536: 名無しさん 2019/07/14(日) 22:31:29.99 ID:rrrJR14vo

「……」 


 学校から帰って、仕事用のバッグに持ち替えて。 
 玄関で靴を履き、視線が止まる。 
 止まったその先は、傘立て。 
 今日の予報では、夕方から雨が降るらしかったからです。 


「……」 


 傘立てには、何本もの傘が立てられています。 
 お父さんもお母さんの、少し困った癖。 
 予想していない雨に降られた時、ビニール傘じゃなく、ちょっと良い傘を買うんです。 
 結果、我が家の傘立ては……とても、賑やかになっています。 


「……」 


 折り畳みの傘だと濡れてしまう程降ったから、だとは思います。 
 大人にとっては、確かに手狭に感じるサイズですから。 
 だけど、やっぱり使われない傘が出てきてしまっています。 
 私は、そんな傘達から、目を離せずにいました。 


「……」 


 最初に手にとったのは、いつも私が使っている傘。 
 水色の、子供用。 
 だけど、私が傘立てから引き抜いたのは、別の傘。 
 ネイビーブルーの、大人用。

引用元: ・武内P「ラッキースケベです」

537: 名無しさん 2019/07/14(日) 22:53:01.59 ID:rrrJR14vo

「……よし、と」


 玄関を出て、しっかりと鍵をかけたか確認します。
 これをやるのは、朝学校へ行く時と、夕方プロダクションへ行く時の二回。
 当然、それ以外にもありますが、基本的にはその二回です。
 小学生とアイドルの、切り替えをしている気分ですね。


「あ」


 学校から帰る時から、もう曇り空ではありました。
 地面を見ると、水滴がポツポツとアスファルトを濡らしていっています。
 雨が、降り出しました。
 私が駅のホームにつくまで待ってくれたら、なんて言っても仕方ありませんね。


「ん」


 傘を開くべく、バンドの部分に手をやって、一瞬。
 指先に触れた茶色いボタンを見て、この傘を選んで正解だったと思いました。
 マジックテープも、とっても便利だとは思います。
 だけど、こういう小さな所に、私は「大人」を感じます。


「よいしょ」


 開く時も、ワンタッチではありません。
 大きな傘の持ち手を左手で抑え、右手をグッと押し込んで傘を広げます。
 開いた傘を手に持って――わ、重い……これで良し。
 傘を肩に担ぐのは少し子供っぽいですが、アンブレラタチバナ、出勤します。

539: 名無しさん 2019/07/14(日) 23:09:40.43 ID:rrrJR14vo
  ・  ・  ・

「……ふぅ」


 駅の構内、雨が降り込んで来ない所まで進み、一息つきます。
 始めは、とても良い感じでした。
 何せ、いつも使ってる傘よりもかなり大きい訳ですから。
 雨の日にちょっとやそっとじゃ濡れないというのは、それだけで快適だと思います。


「……」


 失敗の原因は、私自身にあります。
 傘を真っ直ぐ立てて持つのが、大人っぽくて格好良い。
 そんな風には、いつも思っていました。
 なので、挑戦し……あえなく返り討ちにあいました。


「……よい、しょ」


 バランスをとって、このまま行けると思った時、風が吹きました。
 肩に担いでいたら、なんてことはなかった風。
 でも、そんな風にすら負けてしまう程度には、この傘は私の手に余る物でした。
 現に、今もこうして畳むだけでも大変な思いをしています。


「ん……これ、で……」


 よし。
 畳んだ傘のバンドのボタンを留めただけだと、傘の真ん中が膨らんでいました。
 だから、指で引っ張ってピシッと綺麗に形を整えました。
 アイドルなら、持ち物の細かい部分の見た目にも気を遣えないと。

540: 名無しさん 2019/07/14(日) 23:27:11.80 ID:rrrJR14vo
  ・  ・  ・

「……」


 改札をくぐり、エスカレーターに乗って駅のホームへ。
 雨だから滑らないよう、しっかりと手すりを掴んで。
 傘が大きくてどうしようと思いましたが、持ち手のもっと先を掴む事にしました。
 落っことしたら危ないですし……手が、ビショビショになりましたけど。


「……」


 電車を待ってる間に、ハンカチで手を拭きたいと思いました。
 でも、どうしても傘がその存在を主張してきます。
 腕に引っ掛けておくのは名案だと思いましたが、
ハンカチを出す時にどうしても床に触れてしまってカチャカチャ音が出るので、却下。


「……」


 私が尊敬する人達だったら、そうはしないと思ったからです。
 だって、変に音を出すのは格好悪いですし、それに、
動く腕に合わせて傘が動いて危ないじゃないですか。
 そうして迷っている間に、電車が来て……良いです、どうせ乾きますから。



「――あっ」



 ホームに停車するため、ゆっくり走っている電車の窓から。
 私の知っている人の姿が見えました。
 その人が乗っている車両は、私が乗り込む予定だった車両の、一つ隣。

541: 名無しさん 2019/07/14(日) 23:40:02.51 ID:rrrJR14vo

「……」


 見間違え無いと思います。
 でも、どうしよう。
 ……なんて、考えているのも束の間。
 停車した電車のドアが、プシュウと音を立てて開きました。


「……」


 私は、あの人に気付きました。
 だけど、あの人が私に気付いていたとは限りません。


「……」


 考えた結果、私はほんのちょっとだけ早歩きをして、隣の車両のドアへ。
 電車に乗り込む時、気づかない内に引きずっていた傘が、
電車とホームの隙間に当たってパチンと音を立てて跳ねました。
 ちょっとビックリしましたが、落としたりなんかはしません。



