ピーピーキャンディー』というものがあった。
 舐めた人に向かって、「ピーピー」と言うと強烈な腹痛に襲われて下痢になる、という物。
 あれは……何の漫画だっただろう。
 私は、爆心地を特定するべく部屋を歩き回りながら、そんな事を考えていた。

「……」


 願わくば、下痢ではありませんように、と。

388: 名無しさん 2019/02/19(火) 22:39:45.75 ID:eTYnncSBo

「……」


 居た。
 椅子の下から覗く、くくられた彼女の二房の髪の一方。
 その長い髪が、彼女がこの下に居る事を示している。
 そして、臭いが彼女の身に起きている事態を語ってくる。


「……」


 ソファーの下を覗き込むべく、片膝をついた。
 染みが床には広がって居なかったのと、
私の身長ではそうしないと確認が出来ないからだ。
 恐らく下痢では無かったのは、不幸中の幸いと言うべきか、
それとも、そんな事を幸せと感じてしまう己の不幸を嘆くべきか。


「大丈夫ですか?」


 声をかけながら、ゆっくりと頭を下げる。
 そして、私の目に飛び込んできたのは、



「すぅ……すぅ……」



 思わず頬が緩みそうになる、可愛らしい寝顔。
 年齢よりも幼く見える彼女は、



「すぅ……すぅ……」



 尻を出し、糞を出し、寝ていたのだ。


「……」


 彼女が気に入っているのか、
いつも履いている緩めのスパッツが途中までずり下ろされている。
 大事な部分は、シャツに隠れて見えていない。
 そのシャツの胸に書かれている一文が、私の胸を締め付ける。


「……」


 寝たふり……では、無いだろう。
 そして、スパッツが下ろされている事から寝糞の可能性も低い。
 彼女の性格を考えると、現実逃避も恐らく違う。
 ビニール袋やウェットティッシュを取りに行くべく立ち上がりつつ、思考する。


「……」


 恐らくだが――「……という夢を見たんだ」と、判断したのかも知れない。
 トイレではなく、ここで大をしてしまった。
 ……そんな、現実ではやらかさないような事をやってしまった。
 ならば、この状況は夢だと……目を背け、瞼を閉じたのだ。


「……」


 私も、そうしたい。
 だが、出来ない。
 私は彼女のプロデューサーであり、彼女は私の大切なアイドルだ。
 夢を見る彼女の手助けをするのは、プロデューサーの役目なのだから。

389: 名無しさん 2019/02/19(火) 23:10:40.22 ID:eTYnncSBo
  ・  ・  ・

「……」


 夢を現実にしたい。
 ……そう、思っていました。
 ですが、現実というものはそう甘くはなく、
ロマンチシズムは一切の容赦無いリアリズムの前で、こんなにも無力なのか。


「……!」


 彼女を起こさずに、事後処理を済ますのは……不可能です。
 Master+も全裸で逃げ出す程の、高難易度。
 夢を叶えるためには最低でも、


 ――床に出現したアイランドの処理。


 ――尻を綺麗にする。


「……」


 ……という二つの作業をこなさなければならない。
 それも、彼女を起す事無く、だ。
 私にそんな魔法が使えるかと問われれば、答えは否。
 そんな魔法が有るのならば、世界はもっと優しく在るだろう。


「……」


 何と、声をかけようか。
 こうやって躊躇している間にも、他の方がこの部屋に来る恐れがある。
 やはりここは、おはようございます、と言えば良いのだろうか?
 それとも、早急に問題の解決を促す文言から入れば良いのだろうか?



