2: 名無しさん 20/04/05(日)20:19:57 ID:2VC
【風】



 目をつむると、花のにおいに包まれた。
 空は少しだけとおく、雲は音もなく流れていく。
 風はやはり静かで、明日へ向かって私の手を取る。
 柔らかいそれはふれたらほどけて、ふわりと消えてしまった。
 でも呆れるほどやさしい──春の手触りが、心に残った。


引用元: ・【モバマスss】風想伝導【高垣楓】

3: 名無しさん 20/04/05(日)20:20:30 ID:2VC


「楓さん────。」

 あの人が私の名前を呼ぶ。低く沈むような声色からは少しの焦りと、いっぱいの親愛の情が込められているように感じられた。これ以上彼を困らせるのは本意ではないので私も動くことにしよう。
 大きく息を吸って背筋を伸ばす。その体制を数秒キープしたあと、一気に体中から力を抜く。ああ、どうしよう。力をぬきすぎて寝っ転がってしまった。見上げる彼の顔は逆光になっているけど、きっとその表情は優しいんだろうな、と思いあがってしまう。

 青空のキャンパスに白く刺し色がぼんやりと塗られている。鮮やかな蒼は淡い水色の顔をしている。みどりの風が吹いて、春のにおいを連れてくる。それは土の匂いであり、雨の匂いであり、日の匂いだった。

「プロデューサーさん────。」

 差し出された両手をおずおずと握った彼を、強引にこちらに引き寄せた。……不満だったのは、焦りよりも困惑の色の方が強いように見えたことだ。いまさら、なにがわからないというのだろう。わからないことなど、なにもない……と思う。
 私は素直に──純粋に──私の全ての感情を、あなたに示してきたのだから。今までも、今も、これからも。伝わっていなかったとしたら、それは少し悲しい。でもきっと、それはない。彼は知っているはずだ。伝わっているはずだ。わかっているはずだ。私の、彼に対する気持ちを。

 だって────。

4: 名無しさん 20/04/05(日)20:21:02 ID:2VC
【風想】



 春は出会いと別れの季節だと言います。代表的なイベントは、卒業式と入学式でしょうか。
 見知った人と別れ、未知の人と出会う。何度も何度も繰り返し行われてきて、その度に当事者になるイベントもそうはない気がします。

 卒業。それはなんと幸せな別れでしょうか。
 多くの人に愛され、惜しまれ、祝われながら去っていく。
 自分の居場所にさよならを告げられる機会はそう多くなかったんだと、歳を取って想うようになりました。与えられた時間は有限だけど、でも終わりも決まっているから──誰も彼もがみんなそこに向かって走り続けられる。明確なゴールに向かって。

5: 名無しさん 20/04/05(日)20:21:18 ID:2VC
 明確なゴール。それがあの時私たちになかったもので、欲していたもので、必要としていたものでした。
 自分の限界を定めるということではありません。
 ただただひたすらに一途に走って、走って走ってただ前を向いて走り続けて、とうとう限界が来てもゴールを迎えられず、最後に力尽きてしまった──そんなあなたが救われるには、それしかなかったんだと思います。
 ……もしかしたら、それも間違いなのかもしれません。私たちの、私の自己弁護にすぎないのかもしれません。ゴールさえあれば、あなたを救ってあげられたという──それまでの道にも、それからの道にも、きっと間違いはなかったと、そう思いたいだけなのかもしれません。

 後悔などあるはずがありませんでした。迷いなどあるはずもありませんでした。
 でもそれらの思い出が、あの日を境に一瞬にして後悔に変わってしまったのは──あの日からずっと迷ってしまっているのはきっと、去って行くあなたに笑顔でさよならを言えなかったからでしょう。もちろん、あの時のあなたにそんな言葉をかけられたはずがありませんが。

6: 名無しさん 20/04/05(日)20:21:33 ID:2VC
 でも、最近は空を見上げてその青さに感動したのです。雨の重さは随分と軽くなりました。跳ねる水滴の透明さに涙を流すことができたのです。
 私はいまだに迷っています。でもその迷いを受け止めて歩き出しています。……隣が少しさみしいけど、あなたを待ちながらだけど、あなたに誇れる私でいられるように。

 そして今日を迎えました。晴れ渡る青、澄み渡る緑にあのころの私たちが思い出されるような穏やかな春の日。大切だけど特別じゃない、毎日というラベルが貼られた本棚の、どれも区別がつかない一巻をさらに切り取った一ページの日常。 