「おはようございます」



 電車内だからか、頷くような仕草をしながら、挨拶をされました。
 だから私も、



「おはようございます」



 それを真似て、しっかりと挨拶を返しました。
 ……気付いてて、くれたみたいです。

542: 名無しさん 2019/07/15(月) 00:01:58.00 ID:FEMhkyywo

「もう、降り出しましたか」


 電車の座席と座席の間にある、高い吊り革。
 私では手の届かないそれに手をかけなおしながら、言われました。
 多分、これは私に気を遣ってくれているんだと思います。
 電車の中からでも、雨が降っているのはわかっていたでしょうから。


「はい。でも、あまり強くは無いです」


 この人は、あまりコミュニケーションが得意では無い、らしいです。
 お仕事で一緒になった時、この人が担当しているアイドルの人に色々聞きました。
 でも、優しい人だ、って。
 ……その前に、顔は怖いけど、って前置きがあったのは、内緒です。



「……――どうぞ、使って下さい」



 上着のポケットから取り出された、水色のハンカチ。
 低い声と一緒に差し出されたそれを見ながら、私は困ってしまいました。
 一方の手は入り口横のバー、反対の手は傘を持っていたからです。
 これじゃ、受け取るに受け取れません。


「傘は、私が持っていますから」


 そう言いながら突き出されたのは、薬指と小指。
 ハンカチは、残った三本の指に収まっていました。

544: 名無しさん 2019/07/15(月) 00:20:51.22 ID:FEMhkyywo

「あ、はい……!」


 ガタンゴトンと揺れる、雨で床が濡れた電車内。
 片手には鞄を持っているので、反対の手はどこかを掴まないと危ないです。
 だから、すぐに傘を渡してハンカチを受け取らなきゃと思い、傘を差し出しました。
 すると、


「お預かりしておきます」


 大きな手の薬指と小指だけで、軽々と傘を。
 私が指の全部を使って持つのよりも、安定しているように見えました。
 それにちょっと驚きながら、ハンカチを受け取ります。
 これも、普段私が使っているのよりも、ずっと大きいハンカチです。


「……」


 渡した傘は、そのまま右手に居続ける事無く、左手に。
 鞄の持ち手と一緒に、危なげなく収まりました。
 私の手だと、どっちかを持つだけで精一杯だと思います。
 そうして、役目を果たしたと言わんばかりに、右手は吊り革に帰っていきました。


「あ……ありがとう、ございます」


 その動作は、とても自然で……大人っぽく見えて。
 ハッキリと言いたかった感謝の言葉が、どうしても小さくなってしまいました。

545: 名無しさん 2019/07/15(月) 00:37:56.41 ID:FEMhkyywo
  ・  ・  ・

「あの……」


 手と――軽く髪を拭き終わったハンカチ。
 私は大丈夫だと言ったんです。
 それなのに、風邪をひくといけないから、って……受け取ってくれなくて。
 兎に角、借りたハンカチを返すべく、差し出しました。


「すみません、降りてからでも?」


 言われて、目線の先を追ってみると、次の停車駅が表示されていました。
 次の駅は、346プロダクションの最寄り駅。
 気づかない内に、もうすぐ着く所まで来てたなんて。


「停車近くになると、危ないですから」


 ほんの少しだけ、吊り革を揺らして。
 そう言われてしまったら、私からは、何も言えなくなってしまいます。
 電車内ですから、他の乗客の人も居ます。
 私に出来る事と言ったら、


「はい……」


 電車を降りた後。
 ハンカチを貸してくれたお礼と、ずっと傘を持っていてくれたお礼。
 どっちを先に言うべきかを考えること位でした。

548: 名無しさん 2019/07/15(月) 01:01:58.95 ID:FEMhkyywo
  ・  ・  ・

「まだ……・降っていますね」


 電車から駅のホームに降りて、空を見上げて。
 私が何かを言う前に、低い声が雨音に消される事なく届いてきました。
 そこで、ふと気付きました。


「傘、持ってないんですか?」


 そんな私の、口をついて出た質問。


「いえ、大丈夫です」


 右手を首筋にやって、一旦言葉が途切れました。
 その言葉の続きを待っている間に、鞄の横から取り出されたのは――折り畳み傘。
 広げたらどの位の大きさになるのかわかりません。
 でも、大人でも大柄なこの人にとっては、ちょっと頼りなさげに見えます。


「……」


 左手に鞄と一緒に持たれている、ネイビーブルーの大きな傘。
 右手に持たれている、黒い小さな折り畳み傘。



「あの……良ければ――!」



 傘を持ってくれたお礼は、傘で。
 ハンカチを貸してくれたお礼は、この人が濡れないように。

549: 名無しさん 2019/07/15(月) 01:30:28.89 ID:FEMhkyywo
  ・  ・  ・

「……」


 手に持っている傘は、とっても軽いです。
 大きさも、この位の雨だったら全然濡れずに済む位はあります。
 私にとっては、丁度良いです。
 それに、


「……」


 私が持っていた傘は、この人には丁度良かったみたいです。
 隣を歩く姿を傘をちょっと傾け、見上げて確認。
 折り畳み傘だと、傘を手に持ってるのと反対の肩が濡れてたかも。
 我ながら、良い提案だったと思います。


