1: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:09:57.345 ID:2wjSt7+f0NIKU
はじまるよー
こわくないよー

よっといでー

引用元: ・o川*゚ー゚)o素直キュートは敗北を知りたいようです

3: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:10:59.529 ID:2wjSt7+f0NIKU
私は生まれながらに勝者だった。
他者よりも恵まれた美貌、才能。
他者よりも恵まれた知識、家庭。

誰もが私を認め、誰もが私に憧れた。
誰もが私に平服し、誰もが私に捧げた。
私は人生の勝者だった。






――敗北は、まだ知らない。

4: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:11:41.105 ID:2wjSt7+f0NIKU
.




         o川*゚ー゚)o素直キュートは敗北を知りたいようです




.

6: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:13:13.030 ID:2wjSt7+f0NIKU
朝。
目が覚めると、私はいつも夢を思い出そうとする。
でも、一度だって思い出せた試しがない。

海外出張に行っている両親が残した高層マンションの一室で目を覚まし、私は枕元で振動しているスマホを手に取った。
当初、女子高生に一人暮らしをさせる両親には一縷の不満があったが、今ではもう慣れた。
高校三年生の私にとって、一人の時間はとても大切なのだ。

七月。
それは高校三年生にとって、進路について考えを固め、行動をしていなければならない時期。
私も多分に漏れず、その行動をしている一人だ。

o川*゚-゚)o「……」

目覚まし機能をオフにして、私は布団からのそりと出る。
電気ケトルでお湯を沸かしている間にトースターに厚切りのパンを突っ込み、適当な時間熱する。
マグカップに乱暴にインスタントコーヒーの粉を入れ、砂糖を大匙一杯入れる。

ほとんど機械的にこなす一連の動作は、私にとって排泄行為をするのと同じぐらいの日常的な行動だった。
うっすらときつね色になったトーストを取り出して皿に乗せ、スプーンですくったいちごジャムを分厚く乱暴に乗せる。
ケトルからお湯をマグカップに注ぎ、ジャムのついたスプーンで混ぜる。

大人っぽいから、という理由で飲み始めたコーヒーは未だに美味しいとは思えない。
砂糖を入れているから飲めるようなもので、ブラックでは決して飲めないし、飲もうとも思わない。
テレビをつけ、適当な番組の適当なニュースを眺めながらの朝食。

(-@∀@)『近隣住民によれば、白装束の集団が両手を広げながら走っており……』

栄養を摂取するというよりも、腹を満たすための食事を終え、サプリメントを飲み下す。
洗顔や歯磨き、身なりを整え、最後にセーラー服に身を包んでから私の登校が始まる。
家を出る前に玄関の姿見で全体のバランスを確認し、笑顔を浮かべる。

o川*゚ー゚)o (にこーっ)

笑顔。
これが、私の武器だ。
この世界を私らしく生き抜くための武器。

子供の頃から私が身に付け、勝利をもたらし続けてきた絶対の武器。
銃や刃物が整備を怠ればその性能を発揮できなくなるのと同じで、私の笑顔も整備が必要なのだ。
愛想と笑顔は私の身を守り、私を勝者たらしめる絶対の存在だ。

7: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:15:40.059 ID:2wjSt7+f0NIKU
玄関を開けると、夏の朝の空気が私を出迎えた。
学校までは徒歩で十数分のところにある。
私はゆっくりと歩き、すれ違う同じ学校の生徒に笑顔を向ける。

o川*゚ー゚)oニコッ

(;^ω^)「ひゅー! キュートさんの笑顔見ちゃったお!
     今日は一日ハッピーだお!」

(;'A`)「やっべ、先走ってパンツが濡れた……!」

(;^ω^)「ドクオ、股間にモノポールテントが張ってるお!
     早く鎮めないとまた通報されるお!」

(;'A`)「ふぅ……ふぅ……
   俺のアルトバイエルンが……弾けそうだっ……!」

男子生徒たちが何か騒いでいるが、私は気にしない。
銃を扱う人間がその威力を知っているように、私も自分の笑顔が異性にどのような効果を与えるのかを熟知している。
雨が上から下に落ちるように、至極当然の反応が返ってきているだけなのだ。

教室に入ってからも、私は笑顔を絶やさない。
人がいる時、私は常に笑顔でなければならない。
そうある限り、世界は私の味方であり続けるのだ。

授業も無難に受け、学校での一日が過ぎる。
卒業に向かって進む一日の大切さを身に染みて感じる毎日。
学生生活は楽しい。

楽しいけど、私は物足りなさを感じていた。
変化を求めて行動をするも、私が欲する結果は得られないままだ。
部活に入ればエースになり、格闘技では異性でさえ圧倒し、勉強に撃ち込めば全国のトップに名を連ねる。

でも、頂上からの景色だけではつまらなかった。
学校で一番のイケメンとされる人からの告白も、私の胸を高鳴らせることはなかった。
何もかもがむなしい日々。

充足感とは無縁の日々。
砂の上に水を注いでもすぐに吸い込まれるか、あるいは、蒸発するかのように。
満たされない毎日は、私にとっての日常だった。

進路を考える段階で、私は無難に四年制大学を選ぶことにした。
指定校推薦を使えば、私は枠のある大学ならどこでも確実に通る自信がある。
品行方正、成績優秀、職員室での覚えもいい。

9: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:16:52.448 ID:2wjSt7+f0NIKU
学校でさえ、私に敗北を教えることはできていなかった。
私の毎日は勝利と敗北を求め続ける渇きで彩られているのだ。

(,,゚Д゚)「えー、こんな時期だが海外からの転校生を紹介する」

珍しい時期に現れた転校生。
金髪で彫りの深い転校生だった。

爪'ー`)「やぁ皆、初めまして。
    僕はフォックス、フォックス・マクドナルドだ。
    パパはある国の王様でね、僕は王子さまってやつなんだけど、気にしないで接してくれ」

('A`)「言葉が堪能だ!!」

lw´‐ _‐ノv「王子様だって!! でも気取らないところが素敵!!」

(*゚ー゚)「ルックスもイケメンだわ!!」

だが、私はまるで興味を抱かなかった。
むしろ、何をしにこの学校に来たのか、という理由の方が気になる。
王子様であればもっとふさわしい学校があるだろうに。

ぼんやりとそんなことを考えていると、フォックス君が私の目の前に来ていることに気が付いた。

爪'ー`)「そこの可愛いお嬢さん、僕と結婚してくれないか?
    一目ぼれしてしまったんだ!!
    君のためなら地位もいらないし、プライドだって捨てるよ!!」

私を見て、彼はそう言ってきた。
内心で溜息が出た。
クラス中から黄色い歓声が上がった。

ノパ⊿゚)「情熱的だ!!」

o川*゚ー゚)o「お友達でもごめんなさい」

ノパ⊿゚)「辛らつだ!!」

爪'ー`)「そうか……でも、僕は諦めないよ!!
    僕の想いは、絶対に変わらないから」

ノパ⊿゚)「タフだ!!」

o川*゚ー゚)o「あはっ、道化としては及第点だね」

ノパ⊿゚)「容赦なし!!」

10: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:17:37.963 ID:2wjSt7+f0NIKU
そんな感じで日々が過ぎ、一学期の終業式の日となった。
その日もいつもと同じように登校し、友人と談笑した。
終業式の際、校長が放った一言がその後の私の人生を変えるとは、この時は思ってもみなかった――

/ ,' 3「昨今、少子高齢化だとか経済がどうのとか言われているが、そんなものはどうでもいい。
   勉強だけにかまければいいのか?
   部活だけに注力すればいいのか?

   否、断じて否!!

   学生とは何か今一度思い出せ、若人よ。
   学生は国を作る礎。
   礎とは即ち、根底の力。

   社会人では出来ないことが、諸君らには出来る。
   青春をしよう!!
   そうだ、青春だ!!

   青い春に!! このときめきの中に身を投じるのだ!!」

――当然、終業式はこれまでにない混沌と共に終わった。
成績表を受け取り、午前中でLHRが終わり、私は友人と共にファミレスで昼食がてら打ち上げを行った。

ノパ⊿゚)「それでさ、キュート、転校生とはどうなのさ」バクバク

山盛りポテトフライを頬張りながら、ヒートがそう言った。

o川*゚ー゚)o「何にもないよ?」

川 ゚ -゚)「財力知力権力、三拍子そろった男だぞ」

ソーダフロートを食べながらそう言ったのはクール。

o川*゚ー゚)o「うーん、私ああいう人好きじゃないのよねー」

lw´‐ _‐ノv「ならどんな男がいいのさ」

白米地獄盛りを食べつつ質問したのはシュール。
私達四人は偶然にも同じ苗字ということもあって、一年生の時からの付き合いだった。
まるで姉妹のように仲が良く、素直四姉妹、などと言われることがある。

三年生の今、その四人がまるで嘘のように一つのクラスに収まっているのは奇妙な運命さえ感じていた。

o川*゚ー゚)o「うーん……」

私に敗北を教えてくれる人。
と言っても、きっと友人たちには理解されないだろう。
家族にさえ言っていない、私だけの拘りなのだ。

o川*゚ー゚)o「私の好きな人かなっ!」

ノパ⊿゚)「乙女だねぇ!! 全くキューは乙女だねぇ!!」バクバク

12: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:20:17.794 ID:2wjSt7+f0NIKU
山盛りの唐揚げを食べつつ、ヒートは注文用のタブレットで別のメニューを注文した。
アルバイト代の大半を食事に充てている彼女は、常に何かを食べている印象がある。
食べっぷりが気持ちよく、何でも美味しそうに食べるので私はそれが好きだった。

陸上部のエースで、女子高生としての記録をいくつも持っているらしい。
三人の中で私が一番好きなのが彼女だ。
裏表なく、思ったことを垂れ流しにすることに目を瞑れば極めていい友人である。

川 ゚ -゚)「告白してきた男全部振ってきたんだろ?
     一体どんな好みをしてるんだ、お前は」

o川*゚ー゚)o「うーん、分かんないや」

これは本当だ。
好み、という括りはない。
敗北さえ教えてくれるのであれば、私は喜んでその男に付き従うだろう。

敗北を教えることが出来れば、の話だが。

lw´‐ _‐ノv「ひょっとして、女が好きかもね」

o川*゚ー゚)o「あー、その可能性は考えてなかったなぁ」

一時期はそんなことも考えたが、やはり、同性を恋愛対象としては見られない。
かといって、積極的に異性に興味があるかと言えばそうでもない。
私は果たして、何が好きなのだろうか。