「ふわあぁ……あ、プロデューサーじゃんか……」



 一瞬で、思考の海から現実に引き上げられた。
 目を覚ました。
 未だ瞼は開ききっていないが、目覚めてしまった。
 そして、



「――!?」



 目が、見開かれた。
 焦点の合っていない大きな瞳が揺れている。
 彼女をそうさせたのは、漂う異臭か、尻の心地悪さか。
 そのどちらにせよ、事態は動き出した。



「……んー……あと十分位寝かせて~」



 ……かに思われたが、彼女は再び瞼を閉じた。
 自らの腕を枕とし、反対の腕を顔に被せて。


「あの……待ってください……!」


 彼女は、私に言外に願い出たのだ。
 ……夢を見させてくれ、と。
 働いたら負けとは、こういう状況の事を言うのだろうか。

391: 名無しさん 2019/02/19(火) 23:56:02.36 ID:eTYnncSBo
  ・  ・  ・

「……そんな所で寝ていては、風邪を引いてしまいます」


 努めて冷静に、彼女に声をかけた。
 彼女に与えられた猶予は十分だったが、処理は一分で済ませた。
 兵は神速を尊ぶ。
 グズグズしていては、何が起きるかわかったものではない。


「起きてください」


 最初の五秒で、彼女の体を隠していたソファーを力任せに持ち上げ、どかした。
 次の十秒で、床に落ちていた便をウェットティッシュでくるみ、ビニール袋へ。
 固形だったために、五秒で床は綺麗に拭き終わったが……後で、もう一度確認しよう。
 そして、二十秒悩み、


「……うーい」


 五秒で、そこそこのな量のウェットティッシュを発射口を覆う様に尻に被せた。
 残った時間で、ずり下げられていたスパッツをはかせ、ソファーを元に戻した。
 私はプロデューサーで、彼女はアイドルだ。
 大をした後の尻を拭くのは、スキンシップ過剰を通り越し、最早介護の域に達する。


「……んー」


 いくらメーデーメーデーと言われても、そこまでの手助けは出来ない。
 ……すみませんが、その位はご自分で何とかしてください。
 濡れたウェットティッシュがスパッツによってピッタリと尻に張り付いているせいで、
彼女は不快感を感じて眉をしかめているのだろう。


「……」


 そんな彼女の表情を見た私は、ため息をこらえるのに必死だった。
 それは、ため息を吐いた分、息を吸い込まなければいけなくなるからだ。
 幸せが逃げていくのを恐れてではなく、臭いを吸い込まないため。
 体が小さく量は少ないものの、食生活や生活リズムに乱れがある分、強烈なのだ。



「――もうちょい寝てて良いんじゃない?」



 ……えっ?


「えっ? あ、あの! 目を閉じないでください!」


 彼女は、何を言っているのだろう。
 まさか、本当に色々と面倒になって……また、眠る気なのか!?
 待ってください! お願いします!


「……なんちゃって、だってば」


 そう言いながら、彼女はモソモソとソファーの下から這い出てきた。
 たちの悪い冗談だと責める気持ちよりも、安堵の方が圧倒的に上回った。
 ほっと胸を撫で下ろし、息を吐く、吸う、臭い。


 部屋の外……恐らく、トイレに向かう彼女の小さな背を見ながら、思う。
 せめて、私の手に握られているスペクタクルな風呂敷を持って行って欲しい、と。
 ガサリと音を立てるビニール袋の重みが、右手を首筋にやるのを止めた。
 ほんの少しだけ、働きたくないという想いが、溢れそうになった。