「……~♪」


 それに機嫌を良くして、傘をクルッと回し――そうになったけど、我慢。
 あまりにも子供っぽいし、水しぶきが飛んじゃいますから。


「……」


 無理に背伸びをするのは、良い事じゃないと思ってました。
 でも、背伸びをしてなきゃ、こうはなってませんでした。


「~♪」


 パチャン、と。
 長靴で水たまりを渡っていく、私の足取り。
 それは、大人の女性には無い。
 子供ならではの軽やかさがあるって思える、雨の日でした。



おわり

563: 名無しさん 2019/07/15(月) 22:23:38.75 ID:FEMhkyywo

「っしゃあ! いくぞオラァ!」


 腕相撲。
 腕の力を競う遊びの一種であるが、互いの力を確かめ合うための儀式にも用いられる。
 私の眼前で瞳を爛々と輝かせている彼女が求めているのは、後者。
 何度も丁重にお断りしたのだが、結局聞き入れては貰えなかった。


「……はい」


 彼女が促すまま立ち上がり、右の肘をデスクに着け、構えた。
 それを見て、口の端を釣り上げて獰猛な笑みを浮かべる彼女は、何を思っているのだろうか。
 勝利への絶対の自信か、はたまた、勝負するという行為自体への喜びか。
 いずれにせよ、早々に決着をつけなければ、業務に支障が出てしまう。


「わざと負けるような真似したら……わかってんだろうな?」


 見透かされ、一瞬、体を強張らせてしまった。
 硬直したままの右の手の平が、戒められるかの如く、強く握り締められた。
 しかし、私と彼女は体格にかなりの違いがある。
 当然、手の大きさも差があるため、収まりの良い握り方を探すためか、
拘束は時間にするとほんの僅かの間だった。


「本気を出さねぇと、承知しねえ」


 グッ、グッ、と二回。
 やっとしっくり来る場所を見つけたのか、彼女は私の手の平をしっかりと握り締めた。
 顎を引き、射抜くような視線を向けてくる彼女に対して、私が出来る事。
 それは、彼女の想いに全力で応える事しか無い、と……そう、思います。


「はい、わかりました」


 私の返事を聞いた彼女は、


「へへっ! そうこなくっちゃな!」


 満面の笑みを浮かべた。


「……良い、笑顔です」


 これから行うのは、力と力の真剣勝負。
 真剣勝負の前に、これ以上の言葉は不要。


「……いくぜ」


 不覚にも、緊張し……勝負が楽しみになっている自分が居る事に気付いた。
 脇を締め、引き寄せるようにし、腕が鋼鉄の塊になったイメージで、そのまま――倒し切る。


「レディー……!」


 緊張の、一瞬。



「ゴ――ッ!」



 ――ブボウッ!



 ……どこへ?

564: 名無しさん 2019/07/15(月) 22:57:58.05 ID:FEMhkyywo

「……」


 一瞬だけ、彼女の手には力が込められてはいた。
 だが、爆発音にかき消される様にして、雲散霧消。
 そのまま、何の抵抗もなく傾いた天秤は、勝敗の行方をハッキリと見せつけていた。
 私は、勝ったのだ。


「あの……」


 しかし、勝利の代償はあまりにも大きかった……らしい。
 敗者の表情を窺うのは、失礼に当たるのは理解している。


「……大丈夫ですか?」


 額を机にこすりつけている上に、
長い黒髪がカーテンの様になって、彼女の顔を隠している。
 両肩は震え、アイドリング中のバイクを彷彿とさせる。
 右手はテーブルに磔になったままで、左手は……私の視線の届かないテーブルの下で、
暴走してしまった何かを必死に抑えつけている様だった。


「あの……」


 返事が、無い。
 私は、彼女の異常を察知し、そのままになっていた右手を離そうとした。
 離れそうになる、手の平と手の平。
 引き上げた右手に……ピッタリと着いて来る、感触。


「えっ?」


 弱々しくだが、しっかりと。
 傾いていた天秤は、元の位置に戻り……勝負が始まる前の場所へ。
 振りほどこうと思えば、いとも容易くそれは完了するだろう。
 そうしなかった……いや、出来なかったのは、
掴んでいる手が、すがる様に震えていたからだ。


「あの……」


 ……まさか。



「へへっ……そうこなくっちゃな……!」



 つい先程も聞いた言葉。
 同じ台詞ではあるが、本当に楽しげだった初回に比べ、
今の声は負け戦に挑んでいく戦士の悲痛な叫び声の様だった。
 ……あの、まさかとは思いますが、



「へへっ! そうこなくっちゃなぁっ!」



 私に、何事も無かったかの様に振る舞え、と?


「……」


 すみません、貴女の想いに応えたいとは思います。
 ですが、今は悠長にしている場合では無い、と……そう、考えています。
 先程から漂って来ている、異臭。
 その問題を片付けるのが、重要な事だと思うのですが……。

567: 名無しさん 2019/07/15(月) 23:33:29.27 ID:FEMhkyywo

「……」


 全力を出そうとした結果の、不幸な事故。
 不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまった……と、言っていましたか。
 不良は不良でも、素行ではなく体調の方が不良だったのかも知れません。
 なので、どうか、


「~~っ!」


 涙を溜めた状態で、笑顔を向けないでください。
 既に、貴女の特攻は成功しています。


「あっ、おっ!?」


 癖で、右手を首筋にやろうとしたが、その場に留められた。
 だが、その時咄嗟に力が入ってしまったのか、はたまた、偶然か。
 彼女は再び額をテーブルにこすりつけ、黒髪が波打つ。
 肩の震えは今までよりも大きく、原動機付自転車と大型二輪程のパワーの違いを感じさせた。