むしろ、恋愛とは何なのだろうか。
青春とは何なのだろうか。
疑問ばかりが頭の中に渦巻いて、答えが出てこない。

ノパ⊿゚)「まぁさ、好きになったら仕方ないじゃん!!」バクバク

注文していたチャレンジメニューの山盛りハンバーグを豪快に食べながらヒートが口にした言葉は、確かにその通りだった。
同性愛者だろうが異性愛者だろうが、結局のところ好きになってしまえばそれまでなのだ。
つまり、好きになった人間はそれまでのアイデンティティなどに関わらず、恋の前に敗北するのだ。

そう、敗北できるのだ。
恋愛こそが、私に残された最後の可能性なのかもしれない。
とはいえ、転校生については全く惹かれる要素がない。

青春を謳歌できる時間は、もうそこまで残されていない。
キャンパスライフとやらにも期待はできない。
所詮は有象無象の集まりになる大学生活。

青春とやらとは程遠く、更には心が感じる高揚感も少ないだろう。

o川*゚ー゚)o「そうだねー」

13: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:21:25.576 ID:2wjSt7+f0NIKU
適当な相槌を打って、私はその話題をうやむやにした。
答えの出ない話題で話しても仕方がない。
話題は夏休みの過ごし方について自然に切り替わった。

川 ゚ -゚)「オープンキャンパス巡りだ。
     このアプリを使って10か所巡ると、図書カードがもらえるんだ」

lw´‐ _‐ノv「へぇ、いくら?」

川 ゚ -゚)「10万円分」

ノハ;゚⊿゚)「そんなに?!」

o川*゚ー゚)o「すっごい太っ腹じゃん!」

川 ゚ -゚)「ちなみに交通費の差額を考えても、9万5千円は私の儲けになる。
     下手なバイトよりよっぽど儲かるぞ」

ノパ⊿゚)「あたしもそろそろ進路考えないとなー」バクバク

川 ゚ -゚)「学食巡りして決めるのもありだな、ヒートの場合」

lw´‐ _‐ノv「確かに。 学食は学生を支える大切な要因。
       ライス単品と軽食の有無は極めて重要」

o川*゚ー゚)o「そっか、ご飯も考えないといけないんだよね」

弁当を作るだけの体力的な余裕がない私は、必然的に外で食事を摂ることになる。
通学時間もそうだが、そういった生活部分での視点を忘れていた。
いい気づきになった。

川 ゚ -゚)「後は受験方法だな、推薦方式か一般か」

lw´‐ _‐ノv「キューは別として、後はバカしかいないからね」

ノパ⊿゚)「あたしはスポーツ推薦しかないな!!」バクバク

o川*゚ー゚)o「全国大会の常連なら、色んな大学に行けそうだね」

ノパ⊿゚)「選べるのはいいんだけどさ、あたし運動以外ダメじゃん!!
    勉強するために大学行くのに、頭の良い所行っても大変じゃないかなーって!!」ズゾゾー

川 ゚ -゚)「食べるか喋るか、どっちかにしろ。
     どれだけ食べるつもりなんだ」

すり鉢の様な器に入った大盛チャレンジのラーメンを食べていたヒートはクーの言葉に答えた。
彼女は良くも悪くも単純で真っすぐだ。
だから、質問に対しては即答する。

彼女はそうする人間なのだ。
例え、口の中にラーメンが入っていたとしても、だ。

ノパ⊿゚)。゚ ・ ゚「無論、倒れるまで!!」

lw´‐ _‐ノv「ちょっ! 口の中のもの飛び出してる!」

ノパ⊿゚)「悪い! ごめん! 勘弁な!」

14: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:23:17.114 ID:2wjSt7+f0NIKU
紙ナプキンで机の上を拭いてから、またラーメンをすすり始める。
上に乗っていた五つの煮卵を平らげ、一口だけ汁を飲んでヒートはようやく満足げに溜息を吐いた。
メニュー表に乗っている重量が正しければ、麺だけで一キロはあったはずだ。

この細い体のどこにそれが収まったのか、いまだに彼女の身体構造が不明だった。
ともあれ、彼女はチャレンジメニューを二つ制限時間内に平らげたため、今日の飲食代は賞金で支払ってもお釣りがくることになる。
彼女が時折行う実益のある食事方法だった。

ノパ⊿゚)「ふー、腹いっぱい」

川 ゚ -゚)「フードファイターにでもなれるんじゃないのか?」

o川*゚ー゚)o「でもこれだけ食べてもヒートは太らないよねー」

ノパ⊿゚)「あぁ、何でか知らないけど太らねぇんだよ!
     おかげで胸も小さいまんまだ!」

lw´‐ _‐ノv「これで胸がデカかったら犯罪だよ」

それからカラオケに行って、私達は鬱憤と不安を払拭するように歌い狂った。
採点機能を使って勝負をしたが、やはり、私は敗北を味わうことは無かった。
だけど、みんなと歌うのは楽しかった。

夕方まで遊び、私達は学校の最寄り駅で解散した。
私は駅から徒歩で家に向かう途中で適当な食材を買い、ゆっくりと帰宅することにした。
夕飯ぐらいは自分で作るようにしているため、三食の中で最も力を入れている。




家に着くと、扉の前に見知らぬ子どもが座っているのが見えた。




o川*゚ー゚)o「あら? どちら様ですか?」



(=゚д゚)「……」



まるで猫の様に鋭く、宝石のように奇麗な金色の目をしている男の子だった。
小学校低学年だろうか。
腕も足も細く、顔はあまりにもあどけない。

15: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:24:21.688 ID:2wjSt7+f0NIKU
柔らかそうな頬には転んでついたような擦過傷がある。
短く刈り揃えた茶色の髪の毛は猫のそれを思わせるように柔らかそうだった。
全く知らない子供だった。

(=゚д゚)「……ツンおばさんからきいてないラギ?」

o川*゚ー゚)o「母さんが?」

(=゚д゚)「……」

男の子は何も言わなくなった。
ただ、じっと私の目を見つめている。
そこには不安の色がうかがえたが、泣き出したり狼狽したりする様子はなかった。

不思議な目をした少年だった。

o川*゚ー゚)o「君の名前は?」

(=゚д゚)「トラギコ、です」

o川*゚ー゚)o「トラギコ君、ね」

その名前を聞いた時、頭の中で引っかかる感触があった。
聞いたことがある名前だった。
数年前、母の妹に男の子が生まれた時だ。

出産祝いの為に家族で顔を出した時、私の指を握った赤ん坊の名前が確かトラギコといったはずだった。

o川*゚ー゚)o「あのトラギコ君か!
       津村さん家のトラギコ君?」

(=゚д゚)「う、うん」

o川*゚ー゚)o「こんなに大きくなったんだー、びっくりしたよ」

本当にびっくりした。
何故この家に来ているのかも含めてびっくりだ。
スマホを取り出し、アプリを使って家の鍵を開ける。

o川*゚ー゚)o「じゃあ、とりあえず中に入って」

(=゚д゚)「おじゃまします」

礼儀正しかった。
ひとまず彼をリビングのソファに座らせ、適当なテレビ番組を見ていてもらうことにした。

(=゚д゚)「あの」

o川*゚ー゚)o「なに?」

(=゚д゚)「手洗いうがいはしないラギ?」

o川*゚ー゚)o「おっ、トラギコ君偉いねぇ。
       じゃあお姉ちゃんと一緒に洗おうか」

17: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:26:45.584 ID:2wjSt7+f0NIKU
うっかりしていた。
子供の風邪は大病に至ることがあると聞いたことがある。
一応客人としてもてなす以上、彼の教育に悪いことは出来ない。

洗面所に連れて行き、使い方を教えた。
だが、彼は困ったようにこちらを見上げた。

(=゚д゚)「届かないラギ……」

o川*゚ー゚)o「じゃあお姉ちゃんが持ち上げてあげよう」

私の腰ほどの背丈しかない彼を持ち上げ、手洗いを補助する。
ハンドソープを使って指の一本一本を丁寧に洗い、洗い流し、タオルでふき取る。
その動作を見ていると、自分がもっと子供だった時のことを思い出す。

一つ一つの動作に意味を見出して実践していたころの気持ちは、今、どこにあるのだろうか。
うがいまで済ませ、私は彼を改めてソファに連れて行った。
自分の手洗いとうがいをするとき、いつもよりも丁寧にしたのは間違いなく彼の影響だった。

スマホに親からのメールが来ていた。

ξ゚⊿゚)ξ『件名:トラギコ君、来日』

件名だけで大体推測は出来たが、内容はその通りだった。
彼の両親が海外に一時的な出張をすることとなり、1週間、彼の面倒を私がすることになったのだ。
なるほど、と私は納得しつつも、動揺を隠せなかった。

私も夏休みに入るが、その僅かな間、彼の世話をしなければならないのだ。
小学生の扱いなど経験がない。
精々、地域ボランティアで菓子を配ったぐらいだ。

私一人でどこまで相手を出来るか分からないが、やるしかないのは明らかだった。
1週間。
私にとって、これまでにない夏が始まる予感がした。

o川*゚ー゚)o「トラギコ君、お姉ちゃんはご飯を作るんだけど、何か苦手なものはある?」

先ほどから私のことを見ていた彼に声をかけると、小さく首を横に振った。

(=゚д゚)「ないラギ」

o川*゚ー゚)o「分かった。
       一人でお風呂に入れる?」

(=゚д゚)「……」

18: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:27:46.713 ID:2wjSt7+f0NIKU
その無言が意味するところを、私は瞬時に理解した。
彼は一人で風呂に入れない。
しかし、それを言い出せないでいるのだ。

私は少し考え、彼の目線に合わせて屈んだ。

o川*゚ー゚)o「お姉ちゃんと一緒に入ろっか」

(=゚д゚)「えっと……あの……」

o川*゚ー゚)o「遠慮しなくていいんだよ」

(=゚д゚)゛

ややあって、トラギコ君は小さく頷いた。
さて、斯くして私は何故か彼を風呂に入れることになったのだが、当然、異性と風呂に入るなど父親と入って以来だ。
そこまで強張る必要もないだろうが、いささか緊張してしまう。

脱衣所で彼の服を脱がせ、洗濯籠に入れる。
つるつるの肌はまるで赤ん坊のそれだった。
無駄な毛もなく、人形を思わせる造形。

自分が男の子の体を凝視している現実を思い出し、私は急いで頭を振った。
自分自身もセーラー服を脱ぎ、それを洗濯籠に入れる。
これは後でクリーニングに出そう。

最後に下着も脱ぎ、一糸まとわぬ姿となって彼と共に浴室に入った。
極めて自然な形で彼が私の手を握り、傍に立っていた。

(=゚д゚)「お風呂、広いラギね」

確かに、我が家の浴室は広い。
そして新しい。
大人二人が入るのにも十分な広さがあるが、普段一人でしか使わない私にはその自覚が大分薄れていた。

o川*゚ー゚)o「うふふ、そう?
       それはトラギコ君がまだ小さいからかもしれないねー」

そう言いつつ、彼を椅子に座らせる。
私は彼の後ろに膝立ちになった。
シャワーの温度を調節し、ぬるいぐらいになったのを確認して。

o川*゚ー゚)o「これぐらい?」

(=゚д゚)「うん」

まずは髪の毛を洗おう。
なら、言わなければならないことは何か、を考える。

o川*゚ー゚)o「頭を洗うから、目を瞑って自分のおへそを見てね」

(=>д<)