おわり

537: 名無しさん 2019/02/27(水) 22:20:45.48 ID:jhyS+5wYo

「あら?」


 向こうから、彼が歩いてくるのが見えた。
 鞄を片手に、真っ直ぐ背を伸ばして。
 向こうも私に気づいたのか、視線が合う。
 だから私は、いつもの様に笑顔で、


「おはようございます」


 挨拶。
 正門の所で立ち止まっていた私の前で、彼も立ち止まる。
 そして、


「おはよう、ございます」


 挨拶。
 いつも通りの低い声。
 いつも通りのやり取り。


「……」


 特に話す事も無いけれど、一緒に。
 並んで、玄関ホールの扉へと向かう。
 何となく、チラリと横目で彼を見る。
 私も背が高いけれど、彼は男性でも大柄な人。


「……」


 自然と見上げる形になるのが、ちょっぴり新鮮。
 だからか、


「ふふっ」


 笑い声が漏れた。


「あの、何か?」


 彼が、そんな私に視線を向ける。
 最近では、随分と表情が柔らかくなりましたよね。
 これはきっと、あの子達のおかげなんじゃないかしら。


「いいえ、何でも」


 澄まし顔で前を向き、歩を進める。
 彼は、右手を首筋にちょっとだけやって、前を向く。
 そんな彼をチラリと横目でもう一度見る。


「……」


 時計の針は進んで、変わらないものは無い。
 けれど、変わらないものもある。
 そうね……例えば、


「……うふふっ」


 彼、寝癖がいつも立ってるの。
 とっても誠実で、真面目な人なのに。
 おかしくて笑っちゃうのは、しょうがないと思いません?
 いつになったら気付くのか、それは私の些細な楽しみの一つ。

538: 名無しさん 2019/02/27(水) 22:58:14.73 ID:jhyS+5wYo

「あら?」


 大きな扉が開いて中に入ると、あるものが目に飛び込んできた。
 それは、玄関ホールの脇。
 普段、何も置かれていない場所に飾られていた。


「あれは……」


 彼も、それに目を取られたのか、少しだけ歩いて立ち止まった。
 ……あっ、そうですね。
 此処で立ち止まってたら、邪魔になっちゃいますね。
 少しだけ足早に、彼の隣まで歩いていく。


「ふふっ! とっても可愛いですね」


 飾られていたのは、とても立派なお雛様。
 そして、それを彩るのは色とりどりの――折り紙の花。
 桃の花のピンクだけじゃなく、白や黄色と……本当に沢山。
 確か、年少組の子達が、一生懸命折っていたのを見た気がする。


「はい。皆さん、頑張っていましたから」


 彼も、同じ事を思い出していたみたい。
 花飾りに注がれる視線が、とても穏やか。
 それを見て、私も優しい気持ちになる。
 ほんの少しだけ、二人で無言。


「……自分は、専務は反対なさると思っていました」


 なんて、彼がポツリと呟いた。
 確かに、来たばかりの頃のあの人だったら、不要と切り捨ててたと思います。
 ……だけど、やっぱり時計の針は進んでいる。
 貴方と、プロジェクトの子達がその針を進めたんでしょう?


「けれど……女の子には、重要な事です」


 ひな祭りは、女の子の成長と健康を祝う日。
 そういった行事って、大切ですから。
 アメリカの研修では習わなかったでしょうけれど。


「女の子、ですか」


 そう言いながら、彼が私を見た。
 彼の事だから、深い意味は無いのかも知れない。
 だから私は、


「はーい、女の子でーす♪」


 と、思いっきり彼に笑いかけた。
 そうしたら……ふふっ!


「す、すみません……! そういった意味では……!」


 面白いように慌てちゃうんですもの。
 それがおかしくって……意地悪な顔を見られないよう、プイと顔をそらして。


「意味? 何の意味ですか?」


 と、質問する。
 普段無表情な彼が、今どんな顔をしているかは、見なくてもわかる。

539: 名無しさん 2019/02/27(水) 23:20:18.21 ID:jhyS+5wYo

「……」


 笑いをこらえながら、目だけで彼を見てみる。


「……!」


 右手を首筋にやって、必死で何を言おうか考えてる。
 けれど、あんまりからかっちゃかわいそうよね。
 それに、そろそろ限界。


「……っふふっ!」


 ええ、私が。
 左手の指を口元に添えて、大笑いをしないようにする。
 そうでもしないと、ね?
 今向けられてる彼の視線に、更に笑わされそうだもの。


「はぁ……それじゃあ、ここで……うふふっ!」


 こらえたつもりが、失敗しちゃった。


「……はい、ここで」


 いつもより低い声。
 でも、重苦しくは、無い。
 言葉とため息の中間のような、挨拶と笑い声を合わせたような。
 そんな、優しい声。


「……」


 少しだけ、雛飾りに目を向けて。
 私達は、歩き出した。



「「んっ」」



 同じ、方向へ。
 いつもだったらここで別れるんだけれど、
今日は、たまたま二人共二階に用があるみたい。
 二人して、玄関ホール正面の階段に、一歩、二歩、


「――うふふっ!」


 三歩目で、また、こらえきれなくなった。
 ……ああ、おかしい!
 貴方も、そう思いませんか?