「……!……!」


 永遠とも思える、十数秒間。
 私は、ただ無言でその様子を見守る事しか出来なかった。
 そして遂に、震えは止まった。
 ゆっくりと上げられる、彼女の顔には、



「へへっ! そうこなくっちゃな!」



 何とも形容し難い、様々な感情を煮詰めて大量のミントを加えた様な、
どす黒い爽やかな笑顔が張り付いていた。
 瞳の奥に揺れる炎は、何を燃料として燃え盛っている華なのだろうか。
 ……願わくば、私に対しての恨み節では、ありませんように。
 私は、追突された被害者の側の人間だと……そう、思いますから。


「……良い、笑顔です」


 言いながら、右手に力を込めた。


「……夜露士苦」


 開始のコールをする気力は、無いらしい。


「レディー……」


 私のコールを聞いて、彼女がはほんの僅かにだが、右手に力を込めた。


 ――プッ!


「……ゴー」


 決着は、一瞬。
 地面に突き立てた棒が重力によって倒れる様にして、パタリと。
 空虚な勝利の味を噛み締めながら、三度突っ伏している彼女の後頭部を眺めた。

568: 名無しさん 2019/07/16(火) 00:09:14.97 ID:sR3swdC7o

「……」


 力の緩んだ右手から、そっと自らの手を離す。
 そして、彼女に背を向け、一直線に窓へと行き、可能な限り開け放つ。
 排気ガスによって汚染された空気の、なんと美味い事か。
 通りを行き交う車のドライバーに、感謝の言葉を述べても良い。


「……」


 さて、これからどうしたものか。
 心の準備と今後のスケジュールの調整をしながら、背後にチラリと視線を向けた。


「えっ?」


 誰も、居ない。
 確かに、すぐ先程まで彼女はそこに居た筈だ。
 夢や幻で無い事は、未だ手の平に残る彼女の手のぬくもりと、
全開バリバリで私の嗅覚を痛めつけてくる臭いが、その証拠。


「……!?」


 まさか。


「っ……!」


 慌てて、彼女が居た場所へと走り寄った。


「……」


 ……良かった。
 体調不良で倒れている訳では、無かったようですね。


「……」


 落とした視線の先には、彼女が脱ぎ捨てていった衣類がまとめて置いてあった。
 残されているソレから察するに、彼女は今、下半身に何も纏っていない状態。
 誰にも見つからずに、走り切る事が出来るだろうか。
 ……いや、心配する必要は無いだろう。


「……」


 そんな義理は、無いと思います。


「……」


 茶色い線で書かれた、『夜露士苦』の四文字。
 画数が多い『露』を判別させるためか、大きく書かれていた。


「……」


 腕相撲には勝ったが、私が得たものは何一つ無かった。
 タイマンが決闘罪とされるのは、こういった理由があるのかも知れない。
 そんな考えても詮無い事を悲しみの栓としながら、掃除をするべく行動を開始した。
 鼻栓はもう不要だと思う程、私の鼻は曲がっていた。



おわり

922: 名無しさん 2019/07/27(土) 21:23:30.76 ID:3agrlnsvo

「おはようございます」


 真っ直ぐ姿勢を正して、お辞儀。
 今までと変わる事の無い、朝の挨拶。
 表情は、勿論――笑顔で。
 一日の始まりがそれ以外だと、何だか勿体無いですから。


「おはよう、ございます」


 彼も、真っ直ぐこちらを見て、低い声で挨拶。
 今までと違うのは、その表情。
 シンデレラプロジェクトを担当してからの彼は、表情が柔らかくなった。
 無表情と言うよりも、とても静かで、穏やか。


「……あの、何か?」


 そんな彼を見つめ続ける私へと、疑問が投げかけられる。
 けれど、聞かれても、答える事は出来ない。
 だって、私自身、どうしてそうしていたかわからないんですから。
 わかるのは……ただ、何となく、


「いいえ、何でもありません」


 寂しいと感じるだけ。
 でも、それを言っても仕方ありませんから。


「本当に、何でも無いんです」


 ……良い事を寂しいと思うなんて、どうしちゃったのかしら。

923: 名無しさん 2019/07/27(土) 21:33:45.90 ID:3agrlnsvo

「そう、ですか……」


 彼が、右手を首筋にやって、困った顔をした。
 相変わらずのその仕草に、どうしても口元が綻んでしまう。
 ああ、変わってないんだな、って。


「ふふっ!」


 困らせておいて笑っちゃうだなんて、失礼ですよね。
 けれど、おかしくって。
 もしかして、頭の寝癖もそのままなんじゃないかしら。
 笑いを隠すために口元に運んだ左手が、その言葉を通せんぼ。



「プロデューサー」



 後ろから、声が聞こえた。
 プロダクションの玄関口から聞こえたその声の主は、
磨き抜かれた床をカツカツと音を立てながら、こっちへ向かってくる。
 彼の視線が、その子の方へと向く。
 私も、振り返ろうとした、その時、



「おはよう、ございます」



 笑顔。
 とても優しい笑顔が目に映り、振り返るのがちょっと遅れてしまった。

924: 名無しさん 2019/07/27(土) 21:46:57.64 ID:3agrlnsvo
  ・  ・  ・

「……」


 午前中のボイスレッスンは、何故かあまり集中出来なかった。
 何かを言われるような事は無かったけれど。
 自分では、わかる。
 午後のダンスレッスンは、しっかり集中して臨まなくっちゃ。


「……」


 そのために、気分転換。
 ちょっとだけ、プロダクションの敷地内を散歩して。
 それから、カフェで美味しい紅茶を頂こうかしら。
 頑張るって決めたから、先にご褒美として甘いケーキも……ううん、迷う。


「あっ」


 少し離れた所に、背の高い、見覚えのある人影。
 この距離だと、頭の後ろに寝癖があるかは見えないけれど。
 でも、間違いなく、あの後ろ姿は彼だと思うの。
 どこかに向かってるようで、こっちには……気付いてない。


「……ふふっ!」


 こっそり、こっそり。
 サンダルだから、足音を立てないように。
 ふふっ! 忍者みたいに近づいて、驚かせても、堪忍じゃ……うふふっ!