素直に従うその姿が可愛かった。

19: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:29:26.883 ID:2wjSt7+f0NIKU
o川*゚ー゚)o「じゃあいくよー」

シャワーをかけ、髪全体を濡らしていく。
それからシャンプーを適量手のひらに乗せ、指の腹で優しく頭全体を洗っていく。
絹の様な柔らかい髪をしていた。

仕方のないことだが、彼の髪を洗う内に体が密着することになった。
その度に彼が体をよじるので、私はそれが楽しくなり、腕を使って彼の体を押さえてしまう。

o川*゚ー゚)o「こーら、動いたらちゃんと洗えないでしょ」

(=>д<)

本当に素直な子だった。
念入りに頭を洗い終え、シャワーで洗い流す。
顔に着いた泡を取り払い、トラギコ君が大きく息をした。

(=>д<)「ぷはっ」

o川*゚ー゚)o「よく我慢できたね、えらいえらい」

彼が何歳なのかは知らない。
だが可愛いものは可愛かった。
随分と久しぶりに心から人を褒めた気がする。

(=゚д゚)「……」

o川*゚ー゚)o「自分の体は洗えるかな?」

(=゚д゚)「うん」

私の使っているボディソープとボディスポンジを使って、彼は体を洗い始めた。
ぎこちなく、たどたどしい。
不慣れなのがよく分かる。

だが懸命に手を動かす姿は健気で微笑ましい。
子猫が毛づくろいをしているような、そんな姿だ。

白い泡に包まれた体をシャワーで洗い流してやると、見るからに柔らかそうな肌が現れる。

o川*゚ー゚)o「じゃあ、先にお風呂に浸かっててね」

(=゚д゚)"

私も体を洗い、髪を洗う。
彼の手前、簡単に済ませた。
一緒の湯船に浸かるが、二人で並ぶと流石に狭く感じる。

ぬるま湯が心地よい。
体の疲れが染み出す様だ。

21: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:30:49.842 ID:2wjSt7+f0NIKU
o川*゚ー゚)o「トラギコ君、こっちきて」

(=゚д゚)「?」

彼の小さな体を私の膝の上に乗せ、足を延ばす。
横に並ぶのではなく重なり合えば風呂を広く使える。

o川*゚ー゚)o「これで広くなったね」

(;=゚д゚)「あ……う……」

私の腕の中で彼は体を縮め、俯いた。
照れている様だった。
その様子が可愛らしく、私はもう少しからかってみたくなった。

o川*゚ー゚)o「こーら、ちゃんと肩まで浸からないと駄目だよ」

彼の肩を掴み、私の体に密着させる。
すべすべとした肌触りが気持ちいい。

(;=゚д゚)「わわ……わっ……」

o川*゚ー゚)o「トラギコ君は可愛いねぇ!!」

子犬や子猫とじゃれるように、私は彼を撫でまわした。
年の離れた男の子はあまりにも愛らしすぎた。

(=>д<)「ぐぅぅ……」

少し長めのお風呂となったが、私達は体を拭いて着替えを終え、リビングに戻った。
夕食は彼に合わせて予定からメニューを変え、ハンバーグにすることにした。
調理をする間、彼は私の傍から離れようとせず、準備を手伝ってくれた。

だが包丁を使わせるわけにはいかないため、タマネギの皮を剥いてもらった。
ペタペタと肉をこね、みじん切りにした野菜を入れて形を整える時に、再び彼の手を借りた。
熱したフライパンに入れ、ゆっくりと時間をかけて焼いてく。

その間にレタスとトマト、スナックエンドウを使ったサラダを作ってもらった。
彼は配膳も自主的に手伝うと言い出し、私はそのたびに彼を誉めた。
そうすると、彼は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべるのだった。

食事の準備が全て終わり、私達はテーブルに着いた。

o川*゚ー゚)o「いただきます」

(=゚д゚)「いただきます」

久しぶりに人と向かい合っての食事をした。
友人ではない人間と一緒の席で食事をすると、どうにも気が抜けてしまう。
何故だか、私は彼の前で気を遣おうと思えず、その一挙手一投足を見たい気持ちに囚われていた。

不器用に箸を握って、自分の手のひらほどもあるハンバーグを懸命に切る姿は見守りがいがある。
私が見ていることにも気づいていないのか、彼はハンバーグを頬張って顔を輝かせた。
小さな一口だった。

(=゚д゚)「んあー」

22: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:32:57.196 ID:2wjSt7+f0NIKU
その一口だけで彼はこれほどに笑顔を浮かべられるのだと思った時、私は自分の頬が緩んでいることに気づいた。
それは作り笑顔ではなかった。
私が武器として使っている笑顔ではなく、自然と溢れた笑顔だった。

友人にさえそう滅多に見せたことのない笑顔を元に戻そうとするが、全く体が受け付けない。
仕方なく私は食事をすることでどうにかそれを抑え込もうとするが、意味はなかった。
胸を満たす正体不明の温かな感情が私に多幸感を与え、笑顔を浮かべさせているのだ。

o川*゚ー゚)o「美味しい?」

(=゚д゚)「うん! 美味しいラギ!」

口の横にソースをつけながら、彼は即答した。
サラダも白米も、彼は小さな体にどんどんと収めていく。
気に入ってもらえたようで何よりだった。

どうして彼に気を許しているのかと、私はサラダを食べながら考えた。
子供だから、というのが大きな理由だろう。
子供は見たままを信じ、思ったままに行動する。

そんな彼の前で武器を使う必要性を感じないと本能が判断したのか、それとも、使うまでもないと判断したのか。
いずれにしても私は一人の時間以外で久しぶりに肩の力を抜くことができ、素のままの自分でいようと思った。

o川*゚ー゚)o「トラギコ君はもう夏休み?」

(=゚д゚)「うん、昨日からラギ」

o川*゚ー゚)o「それじゃあ宿題も出たのかな?」

(=゚д゚)「……うん」

o川*゚ー゚)o「自由研究?」

(=゚д゚)「そうラギ。 でもまだ考えてないラギ」

自由研究とはそんなものだ。
考えつく子供は考えつくが、そうでない子供には時間がかかる。
私も悩んだ記憶があるが、今では悩むことにさえ難儀する始末だ。

高校生の夏休みの課題を思えば、やはり自由研究の方が楽しかった。
与えられる課題よりも、自ら取り組みたいと思う課題の方が遥かにやりがいがある。
今となってはもう昔の話だが、いつか機会があればまたやりたいとは思っていた。

o川*゚ー゚)o「じゃあ、ご飯が終わったらお姉ちゃんと一緒に考えようよ」

24: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:34:52.669 ID:2wjSt7+f0NIKU
自分がここまでお節介な性格だったのかと、内心で驚いた。
預かっているからという責任感とは別の何かが、私の中でうごめいていた。
子犬や子猫相手に抱く感情ともまた少し違う。

守りたくなる、構いたくなる、そんな気持ちだ。
きっと母性本能的な何かがくすぐられているのだろう。
慣れていない感情に混乱しつつ、私は平静を装った。

(=゚д゚)゛

それから食事を再開し、二人で食器を洗った。
と言っても、彼に我が家のシンクは高いため、彼には私が洗った皿を拭いてもらうことにした。
小さな手が大きな皿を懸命に磨く姿に、私はまた胸がくすぐられる思いがした。

食後の紅茶とクッキーを用意して、私はソファの上彼を抱きかかえながら話をした。
テレビを点けてはいるが、私の視線も耳も、そして意識も全て彼に向けられている。
彼は私の膝の上で大人しく抱かれ、テレビに目を向けていた。

o川*゚ー゚)o「トラギコ君、何か好きなものはある?」

(=゚д゚)「んー」

少し考え、彼は口を開いた。

(=゚д゚)「空が好きラギ」

o川*゚ー゚)o「空かぁ」

(=゚д゚)「うん、空好きラギ」

o川*゚ー゚)o「じゃあ、空を自由研究してみようよ」

(=゚д゚)「どうやって?」

彼のつぶらな瞳が私を見上げる。
自由研究とは即ち、己の好きなものを突き詰めることのできる機会でもある。
それは子供の頃には分からないが、知識を得るにつれて膨れ上がる知識欲の解消の一番の方法でもあるのだ。

o川*゚ー゚)o「空を調べてみるんだよ。
       例えば、夜の空と朝の空って全然違うでしょ?」

(=゚д゚)「うん、そうラギ」

o川*゚ー゚)o「じゃあ、その間の空はどうなってるか知ってる?」

(=゚д゚)「……間?」

o川*゚ー゚)o「そう、間の空。
       夜でも朝でもない、間の空。
       ほら、トラギコ君の知らない空はたくさんあるんだよ」

(=゚д゚)゛

o川*゚ー゚)o「あっ、そうだちょっと待ってて。
       確かデジカメがあったはず」

26: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:36:09.396 ID:2wjSt7+f0NIKU
彼をソファに降ろし、私はリビングにおいてあるカラーボックスの中を漁る。
そこには去年の修学旅行の為に買ったデジカメが入っていた。
ミラーレス一眼のカメラを使った機会は後にも先にも旅行の時だけで、それ以降はずっとこうしてしまったままだったのだ。

充電は切れていたが、壊れてはいないはずだ。

川*゚ー゚)「トラギコ君、このカメラを使って研究をしようよ」
o【::◎:】o

(=゚д゚)「すごい、プロのカメラみたいラギ!!
    使っていいラギ?」

o川*゚ー゚)o「勿論いいよ。
       もし研究をちゃんとすることが出来たら、このカメラをトラギコ君にあげるよ」

どうせ私の手元に置いておいても意味のないものだ。
どうせなら彼に使い潰されたほうがカメラも喜ぶだろう。

(=゚д゚)「頑張るラギ!!」

ようやく、彼の緊張感の殻がはがれたと思った瞬間だった。

o川*゚ー゚)o「じゃあさっそく明日その写真を撮りに行こう。
       早くに起きるから、今日はもう歯を磨いて寝ようね」

来客用の歯ブラシを出して、一緒に歯を磨く。
彼はまだ拙いながらも、一生懸命に歯を磨いていた。

(=゚ -゚)シャコシャコ

o川*゚ー゚)oシャコシャコ

二人で洗面台の前に並んで歯を磨くが、鏡に映るのは私だけだった。
明日、踏み台を買ってこよう。
先に口をゆすいだ私は口の周りをタオルで拭い、彼に声をかけた。

o川*゚ー゚)o「こっちで仕上げをしてあげるから、ついておいで」

(=゚д゚)シャコシャコ

歯を磨きながら彼は頷き、リビングへと付いてくる。
私はソファの上に座り、膝を軽く叩いた。

28: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:38:28.311 ID:2wjSt7+f0NIKU
o川*゚ー゚)o「はい、ここに頭を乗せて」