「……!」


 彼は、右手を首筋――じゃなく、口元に当てていた。
 ほっぺたが少し上がって、耐えるためか、眉間に皺が寄っている。
 なんて不器用な大笑い。


「ふふっ! 階段で用があるのは、何階だん? うふふっ!」


 彼は、ゴホンと咳払いをし、いつもの調子を取り戻したみたい。
 もうっ、あとちょっとで見たことの無い表情が見られるかと思ったのに。

540: 名無しさん 2019/02/27(水) 23:52:46.79 ID:jhyS+5wYo
  ・  ・  ・

「雛祭り、は、暇な率、が高いんです」


 彼と一緒に階段を登りながら、再チャレンジ。
 あ、今言ったのは本当の事ですよ。
 どうしても、この時期になると年少組の子が忙しくなりますから。
 前、白酒を飲みすぎたのは……関係、あるのかしら?


「では……今度こそ、ここで」


 いつの間にか、階段の分かれ道。
 彼は、左へ。
 私は、右へ。
 それぞれ、違う方向へ。


「はい。それじゃあ、また」
「ええ、また」


 軽く頭を下げて、背を向け合う。


「……」


 分かれ道の、最初の一段目。
 そこに足をかけて、何気なく下を見る。
 見えたのは――お雛様。
 真っ赤なひな壇の上に、ちょこんと座ってる。


「……」


 階段にかけた足を下ろし、後ろを振り向く。
 その勢いのまま、少しだけ早足で、忍び足。
 真っ赤な深い絨毯が、私の足音を消してくれる。
 丁度良いタイミングで、追いついた。


「あの、何か?」


 私に気付いた彼が、不思議そうな顔でこちらを見た。
 ええ、と……あっ、こっち側ね。
 階下を確認して、立ち位置を入れ替える。


「……ふふっ!」


 彼は、右側。
 私は、左側。
 真っ赤な敷物の上で、あの子達は座ってる。
 でも、私達は階段を登っていくから、座ってはいられない。


「すみません……これに、何の意味が?」


 彼は、右手を首筋にやって困ってる。


「答えは、女の子でーす♪」


 そう言って笑いかけたら、彼はますます不思議そうな顔をした。


「うふふっ♪」




おわり

736: 名無しさん 2019/03/06(水) 22:19:57.71 ID:+dNDfx6co

「……」


 ソファーに寝転がり、薄目を開けて観察中。
 観察対象は、あたしの視線に気付いてない。
 一見おっかな~い顔は、PCの画面とにらめっこ。
 たまに負けて、口元が綻んでるのをあたしは見逃さない。


「……」


 聞こえてくる、キーボードを叩く音。
 ノートPCのキーボードがタスタスと鳴っている。
 いつもよりも音が控えめなのは、あたしが寝てると思ってるから?
 ざ~んね~ん! それは要らぬ気遣いなのでーす♪


「……ふぅ」


 一段落ついたのか、息が吐き出された。
 今は、11時丁度。
 キミは、これからどうするのかな?
 今までと同じなら、志希ちゃんはスリープモードに移行しまーす。


「……んっ」


 右手を首筋にやって、首を軽く左右に。
 硬直した筋肉をほぐす動作。
 そして、その流れのまま右手を左の首筋にあて、押している。
 ふむふむ、お疲れモードみたいだね~。


「……」


 視線があたしに向けられた。
 でも残念、今のあたしは観察と睡眠の中間。
 起きてるとは、とても言えないような状態なんだよね~。
 だから、キミはあたしが起きてることに気付け無い。