925: 名無しさん 2019/07/27(土) 21:59:26.71 ID:3agrlnsvo

「……」


 私が、声を掛ける前に。
 彼は、目的の場所に辿り着いていた。
 敷地内にある、芝生の上。
 その上に広げられたシートの上が、彼の居る所。


「……」


 まだまだ、お日様の見えない天気が続くらしい。
 その合間の、ぽかぽかした陽気の良い日。
 ちょっと、照りつける日が暑く、眩しいけれど。
 今日は、とっても良い日ですものね。


「……」


 シートの上には、彼と……彼の担当する、アイドルの子達が。
 皆、とっても良い笑顔で。
 そんな笑顔を向けられたら……ええ、そうでしょうとも。
 貴方も、そんな顔、しちゃいますよね。


「……」


 その場で、クルリと踵を返す。
 お邪魔しちゃ、悪いですから。


「……」


 ……なんだか、カフェに行く気分じゃなくなっちゃった。
 自販機でコーヒーを買って、一息つこう。

926: 名無しさん 2019/07/27(土) 22:17:42.22 ID:3agrlnsvo
  ・  ・  ・

「私が、ですか?」


 紅茶を一口飲んだ後、カップとソーサーが小さく音を立てた。
 ダンスレッスンが終わった後、早苗さんと瑞樹さんに連れられて来た、カフェ。
 そこで、二人に言われた一言。


 ――今日は何だか、様子が変。


「何よ、自分で気付いてなかったの?」


 そう言って、早苗さんはストローでアイスティーを一口飲む。
 私の答えが意外だったのか、大きな目をいつもよりちょっと見開いている。
 冷えたグラスの表面には、オープン・カフェ特有の温度差で、水滴がいっぱい。
 落ちそう……あ、落ちた。


「何かあったの?」


 瑞樹さんが、小さなフォークをスッとチーズケーキの表面に突き入れる。
 小さく分けられたそれを……パクリ。
 今日のダンスレッスンは激しかったから、そのご褒美だと言っていた。
 ブルーベリーのソースが、キラキラと輝いている。



「「誤魔化すのは無しね」」



 私が口を開く前に、二つの声が重なった。


「はあ……」


 そう言われても……どうしたら良いのかしら。

927: 名無しさん 2019/07/27(土) 22:32:00.13 ID:3agrlnsvo

「でも……特に、思い当たる理由が無くて」


 正直に答える。
 本当に、何も無かったんだから。
 強いて言うなら、久々に暑い日だった位。
 今までが涼しかった分、焼かれてしまうような、そんな暑さ。


「シロね」
「わかるわ」


 二人は、そう言ってため息をついた。
 早苗さんは、両腕を組み、人差し指で二の腕をトントンと叩いてる。
 瑞樹さんは、右の手で口元を隠し、私を見つめながら考え事をしてる。
 そして、私は、



「――まっ、待ってください!」



 こっちへ向かってくる、彼に気付いた。


「……」


 担当のアイドルの子達に、両手を握りしめられて。
 急かされるようにして、楽しそうに、騒がしく。
 それは、とてもキラキラと輝いて見えて。
 まるで、手の届かないパレードみたい、なんて感想が浮かんでいた。

928: 名無しさん 2019/07/27(土) 22:44:55.67 ID:3agrlnsvo

「……」


 彼の手を引く子達は、無邪気な、とびっきりの笑顔。
 あっ、手じゃなくて、腕を。
 彼も、それには驚いて声をあげるが、聞き入れて貰えない。
 あの子達には、そうしても良いと思えるだけの、信頼関係があるのだろう。


「……」


 本当に、楽しそう。
 見ているこっちまで、笑顔になっちゃう。


「……」


 ……でも。
 あぁ、どうしてなのかしら。



「「――見てられないわ」」



 私が答えを出す前に、また二つの声が重なった。


「えっ?」


 早苗さんと瑞樹さんの視線は、私を捉えていた。
 二人は、私の反応を見てため息をついた。

929: 名無しさん 2019/07/27(土) 23:01:15.42 ID:3agrlnsvo

「氷が溶ける前に、ちゃっちゃと済ませましょ」


 クルリと体を横に向けて、早苗さんはパッと立ち上がった。
 そのまま腕を前にし、両手を組んで指の関節を伸ばす。
 あの……何か、するんですか?
 なんて、問いかける間も無く、


「ここの支払い、任せるわ」


 瑞樹さんは、そう言って伝票をツイとこちらへ寄越してきた。
 それは構いませんけれど……どうして?
 まだ、ケーキもほとんど残ってるんですけど……。
 どうして、瑞樹さんも立ち上がってるんですか?