(=゚д゚)シャコ

素直に私の膝に頭を乗せる。
彼の手から優しく歯ブラシを取り、私は彼の歯を磨き始めた。

o川*゚ー゚)o「はい、もっと口開けて」

(=゚д゚)「あー」

奥歯。
前歯の裏。
きっと行き届いていないであろう個所を、丹念に磨いていく。

小さな歯だった。
本当に小さく、子犬の様な口をしている。

o川*゚ー゚)o「はい、オッケー。
       お口をゆすぎに行こうね」

(=゚д゚)゛

洗面台の前で彼を持ち上げ、口をゆすがせた。

o川*゚ー゚)o「さっぱりした?」

(=゚д゚)「うん」

o川*゚ー゚)o「今日はお姉ちゃんと一緒に寝ようね。
       トイレは大丈夫?」

(=゚д゚)「あ、行くラギ」

o川*゚ー゚)o「一人で大丈夫?」

(=゚д゚)「大丈夫ラギ」

それでも少し心配な私は、彼を便座に座らせるところまでは手を貸した。
手をしっかりと洗わせてから、私は彼の背中を押すようにしてエアコンの効いた自室へと向かった。
幸いなことにベッドは彼と一緒に寝る分には問題のない大きさだ。

思えば、父親以外の異性をこうして自室に入れるのは初めてのことだった。
先にベッドに彼を寝かせ、その隣に並んで寝る。
薄手のタオルケットをかけ、リモコンで部屋の電気を消した。

暗闇の中、彼の体にそっと手を回す。
小さな胸をぽんぽん叩く。
その手を、彼の小さな手がぽんぽんと叩き返した。

29: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:39:23.772 ID:2wjSt7+f0NIKU
(=-д-)「おやすみなさい」

o川*゚ー゚)o「お休み、トラギコ君」

彼の体は暖かく、エアコンで少し冷えた体を温めてくれるようだった。
私もそっと瞼を閉じる。
修学旅行の時もそうだったが、私は基本的に誰かと一緒に眠りにつくことはできない。

常に心が起きてしまっている状態になってしまう。
友人でも、家族でも、
いつからか私は、一人でなければ眠れないようになってしまったのだ。

だからこうして彼を抱いてはいるが、常に神経が周囲の音や変化を察知し、瞼を閉じた私の脳裏に周囲の光景を思い描かせるのだ。
彼の胸に乗せた手が感じるのは鼓動と、上下する小さな体。
耳は吐息と鼓動を聞き取り、身じろぎするたびに聞こえる布擦れの音が彼の体の動きを如実に物語る。

窓の外から虫の声が聞こえる。
夏の夜。
とても気持ちのいい、夏の夜の音だった。

それからどれくらいの時間が経ったのかは分からないが、彼はいつの間にか私の手を握りしめていた。
小さな手が生み出す力は驚くほど小さく、それは脆く感じられた。
瞼を降ろしたままでも分かる。

彼はまだ心細いはずなのだ。
親と離れてほぼ知らない人間と共にいるのだ。
私はゆっくりと彼を抱き寄せた。

気が付けば、私は彼の寝息に合わせて呼吸し、彼の温もりを感じることに安らぎを覚えていた。
こうしているだけで幸せな気分になってしまうのはどうしたわけか。
そして、眠気の中に沈み、私の意識はすっかりと暗闇に消えてしまった――










――次に意識が目覚めたのは、枕元に置いていたスマホの振動音のせいだった。







.

30: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:45:28.336 ID:2wjSt7+f0NIKU
o川*゚ー゚)o「……」

マジか、と私は思わざるを得なかった。
家族以外の人間がこれだけの距離にいながら眠ることが出来たのは、私の記憶がある内では初めてのことだった。
アラームを止め、私と抱き合っていたトラギコ君の背中を軽く叩く。

(=-д-)「にゅぅ……」

私にしがみつくようにして、体をよじる。
このまま一緒に惰眠をむさぼりたいところだが、そうはいかない。
私にも理性はあるし、それに、この時間帯に起きるのは彼に朝と夜の間を見せるためでもあるのだ。

o川*゚ー゚)o「起きて、トラギコ君」

彼に声をかけ、体を揺さぶる。
私の胸に顔を押し付け、小さな抵抗をする。

o川*゚ー゚)o「ほら、一緒に空を見に行こうよ」

(=-д-)「んー」

私は彼を強く抱きしめ、それから名残惜しくも体を離そうとした。
だが彼の小さな手足が私の体を掴み、放そうとしない。

o川*゚ー゚)o「こーら」

(=-д-)「まだ眠いラギ……」

o川*゚ー゚)o「じゃあこのままお姉ちゃんが着替えさせちゃうよ?」

(=うд-)「自分で出来るラギ……」

もそもそと私から離れるも、ベッドの上で半身を起こすだけで動きが止まる。
そんな彼を軽く持ち上げ、私達は洗面所に行き、顔を洗って口をゆすいだ。

(=うд゚)「おはよー」

o川*゚ー゚)o「おはよう、トラギコ君」

自分で持ってきた着替えを広げ、彼は慣れない手つきで着替えを始めた。
まだ窓の外は暗く、日の出はまだだった。
必要なものはカメラだけなので、支度はすぐに済んだ。

寝ぼけてふらふらしている彼の手を引いて、私達は家を出て屋上へとエレベーターで向かった。
住人だけが使える屋上は、私が考え事をしたりするのに気に入っている場所だった。
無駄に高い家賃を払っているだけあって、その景色は壮観だ。

街全体が眠る、不思議な時間。
暗く、灰色の世界が広がっている。
虫の声もほとんど聞こえず、鳥の鳴き声さえ聞こえない。

31: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:46:46.288 ID:2wjSt7+f0NIKU
車の往来もなく、風の音が大きく聞こえる。
空には月が浮かび、まだ星が見える。
地平線の向こうには山の影や、別の街のビル群が見えた。

(=゚д゚)「おー」

彼はさっそくカメラを構え、写真を撮り始めた。
私はスマホで時間を確認し、そして、言った。

o川*゚ー゚)o「さぁ、トラギコ君――」

彼が私を見る。
完璧に計算した私の演出を、気に入ってくれるだろうか。

o川*゚ー゚)o「――ようこそ、夜でも朝でもない世界へ」

私の背中側から、日が昇る。
それは極めて幻想的な、蛹から蝶の羽が覗きだすような光景。
限りなく白に近く、黄金色の太陽が地平線の果てから顔を覗かせる。

太陽のある方角の空が一気に色を変える。
夜を押しのけ、朝が顔を見せたのだ。
しかし、夜はまだ半分残されている。

星空と月が残る瑠璃色の夜空は、灰色とスカイブルーの混じった朝空に徐々に世界を塗り替えていく。

(=゚д゚)「……」

彼は言葉を失ったまま、シャッターを切った。
やがて、世界が夏の空へと姿を変えていく。

o川*゚ー゚)o「どう?」

(=゚д゚)「す……」

o川*゚ー゚)o「す?」

(=゚д゚)「すげぇ……ラギ……」

o川*゚ー゚)o「でしょう?
       そしてこれが、早朝の空」

私達の頭上に広がるのは淡い青をした空だ。
ここから色づき、世界は夏になっていくのだ。

(=゚д゚)「空って、凄いラギ!!」

32: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:47:26.314 ID:2wjSt7+f0NIKU
どうやら眠気は覚めたようだ。
彼の目は興奮と朝日に輝き、水晶のように光を反射している。

o川*゚ー゚)o「ふふっ、朝ごはんを食べたらまた空を見に行こうね」

(=゚д゚)「うん!」

私達は家に戻り、朝食を摂ることにした。
その日の朝食は久しぶりに力を入れた物になった。
彼がテレビを見ている間、私はホットサンドメーカーを取り出した。

パンにマヨネーズとケチャップ、少量のタバスコと胡椒を混ぜたソースを塗る。
その上にハムとレタスと薄切りにしたトマト、そしてたっぷりのモッツアレラチーズをのせて細切りにしたピーマンを入れる。
彼がピーマン嫌いだったとしても、最後に私が振りかけたカレー粉がその苦みを消してくれるはずだ。

薄らとバターを塗ったホットサンドメーカーでじっくりと焼く間に、ケトルを使ってお湯を沸かす。
夏とは言っても、家の中は冷房が効いているため暖かい飲み物が美味しく感じられる。
彼用のマグカップに砂糖を入れると、湯が沸いたことをケトルが知らせる。

ティーポットに湯とティーバッグを入れ、時間が来るのを待つ。

(=゚д゚)「おねーちゃん、何か手伝うラギ?」

いつの間にか、私の傍に彼が来ていた。
私の足に寄り添うようにしているため、私は自然と彼の頭を撫でた。

o川*゚ー゚)o「ううん、大丈夫。
       トラギコ君は紅茶には牛乳を入れるかな?」

(=゚д゚)「おねーちゃんは入れるラギ?」

o川*゚ー゚)o「うん、私は入れるよ」

(=゚д゚)「じゃあ入れるラギ」

すっかり彼に懐かれたようで、私は彼の頬をフニフニと触って言った。

o川*゚ー゚)o「トラギコ君は可愛いねぇ!!」

(=゚д゚)「むー」

o川*゚ー゚)o「ふふっ、もうちょっと待っててね」

ホットサンドメーカーを少し開いて、焼き具合を確認する。
奇麗なきつね色になり始めたのを見て、私はまず彼のマグカップに牛乳を入れた。
次いで、ティーポットからマグカップにそっと紅茶を注ぐ。

o川*゚ー゚)o「じゃあ、トラギコ君はこのマグカップを持っていってくれるかな?」

(=゚д゚)「うん!」

33: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:53:25.500 ID:2wjSt7+f0NIKU
両手でマグカップを持ち、慎重に歩いていく彼の背中を見送り、私はコンロの火を止める。
計算通り、美味そうな焦げ目の付いたホットサンドが出来上がったのを確認し、私はそれを耐熱まな板の上に取り出す。
包丁を使って斜めに切り分け、平皿に盛り付けた。