「……」


 向けられていた視線が、またデスクの上のPCに戻った。
 さっきまでの疲れた顔は、もう見えない。
 たったあれだけの動作で疲労が取れるなんて事は有り得ない。
 そして、あたしは見逃さなかった。


「……」


 あたしを見て、微かに微笑んだのを。
 ……うーん、参ったなー。
 志希ちゃんの寝顔が、キミのカンフル剤になっちゃったみたいだねー、にゃははは!
 ……はぁ。



「んーっ……よく寝た~……!」



 言いながら、ソファーの上でグーッと伸びをする。
 同じ体勢で居たから、あたしの筋肉も少し硬くなっていた。
 収縮していた筋肉が伸び、ピリリと微かに痛みが走る。
 そういえば、いつからここで寝転がってたんだっけ?


「……おはよう、ございます」


 低い声が、未だソファーにつっぷし続けるあたしにかけられた。
 あ、昨日は帰るのが面倒でここで寝ちゃってたんだった。

737: 名無しさん 2019/03/06(水) 23:06:45.85 ID:+dNDfx6co

「おはよう。そして、こんにちはー」


 寝転がったまま、右手をヒラヒラと振る。
 振って、振って、パタンッ。
 体勢を変えて、さっきよりも寝やすいように。
 このまま二度寝も、悪くな~い。


「からの、おやすみなさ~い」


 ゴロニャンと、猫みたいに丸まる。
 それを見て、向けられた目が、少し慌てた。
 んふふ、ジョーダンジョーダン!
 お腹も空いちゃったしねん♪


「疲れ、たまってるみたいだねー?」


 あたしの仮説によると、原因の一つはあたし!
 朝出勤して、ソファーにアイドルが寝ていたら!
 ……記憶には残っていない、毛布を肩まで引き上げる。
 これをかけたのが誰なのか、はたまた天からの贈り物か。


「いえ、問題ありません」


 なんて言ってるけど、ちょっとヒョージョーが強張った。
 さっきのを見られたのかと、気にしてるのかな。
 けれど、そう言ったのは、見られてても気にさせないようにかな?
 まあ、どちらにせよ、そして、どちらでも結果は変わらない。


「皆さんの、笑顔のためですから」


 ……んだよね、キミにとっては。
 だから、キョーミがある。
 良い匂いもするから、いい人だってのはわかるんだけどねー。
 あ、食べるのが好きって言うのは匂いで把握済み~♪


「そんなお疲れなアナタに、よく効きすぎるお薬が~♪」


 そう言うと、


「……ありがとうございます。ですが、お気持ちだけで」


 イヤ~ン、つれない返事♪ なんて、わかってたけどねん。
 ジョーダンに、真面目に返してくるのがおかしくて、んふふと笑いが溢れた。
 そんなあたしに向けられた、呆れ顔。
 その口の端が、ほんの少しだけ上がっているのに釣られて、



「――じゃあ、肩でも揉んであげよっか?」



 あんまりにも、あたしらしくない言葉が口から飛び出た。
 驚いたのか、向けられた視線が変化した。
 さっきまであたしが観察してたのに……今は、逆。
 あたしは観察され、その結果として、


「では……お願い出来ますか?」


 予想外の返事が、返ってきた。
 キミがそんな返しをするだなんて、誰にも予想は出来ないだろうね~。
 そして、それを聞いたあたしがパッと起き上がったのは、もっと予想出来ないよね。
 ……だって、あたしにも理由がワカラナイんだから。

738: 名無しさん 2019/03/06(水) 23:35:50.42 ID:+dNDfx6co
  ・  ・  ・

「……」


 座ってた椅子は、背もたれが大きく邪魔になるので、
ソファーの方に移動して貰った。
 今、あたしの目の前には、大きな背中と……あ、寝癖。
 にゃはは、さっきまで寝てたあたしも寝癖がついてるから、お揃いだね~♪