「え~っ? 瑞樹ちゃんだけケーキ頼んで、ずるいじゃないの!」
「美味しかったわ~! 奢りだと思うと、また格別」


 そんなやり取りをしながら、二人は向かっていく。


「……」


 私が、見ているだけだった光景に。
 堂々と、颯爽と、遠慮なんて欠片もなく、踏み入っていく。



「はーい、そこまで!」


「何やってるの! タイホよ、タイホ!」



 私には、絶対に出来ないだろう事。
 それを二人は、いともアッサリとやってのけた。

930: 名無しさん 2019/07/27(土) 23:19:26.02 ID:3agrlnsvo
  ・  ・  ・

「はー……どっこいしょ」
「早苗ちゃん、オヤジ臭いわ」


 戻ってきた二人が、再び席についた。
 その表情は、いつも通りで、何一つ変わることは無い。
 当たり前の事を当たり前にしてきた。
 早苗さんと瑞樹さんにとっては、それだけの事なのかも知れません。


「……」


 過度なスキンシップをするアイドルに、注意。
 それを止められなかったプロデューサーに、叱責。


「「何?」」


 私は、二人をじいっと見つめ続けていた。
 だって、


「格好良いな、って」


 そう、思ったんです。
 私は、あの子達よりも歳上だけど。
 嫌われちゃうかも知れないって思うと、そういう事が出来なくて。
 だから、二人をとっても格好良いと思ったんです。


「なーによ、知ってた癖に」
「友達でしょ、当然よ」


 そう言って、二人は照れくさそうに笑った。

931: 名無しさん 2019/07/27(土) 23:33:03.71 ID:3agrlnsvo
  ・  ・  ・

「……」


 今晩は、飲みに行く。
 早苗さんと瑞樹さんにそう言われ、二つ返事で頷いて。
 プロダクションの玄関で三人揃った段階で、いざ出発……とは、いかなくて。
 もう一人来るからと、お喋りしながら笑っていたら、



「――すみません、お待たせしました」



 慌てた様子で、彼が来た。


「遅い! 女を待たせるなんて、ギルティよ! ギルティ!」
「待たせた分、何かしてくれるのよね? わかるわ」
「えっ?」


 上手く事態が飲み込めないでいる私を置いて、会話がどんどん進んでいく。
 どうやら、二人から、彼にお説教があるらしい。
 もしかして、カフェでの事かしら?
 けれど、せっかくなんだから――



「ふふっ! 遅れないでおくれ……うふふっ!」



 楽しく、飲みたい。

932: 名無しさん 2019/07/27(土) 23:48:53.40 ID:3agrlnsvo

「は、はあ……」


 彼が、右手を首筋にやって、困った顔をした。
 相変わらずのその仕草に、どうしても口元が緩んでしまう。
 けれど、違いを発見。
 よっぽど急いで来たって、わかっちゃった。


「ふふっ!」


 つい、と一歩踏み出し、彼の近くに寄る。
 背の高い彼の視線が、私の頭上から降り注いでいるのがわかる。
 寝癖は、立って無いでしょう?
 あっ、これが終わったら、彼に寝癖があるか確認しなきゃ。


「ネクタイ、曲がってますよ」


 身だしなみには、気をつけないと。
 真っ直ぐ、体に対して一直線に。
 ちょっぴり緩んでる?……はい、これで良し。
 最後に、ネクタイの上から彼の胸をポンッと叩いて、


「はい、完成」


 笑顔。



「あーっ、もう! 今日は飲むわよ!」
「そうね、でなきゃやってられないわ」



 何か言いかけた彼に、クルリと背を向けて、言う。



「はーい♪ ビールを浴びーる程飲みたいでーす♪」



 ……もうっ!
 貴方に照れくさそうにされたら、私まで恥ずかしくなっちゃうじゃないですか!




おわり

979: 名無しさん 2019/07/29(月) 22:31:53.03 ID:aAY9Mg7Uo

「すみません……お手数をおかけしてしまって」


 夏合宿に向けて、プロジェクトクローネのメンバーで話し合いがありました。
 皆、それぞれ意見を出し合い、とても充実した合宿になるだろうと、
他人事の様にその光景を見ていた私に……声がかけられたのです。
 ニコニコと、照りつける太陽の様に眩しいその笑顔の方は、


 ――課題、一緒にやろー♪


 と、私がアイドルである以前に、大学生だったという事を思い出させました。
 ……忘れていた訳では無かったのです。
 ただ、日々の過ごしている時間が、今までの私が歩んできた人生と、
あまりに違いすぎるため、その刺激の前に霞んでしまっていたのでしょう。


「いえ、お気になさらず」


 通っている大学が違うので、彼女の申し出は丁重にお断り……出来ず、
合宿中の空き時間に、同じ机を囲むという約束が、
結ばれ、揺れた右の小指に、感触として未だ残っています。


「重要な事だと思いましたので」


 コミュニケーションを取る事はとても大切だと知り、
それ自体は問題なかったのですが……。


「……そう言って頂けると……」


 私は今、大学へと車で向かっています。
 助手席に座り、視線を彷徨わせながら。

980: 名無しさん 2019/07/29(月) 22:48:51.93 ID:aAY9Mg7Uo

「もう、夏季休業に入っているのでしょうか?」


 恐縮している私に、気を遣ってくれているのでしょう。
 あまり、こういった世間話をするイメージではありませんし、
私が言うのも何なのですが、どことなく、ぎこちなさを感じるからです。
 けれど、そうした気遣いには報いるべきだと思うので、
なけなしの社交性を振り絞り、会話を成立させるべく、言葉を紡ぎます。