湯気がまだ出ている内にリビングへと運び、彼のマグカップの隣にそれを置いた。

o川*゚ー゚)o「はい、お待たせ。
       熱い内に食べてね」

(=゚д゚)「おねーちゃんの分は?」

o川*゚ー゚)o「今から作るよ。
       すぐに出来るから、先に食べててね」

(=゚д゚)「……分かったラギ」

席に着いて、彼はホットサンドを掴む。
そして、大きく口を開けて齧り付いた。
彼が咀嚼するたび、ざふ、と子気味のいい音がする。

(=゚д゚)ざふざふ

o川*゚ー゚)o「美味しい?」

(=゚д゚)゛ざふ

ホットサンドを食べながら頷く。
小動物じみた彼の仕草は何度見ても可愛いと思えるものだった。
胸をくすぐられるような気持ちのまま、私はキッチンへと戻り、自分のホットサンドを用意した。

昨夜のサラダの余りを使った野菜多めのホットサンドは、店では決して食べられまい。
野菜の瑞々しさを殺すような調理法だが、私はしなびたレタスの食感も熱されたトマトも好きだった。
ピーマンを生のまま使うことで食感は補えるし、何よりホットサンドにすれば大抵のものは美味くなるのである。

じりじりと焼く中、私は視線を感じてリビングに目を移す。

(=゚д゚)ざふざふ

彼が私のことを見ながら、ホットサンドを頬張っていた。

o川*゚ー゚)o「なぁに?」

(=゚д゚)「美味しいラギ!!」

o川*゚ー゚)o「それは良かった。
       火傷しないように気をつけてね」

34: 名無しさん 2020/11/29(日) 19:57:24.673 ID:2wjSt7+f0NIKU
自分のホットサンドが焼き上がって持っていく頃には、彼は半分を食べ終えていた。
一口が小さく、リスが木の実を食べるように少しずつしか口に入らないのだ。
男の子らしい食べ方であると同時に、まだまだ子供なのだと感じさせる食べ方でもあった。

これから彼は男の子から男になるのだろう。
今にしか見られない、貴重な姿だ。

(=゚д゚)ざふ

o川*゚ー゚)o「いただきます」

久しぶりにそう言って、私も朝食を食べ始めた。
バターの香りのするホットサンドを一口噛むと、ザクザクとした歯ごたえが最初に私を迎えた。
香ばしく焼き上がったパンの表面はなめらかで、甘味と塩味が絶妙な塩梅をしている。

中に閉じ込められていた瑞々しい野菜のエキスがチーズと共にあふれ出し、甘く、酸味のある液体が口中に広がる。
トマトとレタスの相反する食感の間にピーマンの確かなそれを感じつつ、チーズとソースが織りなす圧倒的な味の情報が私の口を支配する。
甘い、苦い、しょっぱい、少し辛い、最後にカレーの風味。

味の情報量が多いにも関わらず、それぞれの味が独立しているために、私の舌が混乱することはない。
しなびたレタスの独特の食感が私は好きだが、熱されたトマトの風味もたまらない。
モッツアレラチーズとトマトの組み合わせはどうしてこうも美味いのだろうか。

水気が多く、食べるたびに汁が滴るのが難点だが、それもまた味の一つだ。
このホットサンドは具材全てをパンで包み、一つの料理として完成している。
まともに料理をした朝食は久しぶりだったが、やはり、悪くないものだ。

o川*゚ー゚)o「んー! 美味しいねぇ」

(=゚д゚)「おねーちゃんは凄いラギね」

o川*゚ー゚)o「ふふん、お姉ちゃんだからね」

二人でとる朝食は、いつも食べている味気のないものとは違って、体と心に染み渡った。
紅茶もコーヒーとは違って苦いだけのものではなく、香りと風味がしっかりと分かる。
充実した食事と彼の賛辞に、心も満たされる。

o川*゚ー゚)o「うん、お茶が美味しい」

(=゚д゚)「かーちゃんのお茶よりも美味しいラギ」

o川*゚ー゚)o「あははっ、それは言いすぎだよ。
       でもありがと、トラギコ君。
       この後はどんな空を撮りに行こうか」

(=゚д゚)「うーん…… あの空を見たいラギ」

そう言って、彼は窓の外を指さした。
その指の先――遥か先――には白く、大きな入道雲が浮かんでいる。
恐らくは海の方に浮かんでいる雲だろう。

o川*゚ー゚)o「いいねぇ、いい雲だね。
       じゃあご飯を食べて歯を磨いたら、一緒に行こうね」

35: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:06:28.220 ID:2wjSt7+f0NIKU
街を二つ、三つ越えた先にある港町に行けばいい空が撮れるだろう。
私達がつく頃にはその雲がどうなっているかは分からないが、子供の頃、確かに雲を追いかけてみたい気持ちがあった。
いつしかそれは諦めとなり、見るだけで満足している自分がいた。

(=゚д゚)「走って行けばどれくらいラギ?」

子供ならではの発想だった。
多分私も自分が子供だった頃は、自転車があればどこまでも行けると思っていた。
今でもそれは思っているが、実際問題、かなり体力を消費するので現実的ではないことを知っている。

o川*゚ー゚)o「この日差しの中歩いたら熱中症になるから、バスで行こう。
       バスなら一時間ぐらいで着くよ」

(=゚д゚)「バス!」

子供にとって、世界はあまりにも巨大なもので満ちている。
彼ぐらいの背丈であれば、バスやトラックは見ているだけで好奇心が満たされるのだろう。

o川*゚ー゚)o「うん、バスだよ。
      海の方まで行くバスなんだ。
      確か、小学生なら夏休みの間は50円でどこでも行けるはずだよ」

(=゚д゚)「海の方に行くラギ?」

o川*゚ー゚)o「そうだね、あの雲はきっと海の方にあると思うの。
       それに、海の方の空とこっちの空の違いも見られるでしょう?」

(=゚д゚)「そうラギね! 水着とかいるラギ?」

o川*゚ー゚)o「海で遊ぶなら水着があった方がいいかな。
       持ってきてるの?」

(=゚д゚)「ううん、持ってきてないラギ」

o川*゚ー゚)o「なら水着なしで遊ぼうよ。
       夏だからすぐに乾くよ」

(=゚д゚)「いいラギ?!」

o川*゚ー゚)o「勿論。 お姉ちゃんも久しぶりに海で遊びたいし、一緒に遊ぼうよ」

去年は友人たちと海で遊んだ記憶があるが、あまり童心にかえることはできなかった。
高校二年生という立場が私に矜持というものを抱かせ、同級生に弱みを見せるような行為を許容しなかったのである。
今では彼女たちが無害であるということを認識しているため、多少はこちらの素を見せることが出来ている。

しかし、ただの同級生や異性の前では私は常に仮面を被り、弱みなどは見せないようにしている。
彼の前ならば別に弱みの一つや二つを見せたところで、私にとってはあまり気にならない。
すでに彼の前では熟睡をするという最上級の弱みを見せているため、何をしても今更なのだ。

o川*゚ー゚)o「じゃあお昼ご飯は海で食べようか。
       何か食べたいものはある?」

(=゚д゚)「おねーちゃんの料理が食べたいラギ!」

o川*゚ー゚)o「私の料理でいいの?
       今なら海の家とかあるから、屋台のご飯も食べられるよ」

37: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:09:25.929 ID:2wjSt7+f0NIKU
この世代の子供にとって、外食は魅力のあるもののはずだ。
私の向けた言葉に対して、彼は首を横に振った。

(=゚д゚)「ううん、おねーちゃんの料理がいいラギ!
    昨日のハンバーグも、今日のサンドイッチも美味しかったラギ!」

o川*゚ー゚)o「あははっ、ありがとう。
       でもいいの?
       海の家なら、焼きそばとか焼きもろこしとか何でもあるよ?」

やはり彼は首を縦には振らなかった。

(=゚д゚)「おねーちゃんのご飯がいいラギ」

o川*゚ー゚)o「分かった、そこまで言うなら作るね。
       サンドイッチでもいい?」

(=゚д゚)「うん! 手伝いたいラギ!」

o川*゚ー゚)o「ふふっ、ありがとう。
       それじゃあ、お茶を飲み終わってから作り始めようか」

サンドイッチであれば、簡単な食材で作ることが出来る。
大した調理の手間もないため、彼に手伝ってもらうのは容易だ。
食後の茶を飲み終えた私たちは歯を磨き、昼食の準備に取り掛かった。

パンの表面にバターを薄く塗り、レタスを敷いてその上に好みの具材を乗せていく。
私達はウィンナーやハム、ツナマヨネーズを具に選び、パンにはさんでラップで包む。
最後に保冷剤と共にタッパーに入れ、昼食の準備が整った。

よく冷えた麦茶を魔法瓶に入れ、そこに一つまみの塩と砂糖を入れる。
一度私は自室に戻り、服を着替える。
水着の上に着ていく服は海で遊びやすいよう、ゆとりのあるものを選んだ。

伸縮性の素材で作られたジョガーパンツ。
半袖のシャツの上に、薄手の長袖パーカーを着る。
海水で汚れても、この服装ならば気にならない。

二人分のビーチサンダルをビニール袋に詰め、その上にお弁当と水筒をボックスリュックに入れ、準備が整う。
私は最後に麦わら帽子を被り、部屋を出た。

(=゚д゚)そわそわ

野球帽を被ったトラギコ君が玄関の前で落ち着かない様子で立っていた。

o川*゚ー゚)o「準備はいい?」

(=゚д゚)「うん!」

私達は手をつないで、家を出た。
夏の日差しが降り注ぐ中、吹き付ける風が心地よい。
初夏の風。

今年は酷暑にならないといいが、果たして、どうなることだろうか。
トラギコ君の小さな手が私の手を強く握る。
歩幅も小さい彼に合わせて、私はいつもよりもゆっくりと歩く。

セミの声があちらこちらから聞こえてくる。
そうして私は、嗚呼、夏休みなのだなと感慨深く思うのだった。

38: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:12:38.804 ID:2wjSt7+f0NIKU
(=゚д゚)「何でセミって鳴くラギ?」

o川*゚ー゚)o「人と同じで、おしゃべりしたいんだよ」

(=゚д゚)「へぇー」

o川*゚ー゚)o「でもね、人と同じでみんなそれぞれ言いたいことがあるからこうなるの。
       私達が使っている言葉と英語があるように、セミにも色々な言葉があるんだって」

(=゚д゚)「なるほど!」

セミの生態について細かな説明をしたところで、彼の記憶には残らないだろう。
大切なのは興味を持つきっかけが作れるかどうかだ。
もしも彼がこの話で興味を持てば、セミの鳴き声の正体を探ろうとするだろう。