「……」


 ハスハス……うん、いい匂い!
 じゃなくて、マッサージマッサージ。


「……」


 そっと、手を伸ばす。
 肩を揉みやすいようにと、スーツの上着は脱がれていて、
白いワイシャツが窓から差し込んでくる光を反射している。
 あたしは、この光景に覚えがある。


「それじゃあ、始めよ~う♪」


 勿論、相手は違う。
 あたしの記憶の中の背中は、あたしが自由でいられる所――パパの背中。
 パパ……ダッド。
 ……にゃはは、身長差があるからそんな錯覚が起きるのかな?


「おおっ、お客サンこってますね~!」


 グッ、グッと親指を軽く押し込む。
 カチカチになった僧帽筋をほぐすように、強くしすぎず。
 本当は、ストレッチをした方が効果が高いんだよね。
 ……でも、


「そう……っですか……?」


 あたしは、それを言わない。
 黙秘権をシュチョーしま~す♪
 ……でも、その代りに念入りに。
 じゃないと、クジョーが来ちゃうかも知れないでしょ?


「かゆい所はありませんか~?」


 右の人差し指で、寝癖をペチペチと弾きながら言う。


「いえ、それはありませんが……」
「はいは~い♪ では、続けますね~♪」


 息が上がらないように、丁寧に。
 あたしが疲れた様子を見せたら、それで即終了だから。
 ――もう大丈夫、ありがとう。
 ……って、そんな風に。


「……!」


 今のあたしは、小さい頃に比べて力も強くなった。
 闇雲に、力任せにグイグイ押すだけじゃないのデース♪
 でも、その代わり、


「これは……中々手強い……!」

739: 名無しさん 2019/03/07(木) 00:15:55.24 ID:QTJy8Yroo
  ・  ・  ・

「――ありがとうございます。お陰様で、随分楽になりました」


 ソファーから立ち上がって、言われた。
 あたしとしては、まだヨユー……でも無かったけど、
もうちょっとだけやっても良いかにゃ~、なんて思ってたんだよね。
 思ってただけで、手はお疲れだけど。


「……」


 ジーッと見つめる。
 心を見透かすように。
 余計なものは、全部取り払って。


「では、それを言葉じゃなく、態度で示しましょーう♪」


 両手を後ろに回して、腰を曲げる。
 でも、足はピンと伸ばしてダンスに誘うようで、無抵抗。
 高さ的には、この位がベストかな?
 上目遣いで、ジーッと見つめる。


「いえ、あの……!」


 案の定、右手を首筋にやって困ってる。


「……」


 あたしは、今、どんな顔をしてるのかな。
 多分だけど、肩を揉もうかと提案した時と同じ顔だよね。
 そこでクエスチョン。


 ――キミは、まともでいられるかな?


「……失礼、します」


 一度、二度。
 大きな手の平が包み込むような形で軽く触れ、離れていった。


「……んっふふっ!」


 それだけで、頑張った甲斐があると思える。
 本当、フシギだよね~。
 レアだから、等価交換に思えるのかな?
 何にせよ――


「――頑張ったら、お腹空いたにゃ~♪」


 上体を起こし、トン、トンと後ろに下がってデスクに体を預けた。
 あたしの言いたいこと、わかるでしょ?


「……ハンバーグで、良いでしょうか?」


 その問、答えは笑顔。


 さあ! デミグラスソースの匂いで、お揃いになろ~う!