 あの日から一度もなかった二人だけの時間。
 休日の予定を無理くり合わせて、それでも数時間しか得られなかった、あなたと私の時間。
 同じ風に吹かれて音を聴く時間。

 今日は、デートなのです。

7: 名無しさん 20/04/05(日)20:21:48 ID:2VC
【風想伝導】



 待ち合わせは現地集合(そのばしょ)で。二人で連れ添って歩くのも憧れますが、最近はちょっぴり顔が知られてしまっているのでしかたがありません。
 集合時刻は午後14時。もっと早くても大丈夫と言ったのですが、もっと寝た方がいいと彼が言ったので少し遅い時間になってしまいました。
 昼ごはんはお互い、適当に済ませてからということでした。ここまでくるとなにがデートなのかわかったものではない、と思われるかもしれませんね。
 確かに、駅のカフェで待ち合わせして、少しくだらない話をしてから流行りの映画を観に行って、面白かったね、つまらなかったねって一緒にランチを囲むような、絵にかいたデートではありません。
 お互いがそれぞれの時間で行き、好きなものを食べ、各々のタイミングで約束した場所に集う。ロマンチックではないかもしれない。もっと面白くて、ドキドキする方法があったかもしれない。
 
 でもいいのです。私とあの人だけで、一時間でも三十分でも一分でも、同じ場所で同じ時を過ごす。ことさら劇的なドラマがなくたっていい。面白い話だってしなくてもいい。
 あなたの隣に私がいられたら、それに勝る時間なんてないんですから。

8: 名無しさん 20/04/05(日)20:23:01 ID:2VC


 鈍行の電車に乗って、街の外れの小さな駅へ。
 車窓を眺めながら飲むビールはとても美味しかったけど、やはりこれも特別なことではありません。ビールはどこで飲んでも美味しいのです。流石に三缶も四缶も持ってきてはいませんし、旅の醍醐味の一つですから、少しお酒の匂いがしても許してくださいね?

 今日のビールはデュベルという、ベルギーのビール。酸味と苦味が少なく、口当たりは少し柔らかめ。ホップの香りと柑橘系の果実の香りが混ざった複雑な香りが抜けるように感じられます。ちょうど、そう──今日のような日に飲むにはぴったりのお酒です。

 駅に着くと、待ち合わせ場所(もくてきち)は目と鼻の先でした。彼はどうしているかなと思った矢先スマートフォンが震えました。彼から、今電車に乗ったと連絡が入りました。おそらく、あと30分はかかるでしょう。待ち合わせの1時間も前なのに、彼も真面目なことです。

 小高い丘。草のベッドが風に揺れて耳にさあっと形を残して消えていく、そんな場所です。
 ここからは、私たちの街が一望できます。せわしく回る電車。動き続ける時計。肩と肩が触れ合う満員電車。いっぱいの人がいて、その誰もが孤独でいるようなあり方。
 ここは真逆の世界。なにもない。誰もいない。時間は止まったみたいに周りに変化はなく、ただ風と草の匂いだけが私以外の存在としてあり続ける、普段の私たちからすればウソみたいな場所です。
 ……ぷしゅり。
 ……あと、すいません。もう一本だけ。

9: 名無しさん 20/04/05(日)20:23:20 ID:2VC


 ただ眺めていました。ただただずっと。
 どこを? さあ、わかりません。ああ、今が何時なのかもわかりません。彼からの連絡がどうなっているかも知りません。風が少し強まって丘全体を斜め上に巻き上げたと思えば、今度はピタリとやんでしまいました。
 春なのに、ここからは桜が見えません。梅の白い花も見えません。見えるのは緑に垂れた木々と、機会色の街の景色だけです。これが私の日常。華やぐ光の世界で生きる私が持っている、人間性の証。
 
 あの人と出会ってから獲得した全ての輝きと栄光。それを今この瞬間の私は持ち合わせていません。“高垣楓”はいま、女でしかないのです。少し人付き合いが苦手で、お酒が好きで、うまい駄洒落はないかしら、と思っているだけの女でしかないのです。

 彼は私がどんなアイドルになったとしても、私の中からこの景色を消したくなかったと言ってくれました。それを守るために、私を守るために、走って走って──今は、ちょっと休んでしまっているんですが。

10: 名無しさん 20/04/05(日)20:23:35 ID:2VC
 ねえ、プロデューサーさん。私、あなたから本当にいっぱいのものをもらいました。
 いっぱい、光を当ててもらいました。
 いっぱい、いろんな世界へと連れて行ってもらいました。
 いっぱい、音楽を運んでもらいました。
 いっぱい、輝きをもらいました。だから私、随分変わったと思うんです。
 明るくなりました。優しくなりました。強くなりました。──可愛くなりました。