そうでなければ、事象の一つとして受け入れるだけである。

(=゚д゚)「おねーちゃんは本当に何でも知ってて凄いラギ!
    どうやったらそうなれるラギ?」

o川*゚ー゚)o「ふふっ、ちゃーんとお勉強すればこうなるよ」

(=゚д゚)「じゃあ、俺もおねーちゃんみたいになれるラギ?」

o川*゚ー゚)o「勿論。 私よりもずーっと凄い人になれるよ、トラギコ君なら」

(=゚д゚)「頑張るラギ!」

o川*゚ー゚)o「うんうん、期待してるよ」

それから間もなく、私達はバス停に到着した。
バス停には私達だけだった。
私の予想通りにバスはすぐに来て、私達は後ろの方にある席に並んで座った。

勿論、彼を窓際に座らせた。

(=゚д゚)「おおー」

彼はバスの中から見る景色に興奮している。
普段よりも高い位置から見下ろす世界は、確かに、この歳になっても多少は心が躍る物がある。
彼ぐらいの年齢なら、それに興奮をあらわにするのは無理からぬ話だ。

時間となり、バスがゆっくりと発車する。
ゆったりと動いてロータリーを出て、海に続く道を優雅に走り出す。
彼は窓の外を流れていく景色を見ては、私に質問をした。

(=゚д゚)「あの橋、何て書いてあるラギ?」

o川*゚ー゚)o「あれは“しばふばし”、って書いてあるんだよ。
       上から読んでも下から読んでも、しばふばし」

(=゚д゚)「へぇー!
    何でしばふばしって言うラギ?」

40: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:14:10.133 ID:2wjSt7+f0NIKU
o川*゚ー゚)o「昔は川の水が汚くて、藻がまるで芝生みたいに見えたから、っていう話だったはずだよ」

(=゚д゚)「今は奇麗ラギ?」

o川*゚ー゚)o「うん、すっごく奇麗な川になったんだよ。
       だからほら、水の下に魚が見えるでしょ?」

(=゚д゚)「ほんとだ! 蟹もいるラギ!」

o川*゚ー゚)o「そこまで見えるんだ、トラギコ君は目がいいねぇ」

(=゚д゚)「おねーちゃんは見えないラギ?」

o川*゚ー゚)o「そうだね、蟹までは見えないなぁ」

(=゚д゚)「へぇー」

それからまた、彼は別のことに興味を移し、その度に私といくつかやり取りをした。
一方的に聞かれ、答える。
同級生とのコミュニケーションではあまり経験することのないやり取りだったが、苦痛ではない。

彼が感じる疑問はあまりにも純粋で、まっすぐな物ばかりだ。

(=゚д゚)「あの鳥はどうして羽を動かさないで飛べるラギ?」

o川*゚ー゚)o「風とお友達だからだよ」

(=゚д゚)「じゃあ、俺も友達になれば飛べるラギ?」

o川*゚ー゚)o「結構気難しいから、友達になるのは大変かもね」

(=゚д゚)「気難しい?」

o川*゚ー゚)o「お話が苦手、ってことだよ」

(=゚д゚)「そっかー」

彼の見る世界には未知が溢れている。
私の見る世界には既知が溢れている。
それは絶妙なバランスの関係性だった。

気を遣うのではなく、私が答えたいという気持ちで彼の質問に答える時間は気持ちのいいものだった。

(=゚д゚)「どうしておねーちゃんの髪はそういう色ラギ?」

彼の興味の対象が私に移り、私が幼少期から何度も受け続けてきた質問が彼の口から出てきた。
この国の人間とは違う、亜麻色の髪。
そして、空の色をそのまま映したかのような瞳もまた、他の人とは違うものだった。

o川*゚ー゚)o「これはね、私のお母さん譲りの髪の色なの。
       亜麻色っていうんだよ」

41: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:16:12.117 ID:2wjSt7+f0NIKU
(=゚д゚)「あまいろ? 甘いラギ?」

o川*゚ー゚)o「ふふっ、糸の色の名前だよ」

(=゚д゚)「じゃあ、目の色も同じラギ?」

o川*゚ー゚)o「これは天色っていう色で、空の色だね」

(=゚д゚)「同じ言い方するラギね」

o川*゚ー゚)o「そうだよ、同じ読み方で違う意味があるんだよ」

(=゚д゚)「奇麗ラギ! ずっと見ていたいラギ!」

o川*゚ー゚)o「本当? ありがとう、嬉しいな」

(=゚д゚)じー

彼の目が私の瞳を見つめる。
汚れのない、つぶらな瞳。
次に彼は空を見て、それから再び私を見て言った。

(=゚д゚)「空の色よりもおねーちゃんの目の方が奇麗ラギ!」

o川*゚ー゚)o「あははっ、トラギコ君は嬉しいことを言うねぇ。
       でも、空の色はいつも変わるからそうとは言い切れないんじゃない?」

(=゚д゚)「あっ……そうか」

これが女たらしの男であれば否定するところだろうが、彼はそういった類の人間ではない。
疑問は素直に受け入れ、素直に考えるのだ。
彼はカメラで空の写真を撮って、それから言った。

(=゚д゚)「じゃあ、もっとたくさん空を調べるラギ!」

o川*゚ー゚)o「そうだね、たくさん調べてお姉ちゃんにも教えてね」

(=゚д゚)「分かったラギ!
    おねーちゃんの写真も撮っていいラギ?」

o川*゚ー゚)o「私の? 別にいいけど、どうして?」

予想外の質問だったため、私は反射的にその目的を訊いていた。

(=゚д゚)「おねーちゃんの写真があれば、空と比べられるラギ!」

o川*゚ー゚)o「なーるほどね。
       それならいいけど、奇麗に撮ってね」

(=゚д゚)「おねーちゃん奇麗だから大丈夫ラギ!」

o川*゚ー゚)o「ありがと、トラギコ君」

42: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:19:23.644 ID:2wjSt7+f0NIKU
そうこうしている内に、窓の外に見えてくる景色が姿を変え始める。
海の近くにある街独特の幅の広い道路、変わった街路樹、防砂林が見られるようになった。
すれ違う車に積載されている物が自転車からサーフボードになったのもまた、海が近づいている証拠だった。

防砂林の道が続く中、私はこれからのことについて考えを巡らせた。
彼との時間は私にとって、人生を道に例えるならばちょっとした寄り道みたいなものになると思っていた。
寄り道は楽しむための物であり、余計な考えなどは持ち込まないのが一番だ。

しかし、私の中で彼との時間は寄り道以上の価値を持ち始めていた。
自分自身の再発見、あるいは、忘れていた何かを思い出す時間になっていた。
失ったのは何だったのか。

敗北を知りたいと思ったのはいつからなのか。
もう、それは遠い昔のことのように思える。
まだ18年しか人生を生きていないのに、私は多くを知りすぎたせいで達観した、あるいは斜に構えた人間になってしまったのかもしれない。

彼といると、私は自分を見つめ直すことが出来る。
この一週間はきっと、私が私を見つけるための有意義な時間になることだろう。

(=゚д゚)「あっ! 海ラギ!」

そして、私達の目の前に大きな海が現れた。
群青色からエメラルドブルーの色彩を持つ海は、圧倒的な透明度を誇ることで知られ、国内外を問わず多くの人間を虜にしている。

(=゚д゚)「すげー奇麗ラギ!!」

興奮したまま窓に貼り付く彼をなだめながら、私も窓の外を眺める。
白波はほとんどなく、穏やかな波が広がる景色。
白い砂浜は大勢の人間で賑わいを見せている。

o川*゚ー゚)o「奇麗だねー」

(=゚д゚)「何でここの海って青いラギ?
    前に見た海は黒かったラギ」

o川*゚ー゚)o「奇麗でそこまで深くない海は青いんだよ」

海水浴場近くのバス停で降りて、私は興奮で走り出しそうな彼の手を握った。
子犬のごとく走り出そうとする様子を隠さず、彼は信号待ちの横断歩道でそわそわとする。

(=゚д゚)そわそわ

o川*゚ー゚)o「ちゃんと青信号になるまで待たないと駄目だよ」

(=゚д゚)「待つラギ!」

o川*゚ー゚)o「手を挙げるんだよ?」

(=゚д゚)ノ「挙げるラギ!」

挙動の全てが素直で可愛らしかった。
まだ赤信号だったが、彼は必死に手を伸ばして己の存在を主張する。
その姿が愛おしく、思わず私は笑顔になり、一緒に手を挙げた。

信号が青に切り替わり、一歩を踏み出す。
私の一歩は彼の二歩。
焦って踏み出す彼の一歩でさえ、私の一歩には届かない。

43: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:21:46.940 ID:2wjSt7+f0NIKU
だがいつかは、その歩みが私を追い越す日が来るのだろう。
それが人間なのだ。
肉親でもないのにこのような感慨を抱く自分を内心で嘲笑し、私達は浜辺へと進む。

(=゚д゚)「砂白いラギ!!」

o川*゚ー゚)o「ねー、白いねー!」

砂に足を取られながら、私達は空いている場所を探す。
日影がある場所が一番なのだが、流石にほとんどの場所が家族連れに取られている。

(=゚д゚)「どこに座るラギ?」

o川*゚ー゚)o「そこにしようよ、パラソルもあるし」

それは海の家が貸し出しをしているパラソルと椅子、机のセットだった。
時間で貸し出しをするもので、場所取りに失敗したりそれを煩わしいと思った人が利用するものだ。

(=゚д゚)「使っていいラギ?」

o川*゚ー゚)o「ふふん、お姉ちゃんに不可能はないんだよ」

見るからに海の家の店員の男に手を振り、こちらに呼び寄せる。

(’e’)「はい、何でしょう?」

o川*゚ー゚)o「このパラソル一式の場所を使いたいんだけど、いくらですか?」

(’e’)「1時間500円ですよ。
   でも、お姉さん奇麗だからおまけしちゃおうかな」

o川*゚ー゚)o「いいんですか?
       それなら5時間で1500円にしてください」

(’e’)「え」

o川*゚ー゚)o「えー? ダメなんですか?」

(’e’)「さ、流石にその値段じゃ俺が怒られちゃうよ」

o川*゚ー゚)o「じゃあ、1800円で」

こうして私はいくらか安い値段で日陰付きの場所を確保することが出来た。
荷物を降ろし、まずはパーカーを脱いで半袖シャツ一枚になり、ジョガーパンツを脱ぎ、黒い水着になる。
貴重品を防水のポシェットに移してから靴をビーチサンダルに履き替え、それから準備運動をする。

しっかりと準備運動を終えてから、私たちは海へと小走りに向かう。
上着を脱いだトラギコ君は私よりも先を駆け、波打ち際に着くなり、両手両足を海水に浸した。

(=゚д゚)「冷たいラギ!!」

o川*゚ー゚)o「ほんとだ、冷たいね!!」

44: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:25:08.555 ID:2wjSt7+f0NIKU
私も彼と同じように両手両足を海に入れ、その冷たさと透明度に感嘆の声を上げる。