おわり

884: 名無しさん 2019/03/11(月) 21:36:12.48 ID:vwvkyAJfo

「はぁ……」


 長い廊下を歩きながら、ため息を吐く。
 いつもの戯れだとはわかっていても、私にも感情はある。
 だが、お嬢さまの命に背く事は有り得ない。
 例えそれが、指定された場所へ行く、というだけのものであっても。


「……」


 指定されていたのは、この部屋……会議室だろう。
 中に誰が居るのかはわからないし、関係の無い事だ。
 何故なら、考える必要が無いから。
 コンコン、とノックをし、反応を待つ。



「――どうぞ」



 どうやら、誰も居ない部屋からの返事を待つ羽目にはならなかったらしい。
 その可能性が、全く無いとは言い切れなかったからだ。
 お嬢さまは、気まぐれに私に対して無茶振りをする事がある。
 さて、今回はどういったものなのやら……。


「失礼します」


 ドアを開け、室内に。
 果たしてそこは会議室であったようで、奥には会議机が置かれていた。
 その会議机から品定めされるようにして、椅子が五脚並んでいる。
 これは、何か意図がある配置なのだろうか。



「――何か?」



 私が無言で居続けたからか、問いかけられた。
 しかし、問われた所で、返す答えを私は持たない。


「はぁ……聞きたいのは、私の方なのですが」


 また、ため息が出てしまった――


 ――次の瞬間、



「君は、何だ?」



 空気が、重くなった。


「っ……!」


 思い当たる理由は、一つしかない。
 会議室に居た、



「もう一度聞く。君は、何だ?」



 灰色のスーツに身を包み、長い黒髪を後ろで束ねた長身の女。
 その女の放つ眼光が、真っ直ぐに私を射抜いているからだった。

885: 名無しさん 2019/03/11(月) 22:10:06.65 ID:vwvkyAJfo

「それに……何故、此処に居る?」



 会議室に、声が響く。
 その声に……空気に、圧されそうになる。
 しかし、お嬢さまはそれを望まないだろう。
 私も、そう簡単に怖気づくようには出来ていない。


「……お嬢さまより、此処へ行けと言われました」


 努めて冷静に、言葉を返す。


「だから来た……それだけです」


 それを聞いた女は、一言――そうか、と言った後、



「ならば、私は君に用は無い。出て行きなさい」



 と、私から視線を外して椅子に座ると、
置かれていたのだろう資料に目を通し始めた。
 先程から漂っていた重苦しい空気は、まるで感じない。
 それ所か――


 ――私が、まるで此処に居ないかの様に、女は振る舞っている。


「……!」


 お前は、何だ?
 一体、何の権限があって私に命令をしている。
 私は、お嬢さまに命じられて此処に来た。
 私とて、お前に用があった訳では無い!



「……聞こえなかったのか?」



 女は、手元の資料から目を離すことなく言った。
 私の相手などしている暇は無いと言わんばかりに。



「……もう一度言う。出て行きなさい」



 女の視線が、再度私を射抜く。



「此処は、君の様な者が居て良い場所では無い」



 視線に込められた感情は、好意的とはまるで真逆。
 敵意とも取れるそれを向けられ、思わず半歩下がった……下がって、しまった。
 だが、このまま引き下がるわけには行かない。


「……!」


 私は、下がらされてしまった足を……逆に、半歩踏み出した。

886: 名無しさん 2019/03/11(月) 22:42:00.83 ID:vwvkyAJfo

「私が此処に居てはならない理由を説明して貰いたい」


 この状況も、お嬢さまの戯れの一つなのだろうか。
 だとしたら、帰り次第申し上げなければ。
 今回の様な戯れは、今後はご遠慮願いたい、と。
 何度も不愉快な思いをさせられるのは、私とて御免ですから。



「何故だ?」



 女が、眉をしかめた。



「私が、そうする理由がどこにある?」



 不機嫌そうに首を傾けた拍子に、エメラルドのイヤリングが揺れた。
 私が何か答えを返すか、それとも、大人しく退室するか。
 どちらかをしない限り、女の機嫌が直る事は無いだろう。
 ならば、私の取るべき選択肢は一つだけ。


「私が、何を求められているかを知る必要があるからです」


 本心を言えば、今すぐにでも帰りたくはある。
 だが、お嬢さまはそうする事を望まないだろう。



「それは、君が『お嬢さま』に命じられているからか?」



 そうだ。



「……ふん、程度が知れるな」



 ……何?