「はい……私は、授業の関係上、もう……はい」


 ……何と、そっけない言葉でしょうか。
 紡ごうと思った筈の言葉は、がさつな少女が始めて編み上げたマフラーの様に、
穴が開き、段違いで不格好なものにしかなりませんでした。
 視線は膝の上に落ち、羞恥に頬が熱を帯びていくのがわかってしまいます。


「大学では、どの様な事を学んでいるのですか?」


 ……運転に集中しているからでしょうか。
 私のたどたどしい答えを意に介した様子は見られず、
続けて、次の質問が低い声で投げかけられました。
 それが、メンバーの方に聞いていた、ある場面の様で思わず、


「……オーディション、でしょうか?」


 と、自然と聞き返してしまっていました。
 ……後悔したのは、言うまでもありませんね。

981: 名無しさん 2019/07/29(月) 23:00:45.86 ID:aAY9Mg7Uo

「……」


 車が、その速度を落とし、ゆっくりと止まりました。
 それ程までの不興を買ってしまったのかと、恐る恐る、
下から覗き込むようにして様子を伺うと、


「っ!?」


 少し見開かれた目が、私へと向けられいたのです。


「す……すみません……」


 謝罪の言葉は、とても小さく、弱々しいものでした。
 ボイスレッスンの時、トレーナーの方にもしばしば注意されているのですが……。
 どうして、よりによって今……その失敗をしてしまうのか。
 変わりたいと思ったのに、これでは結局何も変わっていないのと同じ事です……。


「あ、いえ……こちらこそ、驚いてしまってすみません」


 えっ?


「驚いて……?」


 謝っていた筈なのに、逆に謝られてしまって。
 その驚きが、私に鸚鵡返ししか選ぶ事を許してはくれませんでした。

982: 名無しさん 2019/07/29(月) 23:20:51.49 ID:aAY9Mg7Uo

「はい」


 ゆっくりと、車が動き始めました。
 運転席側の窓からは、同じ様にゆっくりと動き出す別の車の姿が見て取れます。
 ……ただ、信号が赤だっただけ。
 そんな事にも気が付かない程、私は周りが見えなくなってしまっていたのですね……。



「まさか、冗談を言われるとは思っていなかったので」



 反省と、思考の海に潜ろうとしていた私の意識は、
予想していなかった言葉に、空中へと放り出されました。
 くるくると回転し、上下左右を確かめるのも困難な状態で、
助けを求められるものは何一つ、誰一人此処には存在していません。


「あ、いえ……」


 こういった誤解を解く時に、書の世界ではどんな会話があったか。
 考え、考え、考えていると……シートベルトの締め付けが、
私の体の向きが、いつの間にか前から横へとなっていたのを告げていました。
 慌てて、離れていた左肩をシートに付け、首だけを横に向けたのですが……。


「……」


 とても穏やかな、優しい笑みが目に飛び込んできたのです。
 それは、否定の言葉を紡ぐのを躊躇ってしまう程の衝撃で、
私をシートに深く座り直させる程のものでした。

983: 名無しさん 2019/07/29(月) 23:37:40.78 ID:aAY9Mg7Uo

「……とても、真面目な方だと思っていましたが」


 この言葉が、続きのあるものだとはわかっているのです。
 けれど、それを聞きたくないと思ってしまうのは、
ページをめくったその先に、悲劇が待ち受けている時の感覚に似ているかも知れませんね。
 書ならば、手を止め、心を落ち着かせる事も出来ます。


「……!」


 しかし、会話はそうはいきません。
 心の準備をする暇も、それを要求するだけの勇気も無いのですから。
 ただ、唇を引き締め、待つ。
 私に許された、出来るだけの行動は、他にはありませんでした。



「お茶目な面もあるのか、と……そう、思いました」



 放たれた言葉が、意外すぎて、



「ん゙っ゙!?」



 私の肺は悲鳴をあげ、空気が砲弾の様に打ち出され、



「だっ、大丈夫ですか?」



 引き締めていた唇に阻まれ、鼻腔に少し抜け……大きく、むせてしまいました。

984: 名無しさん 2019/07/30(火) 00:04:46.01 ID:IM/mAzJHo
  ・  ・  ・

「……落ち着かれましたか?」


 とても心配そうな声を聞いて、
先程のような失敗は、もう二度と繰り返すまいと心に誓いました。
 大きく息を吸って、吐き……呼吸をしっかりと整えます。
 そして、慌てることなく、ゆっくりと口を開きます。


「はい……ご心配をおかけしました」


 それが功を奏し、普段通りの調子で答えることが出来ました。
 本来ならば、何と言う事の無い、簡単なやり取りなのでしょうね。
 なのに、あんな失態を演じてしまったのは――


「もう、大丈夫です」


 ――申し訳なさが、重い枷となって身動きを取れなくしていたからでしょう。


「すぅ……ふぅ……」


 だから、今、ここで。
 その枷を外し……変わろうと思うのです。



「……オーディションなら、失格だったでしょうね」



 嘘から出た真……フィクションをノンフィクションに。
 事実は小説より奇なりと言いますが、
これは、私にとって……どんなファンタジーよりも信じられない冒険なのです。

985: 名無しさん 2019/07/30(火) 00:36:12.24 ID:IM/mAzJHo
  ・  ・  ・

「……」


 学内で、最も落ち着ける場所。
 沢山の書に囲まれ、喧騒とは切り離された静謐な空間。
 学ぶ、という目的のために存在する此処は、どこか厳かに感じられます。
 夏季休業に入り始めていて、人も普段より多くありません。