 だから今日、それをお見せして「だいじょうぶですよ」、「私は頑張っていますよ」とあなたに言うのが、本当はそれが筋なのでしょうが────

11: 名無しさん 20/04/05(日)20:23:48 ID:2VC
 でも、私は見せたかったのです。
 あの頃となに一つ変わっていない私を。
 なにも失わないでいる私を。
 あなたが好きな、そのままの私を。

 私は見て欲しかったのです。
 ありふれた毎日の今日。どこでもない、何にもないここで。
 
 他のだれでもない、あなたに。

12: 名無しさん 20/04/05(日)20:24:22 ID:2VC


 しばらくすると、丘の下あたりからよく知った声が聞こえてきました。
「楓さん────。」

 低く沈むような声色からは少しの焦りを感じました。連絡がつかなかったことに対してなのか、それとも少し待たせてしまったことに対してなのか、はたまたその両方なのか。
 でも、その声の太い芯(こころ)に、いっぱいの親愛の情が込められているように感じられました。これだけで、今日ここにきた意味があるというものです。

13: 名無しさん 20/04/05(日)20:24:35 ID:2VC
 少し体を伸ばして、大きく息を吐きます。それと同時に、風が一際強く吹きました。それがなんとも心地良くて、私は草はらに背中を預け、空を見上げます。
 雲の動きは街で見るよりも一層早く。でも、ずっとずっとゆっくり、心に染み込みました。

「プロデューサーさん────。」

 なにをして、なんて言いません。両手をまっすぐ、あなたの方へ。いまさら恥ずかしがるようなことなんてなにもありませんから、こんな貴重な機会を逃したりはしません。
 ……でも、あんまり女性にばかり意思表示をさせているのは良くないですよ。

 ね、プロデューサーさん。
 だから、早く────。

14: 名無しさん 20/04/05(日)20:25:19 ID:2VC
 ……あなたはちょっとためらいがちに、私の指先に触れ。私はそれがもどかしくて、指先から指へ、そして手へとその熱を伝えます。あなたの額に汗が浮かんでいるのが見えました。きっと今の私たちの姿を見られたら、と恐れているのでしょう。大丈夫ですよ、誰も見ていません。
 見られていたとしても、気にしません。

 でも確かに、今の私の顔はあまりにしまりがないような気もします。仕方がないことなのだけど、でもあなた以外にそれを見られるのは少し恥ずかしいかも……あ。恥ずかしいこと、ありましたね。

 だからあなたを引き寄せて、背中に腕を回したのです。

15: 名無しさん 20/04/05(日)20:25:34 ID:2VC
 ……むむむ。予想以上に、なにがなんやらと言う顔を浮かべていますね。これは結構、傷つきます。感情表現の方法としてはストレートなつもりでしたが、まだ足りませんか? だったらまだ奥の手が────あ。

 なんだ。やっぱり、伝わっているじゃないですか。
 その真っ赤に染まった耳が、何よりの証拠です。

 満足したので、奥の手を披露するのは今日は置いといてあげましょう。……わ、私の方にも準備が必要ですから。

 さて。プロデューサーさん。それでは。
 なにも言わないと決め込んでいましたが、それでもやっぱり、して欲しいから。

「プロデューサーさん……。」

16: 名無しさん 20/04/05(日)20:25:46 ID:2VC

 
 呆れるほどやさしい──春の手触りが、心を埋め尽くしました。
 柔らかいそれはふれたらほどけて、ふわりと消えてしまって。
 風は一瞬強くなったけど、やはり静かで。明日へ向かって私の手を握ってくれました。
 空は少しだけ高く。雲は音もなく流れていきます。遠く、おそく。とおく、遅く。
 目をつむると、花のにおいが私たちを包んでいるかのようでした。

 








17: 名無しさん 20/04/05(日)20:31:21 ID:2VC
以上です。

拙作『雨色伝導』https://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1574001717/l50
の実質的な続編ですのでこちらを読んでいただければより一層楽しんでいただけるかなと思います。もちろん本作単体でも大丈夫ですが。

他には最近こんなものを書いていました(最近の3つです。渋には掲示板に載せていない作品もあるので厳密ではありませんが)。
これらも含め、過去作もよろしければぜひ。
よろしくお願いします。


【シャニマスss】あなたからもらった卒業証書【小宮果穂】https://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1585452423/l10

【モバマスss】腹ペコシスターの今日の一品;唐揚げ丼【幕間】https://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1584976001/l10

【モバマスss】Fairy tale を歌って 【三船美優】
https://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1582990294/l10