(=゚д゚)「でも、水が青くないラギ」

海水を手ですくい、それを私に見せる。

o川*゚ー゚)o「水は人の手の上では青くなれないんだよ」

(=゚д゚)「そうなんだー」

そして彼はずんずんと沖に向かって歩いていく。
服が濡れるのも構わず、ただ、透明度の高い海というものを目の前にしてじっとしているのが無理なだけなのだ。
心が高ぶっているのを抑えるなど、彼の年齢を考えれば無理な話だ。

だから私もそれに合わせて、上着を着たまま彼の後ろをついていく。
服が濡れていく感覚が久しぶりだったが、悪いものではない。

o川*゚ー゚)o「あんまり遠くに行くと流されちゃうから、お姉ちゃんと一緒にいてね」

(=゚д゚)「分かったラギ!」

だが彼は止まらない。
自分の胸まで海水が来ても、彼は笑ったままだ。

(=゚д゚)「おおっ!!」

恐れを知らないのだろう。
目の前にあるのは彼にとって初めての物。
恐れよりも好奇心が勝り、好奇心は彼の体を動かす。

ついに首まで海水が来たところで、彼は歩みを止めた。

(=゚д゚)「おー!!」

o川*゚ー゚)o「じゃあ、ここから一緒に行こうね」

私は彼を持ち上げ、ゆっくりと沖に進んでいく。

(=゚д゚)「おっおっおっ!!」

o川*゚ー゚)o「どんどん行くから、私にしっかり掴まっていてね」

(=゚д゚)「わ、分かったラギ」

つま先立ちになっていた私は、ゆっくりと立ち泳ぎに切り替える。
彼は私の首にしがみつき、興奮と恐れの入り混じった感情で海を味わっていた。

(=゚д゚)「す、すげー!!
    空も海も奇麗ラギ!!
    あ!! 向こうにあの雲があるラギ!!」

45: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:28:26.911 ID:2wjSt7+f0NIKU
指さす先には巨大な入道雲が見える。
純白の雲が青空に映え、雲に見える陰影が形状を物語る。
圧倒的なまでの存在感。

その巨大さは、人間では到底到達できない自然の造形物だ。
例え同じ高さのビルが出来たとしても、同じ感慨を抱くことは無いだろう。

o川*゚ー゚)o「本当だね!!
       でも、お姉ちゃんじゃあそこまで泳ぐのは無理だなぁ」

(=゚д゚)「ちぇー 残念ラギ」

o川*゚ー゚)o「一度戻って写真を撮ろっか」

(=゚д゚)「もう少しここにいたいラギ」

o川*゚ー゚)o「分かった、じゃあもう少し泳いでいようか」

私達は抱きしめ合いながら海を漂う。
彼は世界を。
私は、彼と世界を眺める。

波の音。
風の音。
二人分の息遣いと、遠くに聞こえる喧騒。

余計なことを考えなくて済む、極めて素晴らしい時間。
誰かの目を気にしないでいい。
私は今、私の為にこの時間を使っていいのだ。

体が冷える前に、私は名残惜しくもその時間を手放すことにした。
浜にゆっくりと戻り、彼の足がつく程の浅瀬に来ても彼は私から離れなかった。

o川*゚ー゚)o「ほら、もう足つけられるよ」

(=゚д゚)「このままが良いラギ!!」

o川*゚ー゚)o「甘えん坊さんだったかぁ」

(=゚д゚)「むー」

o川*゚ー゚)o「あははっ! 今はまだいいんだよ、トラギコ君。
       でもいつかは君が誰かにやってあげるんだよ」

(=゚д゚)「うん!!」

47: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:30:24.260 ID:2wjSt7+f0NIKU
パラソルのところに戻り、彼を椅子の傍に降ろす。
彼はカバンの中からカメラを取り出して、入道雲を撮影した。

(=゚д゚)「えーっと」

o川*゚ー゚)o「撮ったやつを見たいの?」

(=゚д゚)「うん」

o川*゚ー゚)o「ここを、こうして」

撮影後の写真を見ると、入道雲は遠くの海に浮かんでいる様だった。

(=゚д゚)「うーん、さっき見た空が良いラギ」

o川*゚ー゚)o「となると、もう一度海に行かないとね」

だが、私のカメラはせいぜいが防滴。
防水性能は勿論だが、海水への耐性はゼロ日に等しい。
濡れなければいいだけの話だが、波は予想できるものではないため、彼を連れて行ったところで上手くいく自信はない。

(=゚д゚)「おねーちゃん、肩車してラギ」

o川*゚ー゚)o「なるほど、それならうまくいくかもしれないね」

失敗する可能性を最初から考慮しないのは、彼がそれを知らないからだ。
知らないからこそ挑むことのできる発想力。
カメラが壊れたとしても、それは彼にとって一つの学びになるのならばいいだろう。

使わないカメラにも、最後に役割が与えられるのだ。
紐を彼の首にかけ、カメラが落ちないようにする。
それから私は彼の前で屈み、上に乗るように促す。

(=゚д゚)「よい、っしょ」

小さく、細い足が私の肩に乗せられる。
ゆっくりと立ち上がり、私は彼の足をしっかりと掴んだ。

o川*゚ー゚)o「しっかりと掴まっててね」

(=゚д゚)「うん!!」

そして、私は走り出した。

(=゚д゚)「うわわわわ!!」

私の上から嬉しそうな笑い声がする。
海に入ると、流石に速度は落ちた。
ざぶざぶと、私は沖へと進んでいく。

  (=゚д゚)「おねーちゃんすげぇ!!」
o川*゚ー゚)o「あはは!!」

49: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:35:27.517 ID:2wjSt7+f0NIKU
今までに賛辞を浴びることは腐る程だった。
絵を描けは表彰され、作文を書けば国の最高権力者から賞状をもらった。
いつしか賛辞は当たり前の物になり、私はいつしか手を抜くという努力を覚えてしまった。

誰かの為ではなく、自分の為にやっていたことが、いつしか周囲の期待が重圧になっていたのだ。
今は違う。
彼の口から出る賛辞は、私にとって何よりも気持ちのいいものだった。

それは私が幼少期に感じていた、もう忘れていたと思っていた感覚だった。
忘れていた多くの感情、感覚の一つがまた私の胸の中で蘇る。
私は――

o川*゚ー゚)o「さぁ、行けるところまで行くから写真は任せるよ!!」

(=゚д゚)「分かったラギ!!」

――私は、自分のためだけに笑顔を浮かべていた。
これまでに張り詰めていた緊張の糸が失われ、私の心は自由になった。
彼を支えたまま泳げるところまで、私は自分を試したくなった。

そこに勝敗はない。
私は私自身を知るために。
そして、知らないことを知るためだけに、前に進んだ。

蒼穹の下、私の上で、トラギコ君は必死にシャッターを切る。
彼の目に映る光景がそのまま写真になることは無い。
しかし、シャッターを切った時、彼の目に映る景色は彼の心に刻まれる。

それが何年先まで残るのかは分からない。
例え短い時間だったとしても、それを思い出せるうちは彼の心は常に高揚することだろう。
夏の景色が、彼にこの時間と光景を思い出させるきっかけになれば、それはとても素晴らしいことだ。

それから私達は空を撮り、遊び、そしてまた空を撮った。
気が付けば正午となり、昼食をパラソルの下で食べ始めた。

(=゚д゚)「美味しいラギ!!」

ツナマヨサンドを食べて、トラギコ君は大きく喜びの声を上げた。
夏の日差しの下で失われた塩分が、ツナマヨサンドを通じて補給されていく。
麦茶もミネラルを適度に私たちの体に流れ込み、失われた物を補う得も言われぬ感覚に酔いしれる。

自分で作っておいてなんだが、やはり、美味くいったと言わざるを得ない。
たまごサンドとツナマヨサンド、そしてハムチーズサンドのコツはマヨネーズの分量に尽きる。
分量を誤れば途端に魅力を失うが、今回は海で遊んだ際に失われる塩分を計算に入れていた為、体にしみ込む味わいになった。

たまごサンドには胡椒とマスタードを隠し味にし、ツナマヨサンドは刻んだピクルスが隠し味になっている。
ハムチーズサンドについては、余計な足し算をしないことでそれぞれの素材の味が引き立ち、さっぱりとした味わいになっていた。
私が用意したサンドイッチは瞬く間に彼の胃袋へと消え、私が予想していた以上の数を平らげてくれた。

(=゚д゚)「ごちそうさまでした」

o川*゚ー゚)o「お粗末様でした」

50: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:37:32.642 ID:2wjSt7+f0NIKU
海風に当たりながら、しばらくの間二人で腰かけたまま海を眺める。
思い出したようにトラギコ君は海と空の写真を撮り、それを見直した。

(=゚д゚)「ねぇ、おねーちゃん」

o川*゚ー゚)o「なぁに?」

(=゚д゚)「空って、凄いラギね」

o川*゚ー゚)o「うん、凄いよ」

人類が未だに踏破していない場所は世界中に山のようにある。
むしろ、踏破した場所よりも知らない場所の方が多いぐらいだ。
こうして足を降ろしている地上は勿論だが、海に至ってはそのほとんどがまだ解明されていない。

では、空はどうなのだろうか。
海と違って視認することも、自由に行き来する道具を民間人が使って探索できる場所。
そこに秘密は何もないのだろうか。

本当に、何もないのだろうか。
遥か上空で雲の様子を見下ろす人工衛星。
不審物を即座に認識する高性能レーダー。

それらにさえ認識されない何かがないとは、果たして、誰が断言できるのだろうか。
入道雲に人が惹かれる原理さえ解明できない人間に、何が言えるというのだろう。
世界中をつなぐ唯一の道である空を見上げるも、私の子供じみたこの考えは少しも落ち着かない。

知識を得るたび、私は諦めることが多くなっていた気がする。
かつては夢を見ていた。
その夢が実現する過程とその後を知り、私は夢に対して期待をしなくなった。

大人になるということはある意味で、夢に勝利する一方で現実に敗北している人間のことなのかもしれない。
彼を見ていると、私は今の自分が酷くみじめに思える。
彼の目には世界は不思議で溢れ返り、その向こうに無限の可能性を見ている。