「……」


 目的の書架へと向かう足取りが軽いのは、自分でもわかっています。
 絨毯が、トス、トスと音を立てているのは、足がいつもより上がっているから。
 勿論、レッスンで鍛えられてきたから……という理由もあります。


「……」


 ……帰りは、どんなお話をしよう。
 さっき話した書の話の続き……?
 けれど、もしかしたら……他にも、同じ書を読んでいるかも知れないから……。
 ……早く、本を借りて戻ろう。


「~♪」


 合宿で練習する予定のクローネの全体曲が、自然と零れ出ていました。



「……」



 ……俯きながら、通路を引き返します。
 目的の書架を通り過ぎているのに……気付きませんでした……。
 出来るだけ体を小さくして……心の中で、謝罪を繰り返しているのですが。
 図書館の静けさは……しんっ、と私を叱りつけているようでした……。




おわり
 

990: 名無しさん 2019/07/30(火) 15:22:16.73 ID:IM/mAzJHo

「本当、最悪……!」


 梅雨も明けたって言うのに、突然のにわか雨。
 もうすぐ事務所に着く、と思ってた所へのどしゃ降り。
 逃げ込むようにして玄関ホールへと駆け込んだら、
それまで雨が降ってたなんて信じられない位、陽の光が照っていた。


「……何なの、もうっ!」


 ホールに他に誰も居ないのがわかり、悪態をつきながら鞄からタオルを取り出す。
 とりあえず、髪を拭かないと。
 外と違って、社内は全館冷房がきいてるから。
 こんなんで夏風邪を引くなんて、馬鹿みたいだし。


「……!」


 不機嫌で、指に力が入りそうになるのをこらえる。
 指の腹を使って、マッサージするように。
 ……とりあえず、これで平気かな。
 体を右に傾けて髪をまとめ、タオルで挟んで毛先の水分を吸収させていく。



「――渋谷さん?」



 遠くの方から、低い声。
 ちょっと驚くようにして調子が跳ねてたのは、何で?
 私が、ずぶ濡れだったから?
 それとも、こんな所で髪を拭いてるから?


「……おはよ」


 どっちにせよ、どうでも良いかな。
 今は、そんな事よりも濡れて貼り付いたシャツが気持ち悪い。

991: 名無しさん 2019/07/30(火) 15:43:55.67 ID:IM/mAzJHo

「おはようございます……」


 革靴と床が立てる音が、少し早足なのを教えてくれる。
 ……ちょっと、拭きにくい。
 左肩にかけた鞄が、今にもずり落ちそう。
 床に置けば良いんだろうけど、ここまで来てそうするのは、なんか負けた気分だし。


「ごめん、ちょっと持ってて」


 左手で鞄を持ち、前に差し出す。
 それに対する返事は無かったけど、すぐに左手が軽くなった。


「ありがと」


 ちょっと素っ気無かったかな、なんて思ったけど。
 別に、それでも良いかと思い直し、髪を拭くのを再開する。


「丁度、降られてしまいましたか……」


 ほら、ね?
 プロデューサーは、そういう細かい事、あまり気にしないから。
 それよりも、担当するアイドルの状態を気にするタイプ。
 だから私が今するべきなのは、髪を拭く事。


「……走ったんだけど、雨宿りすれば良かった」


 何て、ちょっと後悔はするけどね。
 この位の愚痴だったら、聞いてくれても良いと思う。
 だって、アンタ私のプロデューサーでしょ?


「……」


 鞄を持ってるから、右手を首筋にやれずに困ってる。
 ……別に良いでしょ、他の子には言わないから。

992: 名無しさん 2019/07/30(火) 16:02:34.06 ID:IM/mAzJHo

「あの……すぐに着替えた方が、良いのでは……」


 何だか、妙に歯切れが悪く言われた。
 そりゃ、確かにかなり濡れたけど……そこまでする必要ある?
 レッスンまでは、まだ時間があるし。
 着ておいて、ちょっとは乾かしたいんだけど。


「……いや、何?」


 なんて言おうと、プロデューサーの方を見ると。
 視線は合わず、どこか、違う所を見ているのがわかった。
 何を見ているのかと、その視線の先を追ってみても、何も無い。


「……?」


 ……意味がわからないけど、とりあえず他の場所を拭こうかな。
 髪を拭く時にタオルが当たってたけど、腕もしっかり。
 うわ、シャツの袖とか、絞れそうじゃない?
 プロデューサーの言う通り、レッスン着に着替えて、これは乾かして貰おう。


「うん、ちょっと先に着替えてくる」


 ネックレスが絡まない様に、首の後から沿うようにして首筋、鎖骨――



「――っ!?」



 プロデューサーを見る。
 その視線は、逸らされたまま。

993: 名無しさん 2019/07/30(火) 16:21:12.73 ID:IM/mAzJHo

「……鞄、ありがと」


 左手を差し出しながら、じいっと見つめる。
 相変わらず、こっちを見ようとはしない。


「い、いえ……当然の事です」


 それが、


「うん」


 なんだか、面白くなくて。



「――黒って、大人っぽすぎるかな?」



 ちょっと、からかってやろうと思った。


「えっ?」


 プロデューサーが、こっちを見る。
 そしてすぐに、慌てて横を向く。



「スケベ」



 ……まあ、そうだよね。
 だって、黒じゃないし。
 ひったくるようにして鞄を受け取り、早足でその場を立ち去る。


「……」


 振り返られないのは、その必要が無いから。
 「見なくて良い」とか、「目を離さないで」とか……その、何て言うか。


「……!」


 ……そんなの、どっちだって良いでしょ!




おわり