「おい、お前……」


 今の、「程度が知れる」という言葉。
 その言葉は、お嬢さまに対する侮辱だな?
 お前如きが、何を理解している。
 お嬢様は――



「礼儀も知らない子供に、その躾も満足に出来ない主、か」



 ――……っ!?



「この城には、相応しくない。それが理由だ」



 女は、もう顔を上げる気は無いだろう。



「出て行きなさい。私は、あまり気が長い方ではない」

887: 名無しさん 2019/03/11(月) 23:16:53.79 ID:vwvkyAJfo
  ・  ・  ・

「……」


 結局、何も言い返す事が出来なかった。
 あの女の言い分が正しいと、理解してしまったから。


「……」


 正門を通り抜け、後ろを振り返った。
 そして、建物正面の天辺にある時計を確認する。
 時間にして、およそ十五分。
 それが、私が此処に足を踏み入れて、おめおめと逃げ帰るまでの時間だった。


「……」


 ――346プロダクション。


 視線を落とした先には、その文字が刻まれていた。
 私は、此処がどんな場所なのかも知らず……知っておこうとすら、していなかった。


「……」


 ……例えば。
 もし、お嬢様の元へ見ず知らずの者が現れ、


 ――命じられて此処へ来た。
 ――説明して貰いたい。


 等と言えば、


「……この城には、相応しくない」


 と、私も断じていただろう。
 むしろ、あの女の態度は、寛容だったとすら言える。
 年齢は定かでは無いが、私よりも一回りは確実に歳を重ねている。
 そんな大人に対して、取るべき態度では……無かった。


「……」


 此処は、私が守りたいと思う城では無い。
 しかし、だからこそ、‘わきまえなければ’ならなかったのだ。
 私は、お嬢様に仕える身。
 今回の私の失態は、お嬢様に不利益をもたらす可能性がある。


「……」


 お優しいお嬢様は、そうなったとしても笑って許してくださるだろう。
 だが、そうやって許されているだけの私を……


 ……私は、許さない。


「……」


 踵を返し、今は、背を向けて歩き出す。
 帰ったら、お嬢様に許しを請わなくては。


 失態と、次なる機会を。

888: 名無しさん 2019/03/11(月) 23:46:27.82 ID:vwvkyAJfo
  ・  ・  ・

「……ふぅ」


 会議室のドアの前に立ち、軽く息を吐いて呼吸を整える。
 中に誰が居るのかはわかっているし、大いに関係があった。
 何故なら、考えさせられたから。
 コンコン、とノックをし、反応を待つ。



「――どうぞ」



 あの女の声では、無かった。
 あの女の他に、何人かの人間が居るのはわかっていた。
 此処は、オーディション会場。
 346プロダクションに所属し――アイドルを目指す者が集う場所。


「失礼します」


 ドアを開け、室内に。
 前回と同じ様に、奥には会議机が置かれていた。
 その会議机に座る人物達から品定めされるために置かれた椅子は、一脚。
 今回のオーディションは、一人ずつの形式だった。


「……」


 口を開きかけた男性を……女は、無言のまま手で制した。
 そして、



「君は、何だ?」



 あの時と同じ様に、問いかけてきた。
 オーディションを受ける他の者とは違う反応だったのだろう。
 横に座る男性が、女の態度に不審げな視線を送っている。
 しかし、私の取るべき選択肢は一つだけ。



「白雪千夜と申します。以後、お見知りおきを」



 お嬢様に仕える者として、恥じぬよう、侮られぬよう。
 完璧な所作でもって、挨拶をする。


「ふむ……良いでしょう」


 当然です。
 お前が誰かは知らないが、この間とは訳が違う。
 今回は、言われるがままに此処に来たのではありません。
 私は今、己の矜持を賭けて此処に立っているのですから。



「専務の美城です。では、オーディションを始めましょう」



 女――専務は、口の端を釣り上げ、宣言した。





おわり