私はどうだ。
私が見ている世界は、あまりにも無味乾燥とした退屈な物ばかり。
同じものを見ているのに、この差は何だろう。

私はどこで道を間違えたのだろう。
空を見て心が躍る気持ちを思い出すまでに、私は何を得て何を失ったのだろう。

52: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:39:26.320 ID:2wjSt7+f0NIKU
(=゚д゚)「どうやったら飛行機に乗らないで空を飛べるラギ?」

o川*゚ー゚)o「うーん、ジェットパックを背負うとかかなぁ」

(=゚д゚)「そーいうんじゃなくて、自分の力で飛びたいラギ」

o川*゚ー゚)o「羽があればいいんだけど、まだ誰も成功したことがないんだよねぇ。
       あっ、それならさ、トラギコ君が発明してよ!」

(=゚д゚)「俺が?」

o川*゚ー゚)o「うん、トラギコ君が。
       誰も成功したことがないなら、自分で作っちゃえばいいんだよ」

(=゚д゚)「うーん……
    そうラギね!! 俺作るラギ!!」

空に思いを馳せ、自らの力で空を駆けようと思った人間は歴史上大勢いる。
その一つの完成形が飛行機であり、ヘリコプターであり、ジェットパックでもある。
しかし、空を飛ぶための道具は大型で騒音を発し、結局は道具による力で飛んでいるに過ぎない。

自力で飛ぶために多くの人間が鳥の羽を模した道具を使ったが、そもそも人間の筋力では空を飛ぶことはできない。
結局は力の問題に直面し、諦めてきた。
人類にとって、空は敗北の歴史に満ちたものであり、妥協によって偽りの勝利を得た相手だ。

私でさえも、空に思いを馳せ、それが叶わないと知った人間の一人だ。
つまり私は、いつの間にか空に負けていたということなのだろうか。
そう思うと、敗北を常に求め続けている私の生き方というのは虚しいものにしか思えない。

夢を追うのを諦めるようになったのは、ひょっとしたら、敗北を知りたい半面でそれを恐れていたのかもしれない。
私の夢は、果たして何だったのだろうか――

o川*゚ー゚)o「そしたらさ、私も空を飛びたいから教えてね」

(=゚д゚)「うん、絶対に教えるラギ!!」

53: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:41:10.684 ID:2wjSt7+f0NIKU
彼の決意が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
それは未来の話であるが故に、誰にも予想は出来ないのだ。
私でさえ、彼の未来については期待をすることしかできない。

夢は永遠ではない。
だが同時に、可能性は際限がない。
これから先、彼の人生が何に影響を受け、どのように変わるのか。

それは、誰にも分からない。






(=゚д゚)「そしたら、おねーちゃんと結婚してあげるラギ!!」






満面の笑みで、彼は唐突にそう言った。
私はその言葉が嬉しく、そして、おかしかった。
今まで、いやになるほど聞いてきた告白の言葉の何よりも嬉しかった。

しかしそれは子供の言葉だ。
結婚の意味も、ましてや恋の意味もほとんど理解していない言葉。
一生のお願いと同じぐらい曖昧であやふやで、確証のない言葉だ。

そんな言葉に私の心は動かされたのかと思うと、たまらなく自分がおかしいのだ。




o川*^ー^)o「っ……あはははっ!!
       それは本当に楽しみだなぁ。
       いいよ、もしトラギコ君が私と一緒に空を飛んでくれたら結婚してあげるよ。

       ただし、私がおばさんになる前によろしくね」




(=゚д゚)「絶対ラギ!! 約束ラギ!!」




o川*゚ー゚)o「うん、約束だよ。
       ところで、今日の晩御飯は何が食べたい?」




(=゚д゚)「カレーが食べたいラギ!!」

54: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:43:35.826 ID:2wjSt7+f0NIKU
それから、私達は再び海で遊び始めた。
砂で城を作ったり、浅瀬にいる魚を見たり。
泳ぎ方を教えたり、童心に帰って彼と一緒に世界を眺めた。

陽が沈む前に、私達はバスに乗って帰ることにした。
遊び疲れたのか、彼はバスの中ですぐに眠りに落ちた。

(=-д-)

o川*゚ー゚)o

私の膝の上で横たわり、すやすやと寝息を立てる彼。
海水でべたついた髪にそっと手を乗せ、私は頭を撫でた。
小さな体なのに、その体温は空調の効いたバスの中でも熱いぐらいに感じる。

結局、バス停についても彼は寝たままだったので私は彼を背負って家路につくことにした。
背中に感じる確かな重みと吐息。
いつか彼が世界を変えるかもしれないと思うと、その存在はあまりにも尊い。

家に入ってから彼を起こし、一緒にお風呂に入る。
海水で汚れた体を奇麗にしてから、二人で無水カレーを作った。
トマト缶を使ったカレーを彼は喜んで食べ、そして、再び眠気に誘われてうつらうつらとする。

八時前だったが、私は一緒に歯を磨き、一緒の布団に入った。
日差しと海で遊んだ影響は、小さな体の力にかなり出ている様だった。
私は彼をそっと抱き寄せ、瞼を降ろす。

静かな夜。
幸せな夜。
私はまた、ゆっくりと眠りの世界に落ちていく。












――私たちが一緒に過ごす夏の日々は、瞬く間に過ぎ去った。








.

56: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:46:20.965 ID:2wjSt7+f0NIKU
一緒に夜空を見に行った。
一緒に山の上から街を見下ろした。
一緒に川に行った。

一緒に森に行った。
一緒に街に行った。
一緒に起きて、一緒に寝て。

一緒に食べて、一緒にお風呂に入って。
一緒に笑って、一緒に驚いて。
私は余計なことも、難しいことも考えないでただひたすらにその時間を楽しんだ。

そして最終日。
彼がこの家に来たのと同じように、彼は一人で家に帰るという。
一緒に駅まで行き、電車が来るのをホームで待つ。

彼の首には私があげたカメラがさがっていた。

(=゚д゚)「……」

o川*゚ー゚)o「……」

(=゚д゚)「うー」

o川*゚ー゚)o「どうしたの?」

(=゚д゚)「また遊びに来てもいいラギ?」

o川*゚ー゚)o「うん、いいよ」

(=゚д゚)「また一緒に海に行ってくれるラギ?」

o川*゚ー゚)o「うん、いいよ」

(=゚д゚)「またご飯作ってくれるラギ?」

o川*゚ー゚)o「うん、いいよ」

(=゚д゚)「また……」

彼は言葉を詰まらせ、私の足にしがみついた。
だから顔は見えない。
見えないが、声とズボン越しに感じる熱い液体の存在で表情は分かる。

(=;д;)「また会いたいラギ……」

私は両手をそっと彼の背中に回し、抱き寄せた。

o川*゚ー゚)o「うん……いいよ」

57: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:49:35.684 ID:2wjSt7+f0NIKU
私の中に悲しみはない。
あるのは、期待だけだ。
成長した彼がどのようになるのか、それを目撃できるという期待。

o川*゚ー゚)o「そっかぁ、トラギコ君は泣き虫だったのかぁ」

(=;д;)「泣いてないラギ……」

o川*゚ー゚)o「ふふふ、そういうことにしておいてあげるよ。
       さぁ、そろそろ電車が来るよ」

(=;д;)「うー」

o川*゚ー゚)o「お姉ちゃんとの約束、忘れないでね」

(=;д;)「うん……」

o川*゚ー゚)o「人に優しく、強くなるんだよ」

(=;д;)「うん……」

o川*゚ー゚)o「女の子を泣かせたらダメだよ」

(=;д;)「うん……」

o川*゚ー゚)o「もう、泣かない?」

(=;д;)「うん……」

o川*゚ー゚)o「よし、いい子だね」

強く抱擁し、私はゆっくりと彼を引き離した。
定刻通り、私の予想通りに電車がホームに侵入する。
彼の丁度背中側で扉が開く。

(=;д;)「またね、おねーちゃん」

o川*゚ー゚)o「……」

私は彼に微笑みかけ、その頬をそっと撫でる。
それから彼の体を反転させ、軽く背中を叩いた。

o川*゚ー゚)o「またね、トラギコ君」

(=;д;)ノシ

58: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:54:01.932 ID:2wjSt7+f0NIKU
泣きながら手を振るトラギコ君を見て、私の目頭が熱を持った。
最後まで涙を見せまいと、私はこれまでに数千回以上も練習してきた笑顔を浮かべようとする。
だけど。

だけど、私の顔が言うことを聞かなかった。

o川*゚-゚)o

(=;д;)ノシ

もう。
限界だった。
気持ちが、涙が、あふれ出す。

o川*;-;)o

一週間だ。
たった一週間一緒に過ごしただけの子供だ。
何を泣く必要がある。

泣いて何が得られる。
泣く必要など何もない。
涙など、必要ないのに。

どうして私の体は言うことを聞かないのだろうか。
どうして私は笑顔を浮かべられないのだろうか。
どんな時でも、私の武器として役割を果たしてきた笑顔が浮かべられない。

子供に向けて浮かべるのは笑顔だ。
笑顔があれば、彼は安心する。
彼が安心すれば、私の勝利でこの出会いは終わるのに。

o川*;ー;)o

無理矢理に浮かべた笑顔で、私は彼に小さく手を振る。
電車の扉が閉じ、彼の姿が見えなくなっても。
私は手を振り続ける。

やがて電車も見えなくなり、私は大きく息を吐いた。
きっと、今の私は酷い顔になっているだろう。
そして私は自覚した。

これが、私が自覚した最初の敗北なのだと。
今までにない感情が溢れ、私はしばらく呆気に取られていた。
これが敗北。

こんなにも、気分のいい敗北があるのか。
これまでに恐れ、望み続け、手に入れられなかった自覚のある敗北。


o川*;ー;)o「負けたなぁ……」


なぜ負けたのだろうか。
私はどうして、彼との別れをこれほどまでに惜しんでいるのだろうか。
一週間で私は何が変わったのだろうか。

嗚呼。
自分でも分からないという感覚が、私の心をこの上なく刺激しているのは分かる。
その正体が未知であると、すぐには思い至らなかった。

59: 名無しさん 2020/11/29(日) 20:57:15.519 ID:2wjSt7+f0NIKU
川*うー;)o

涙を拭う。
私が流した涙は、夏の風がすぐに乾かしてくれるだろう。
誰かに見られない内に家に帰ろうと、私は駅から走り出した。

走ることは好きではなかった。
だが今は走りたい気分だった。
走って、この心の燻ぶりを少しでも晴らしたい気持ちだった。

胸の苦しさがまぎれるような気がしたのだ。
実際、風を追い越すたびに私の胸は軽くなっていった。
ようやく出会えたことの喜びと、それを失うことの悲しみが同時に胸を引っ掻き回す。

走る。
走りたいから、走る。

o川* ー )o

もっと、もっと知りたい。
私は彼のことをもっと知りたい。
そして、この感情の名前を知りたい。






o川*゚ー゚)o






――私は彼に会って、また敗北を知りたいと強く望んでいた。

61: 名無しさん 2020/11/29(日) 21:01:15.023 ID:2wjSt7+f0NIKU
.











夏はまだ、始まったばかり。



















o川*゚ー゚)o素直キュートは敗北を知りたいようです END